◎二・二六の記録は、やはり東京地検にあった
原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)を紹介している。
「一 消えた裁判記録」の章は、「軍法会議の倉庫で」の節のあとに、「行方不明となった裁判記録」の節があるが、これは割愛し、本日は、最後の節「六十年ぶりの発見」の全文を紹介する。
六十年ぶりの発見
資料がたどった道筋は、まことに数奇なものといえる。
二・二六事件の判決をした東京陸軍軍法会議は、二・二六事件の処理だけのために特設された臨時軍法会議である。したがって事件終了とともに、同軍法会議は閉鎖され、後継の陸軍高等軍法会議が、相沢事件で死刑判決を受けた相沢〔三郎〕中佐の上告審判決とともに記録一切を保管していた。
この陸軍高等軍法会議は、敗戦にともない、昭和二十年〔1945〕十二月一日、第一復員高等裁判所と名前を変えて事件処理を続けていた。これにともなって、二・二六事件の判決書と、相沢事件の記録は、第一後員高等裁判所の所管となっていた。
ところが、昭和二十年十二月十八日、資料はすべて連合軍によって押収される。
連合軍はこの資料を、東京裁判の参考として使おうとしたのだろう。だが、結局は、裁判資料としては使われなかったようだ。
これを日本側に返還することになったのが、昭和二十二年〔1947〕九月である。ところが返却を受けるべき第一復員高等裁判所は前年に閉庁され、その所管は大審院や東京刑事地方裁判所などに分割して引き継がれることになっていた。この引継ぎ関係があまりに複雑なため、連合軍は日本側の窓口を司法省とし、刑事局に返還したのである。
当時の刑事局長であった国宗栄氏は、これを陸軍省の残務整理を担当していた第一復員局長に送付した。そして第一復員局から東京地検へ渡されたのである。
【一行アキ】
この通りだとすれば、裁判資料はその後も東京地検に保管されているに違いない。
弁護士という仕事柄、私は地検の幹部と会う機会もあった。そのたびに、
「二・二六事件の記録がおたくにあるようですね」
と尋ねた。ところが彼らは、
「そんなものは見たこともありませんよ」
と言う。
「一度、倉庫をひっくりかえして探してみてくださいよ」
「じゃあ、その内に見てみましょう」
「もしなかったら、あなたか、あなたの前任者が焼いたということになりますよ」
「いや、そんな資料を焼くはずはないと思いますけれど……」
そんなやりとりを、代々の検事正や次席と交したものだ。だが、「ありました」という知らせは、聞くことがなかった。
ところが、昭和も終わりとなるころ、法務省のさる幹部が、私に連絡をしてきたのである。 「二・二六の記録は、たしかに東京地検にありました」
「とうとう出てきましたか」
資料は、北区にある地検の施設の地下に眠っていたのだという。
ちょうど当時、既済刑事事件の記録を公開する「刑事確定訴訟記録法」という法律が成立したばかりであった。私は、もう一度この目で、記録を見てみたいと、心がはやった。
私はすぐに、「閲覧申請を出しましょう」と言った。
そして、平成五年〔1993〕の春、二・二六事件裁判記録は事件から約六十年たって初めて公開された。
文中、「北区にある地検の施設」とあるのは、東京地方検察庁第二庁舎のことであろう。インターネットで「東京地方検察庁 北区」と検索すると、「東京地方検察庁の沿革」という記事にヒットする。そこには、1968年2月、「北区稲付西山町に東京地方検察庁第二庁舎が開設され、交通部及び事務局、総務部、刑事部のそれぞれの一部が移転しました。」などとある。