◎私がまず閲覧したのは、判決原本である
原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)を紹介している。
本日は、「二 雪の二月二六日」の章のうち、〝残された「謎」〟の節を紹介する。
残された「謎」
【前略】
平成五年〔1993〕二月、東京地検で私は二・二六苇件の裁判記録と向かいあった。半世紀ぶりの資料との再会であった。思わず「久しぶりだなあ」という言葉が私の口をついて出た。
この記録と別れてからの私は、戦場で幾多の死線を越え、苟烈な戦後を経て、ひとりの老弁護士として生きている。
記録は、かつて私が見たときと同じように、麻糸で合本され、各冊の横腹に墨書された被告人の名前は、私に向かって「どうか読んでくれ」と叫んでいるように見えた。
青年将校が事件終結の日に自決しなかったのは、法廷で彼らの志を明らかにしたかったからである。それが果たされずに今日に至っていたのである。
私がまず閲覧したのは、判決原本である。これは、青山の軍法会議倉庫にもなかったもので、私にとっても初めて見るものだ。
判決原本は、死刑判决を受けた将校の部を第一に、真崎〔甚三郎〕大将まで計二十三部。和紙の陸軍用箋に、楷書でしたためられていた。録事が丁寧に筆で書いたものであり、私が見なれた録事の筆跡もあった。
私は、これまで誰の目にも触れたことのなかった証拠説明の部分から読んでいった。その中には、これまで公開されることのなかった現場検証調書、死体検案書、そして参考人、証人の供述調書からの引用が随所にみられた。
たとえば、判決文の中に引用された渡辺錠太郎教育総監邸の検証調書は、事件当日の邸内の様子についてこう記している。
「被害者渡辺錠太郎が西側床の間前に南枕にて仰臥〈ギョウガ〉しおり付近に巾一尺長さ一尺五寸の血痕ならびに血塊あり。同室押入〈オシイレ〉襖〈フスマ〉前に幅七寸、長さ一尺の血痕、一部血塊となりあり。同所角柱〈カクチュウ〉わきに長さ二寸余の骨片三個あり。周壁を検するに、東方襖に二個……上部欄干に十三個、北方襖及び壁上に三十個の弾痕認められ……骨片押入内に散乱す」
また、斎藤実〈マコト〉内大臣の死体検案書は次のように記す。
「全身に合計四十七箇所の弾痕あり、左側心臓部一箇所、右側前胸部四箇所、右側前額部一箇所の弾丸命中を以て致命傷となし、昭和十一年二月二十六日午前五時より同五時十分までの間に於いて死亡したるものと推定する」
斎藤内大臣の春子夫人は、
「士官一名兵四名位が寝室に侵入、発砲。私が押さえたのに拘らず、主人の倒れたる上より、 ポンポン射撃し立去りたり」(要約)
と供述し、夫人の診断書には、「弾丸三発の射入孔と認められる外傷……」との記載もあった。夫人は、現役の軍人に三発も射たれたのである。兵器を扱うことが専門の軍人、特に将校は、婦女子に対し誤ってもこのようなことはすべきではなかったろう。
こういったなまなましい描写は、六十年たった事件を一気に目の前によみがえらせるかのような迫力を持っていた。
【一行アキ】
この資料公開が、二・二六事件にどんな新しい光をあてるのか、詳しい解明については、歴史の専門家の研究に委ねるべきだろう。
ただ、資料を再読して、私自身がずっと「謎」としてわからなかったことのいくつかがこの資料によって解明され、納得することができたように思う。そのいくつかを記してみたい。
文中、渡辺錠太郎教育総監邸の検証調書を引用した部分に「欄干」とあるのは、「欄間」の誤記であろう。欄間(らんま)は部屋の中にあり、欄干(らんかん)は部屋の外にある。