◎追悼・石崎晴己さん
10月28日の東京新聞を見て驚いた。フランス文学研究者で、青山学院大学名誉教授の石崎晴己さんが、22日に亡くなられたと報じていた。
石崎晴己さんと面識はなかったが、2020年のおわりごろから、足掛け四年にわたり、手紙やメールを通じてのおつきあいがあった。
9月23日にも、メールをいただいていた。そこには、『続 ある少年H』の書評が週刊文春に掲載されたとあって、その書評のファイルが添付されていた(週刊文春2023年9月28日号、鹿島茂氏の「私の読書日記」)。
『続 ある少年H――わが「失楽園」』(吉田書店、2023年8月15日)は、『ある少年H――わが「失われた時を求めて」』(吉田書店、2019年6月1日)の続編にあたる。私は両編とも精読させていただき、アマゾンにレビューを投稿した(署名はkoishikawa)。
本日は、追悼の意味を込めて、『ある少年H』(前編)のレビューを再掲する。
人はなぜ、失われた時を求めるのか
2020年12月7日に日本でレビュー済み
著者の石崎晴己氏はサルトルの研究、ピエール・ブルデュー、エマニュエル・トッドなどの翻訳で知られるフランス文学研究者である。
この本は、その石崎氏の自伝的回想である。興味深く、楽しい本である。読んでいて飽きることがない。特に私は、三章「性に目覚める頃」の「女性性器への適正な関心」のところが面白かった。
ところで、なぜ氏は、このような本を書いたのだろうか。プルーストの『失われた時を求めて』や、サルトルの自伝的著作に触発されたのかもしれない。だとすれば、この本は、フランス文学研究者である著者だからこそ着想しえた(実際に書きえた)自伝的回想と捉えてよかろう。
しかし著者は、たとえ、フランス文学研究者という道を選択しなかったとしても、似たような自伝的回想を世に問うたのではないか、と私は感じ取った。
本書を読むと、氏には、その人生行路において、さまざまな選択肢があったようだ。家業であった鋳物工場の経営者になるという道もありえたであろう。得意の話術を活かし、落語家になるという道もあったかもしれない。天性の演技力を活かし、役者の道を選ぶこともできたろう。結果的には、フランス文学研究者となり、功成り名遂げられたわけだが、それでもなお、氏は、その人生行路において、何度となく直面した「選択肢」について振り返ることをやめない。いわば、「失われた時を求め」続けているのである。
本書を読み終えて私は、オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』(1941)を想起せざるを得なかった。主人公のケーンは、屈指の富豪となって、世界中から貴重な財宝を集め続けた。しかし、ケーンにとっては、それらの財宝のすべてよりも、貴重なものがあった。それは、幼少時の思い出の詰まった、ひとつのアイテムであった(そこには、バラのつぼみが描かれている)。映画を観ている観客は、最後の最後で、そのことに気づき、アッと息を飲む。そういう凝った映画である。
この『ある少年H』という本は、実に楽しい本だが、ただ楽しいだけの本ではない。読み進めている間は、気づかなかったが、これは実に凝った本である。同時に、人生について深く考えさせてくれる作品である。
レビューで、映画『市民ケーン』に触れたのは、石崎さんが、たいへんな映画通であることを存じあげていたからである。
ところで、その石崎さんの人生にとって、「バラのつぼみ」に相当する対象は、何だったのだろうか。この謎は、『続 ある少年H』を読むと、おのずから解けることになっている。