◎米軍塔乗員処刑事件に問はれし我々は……
昨日の話の補足である。『二・二六事件軍法会議』の著者・原秀男は、米軍のパイロットを虐殺した罪により、マニラの戦犯法廷で死刑判決を受けた憲兵隊長、憲兵隊員の名前を記していない。しかし、それを調べる方法はある。
東京憲友会編『殉国憲兵の遺書』(研文書院、1982)の巻末にある、「索引(殉国憲兵の名簿)」で、それらしい人物を探せばよいのである。
これを見てゆくと、1947年(昭和22)12月29日に、マニラで「法務死」した三人の憲兵がいたことがわかる。N・M憲兵大佐、I・Y憲兵曹長、S・R憲兵曹長の三人である。
このうち、N・M憲兵大佐は遺書を残していないが、I・Y憲兵曹長、S・R憲兵曹長の二人は遺書を残している。
S・R憲兵曹長の遺書には、次のようにある。
前文卸免、其の後、何の変化もありません。私達裁判の再審も終り同一ケース死刑四人、内、K・F君が懲役二十年に減刑、N隊長、小生、I・Y君が減刑なく残され、覚悟は出来てゐるものゝ故郷に残る老母と女子供の行先が案じられてなりません。
米軍塔乗員処刑事件に問はれし我々は米軍のでたらめ裁判にては公明な立場を認められる迄は、死に切れない思ひで居ります。然し乍ら持って生れし宿命と、心静かに覚悟は出来て居りますから、母上様、私の亡き後、御健在を御祈り致し、尚、公明な立場を必ず以て御天照様は明るみに出して下さり必ずわかる事と確信して死に行きます。【以下、略】
これによって、N・M憲兵大佐が憲兵隊長であったこと、死刑判決を受けたのは三名であったこと、S・R憲兵曹長が判決に納得していなかったことなどわかる。
なお、I・Y憲兵曹長の遺書は、事件あるいは判決について、一切、触れていない。
『殉国憲兵の遺書』は、両憲兵曹長について、「マニラに於て刑死」と記している。原秀男によれば、隊長らの墓は、モンテンルパにあるという。モンテンルパ(Muntinlupa)は、マニラ南部の街で、モンテンルパ刑務所があったことで知られる。