今から67年前の1943(昭和18)年、第三師団長として赴任した賀陽宮中将は、その住まいを現在の「加茂免」と定め、子息の通う学校は東白壁国民学校ときまりました。
その途端、それまで東白壁学校まで徒歩三分の距離にあった「下駄屋」「ブリキ屋」「自転車屋」の下町の私たちは、学区外ということで要徒歩15分の山口国民学校に転校させられました。
山口国民学校に転校した早々、私は下校時に悪たれに誘われ、行った先が徳川園前の坂。 この坂を下りきると、通称「朝鮮長屋」があり、その長屋の前で上級生を先頭に整列した 私たちは一斉に叫びました。
“チョウセン チョウセントパカニシテ オーナジママクテ トコチガウ“
何度も何度も叫ぶと、日の丸の鉢巻きをした爺さんが棒きれを手にして、
“オレタチ ソナコト イテナーイ“
その必死の形相に、いち早く逃げた者は意気地なし、という遊びでした。
朝鮮人のリイくんと仲がよかった岩田宏は、戦後こんな詩をうたいました。
“おれはリイくんが好きだった そしたらみんなが走ってきた
綿アメのように集まってきて 飛行機みたいに みんな叫んだ
くさい くさい 朝鮮くさい
おれすぐリイくんから離れて 口ぱくぱくさせて叫ぶふりした
臭い 臭い 朝鮮臭い
今それを思い出すたびに おれは一皿五十円のよなかのギョウザ屋に駆け込んで
なるたけいっぱい ニンニク詰めてもらって たべちまうんだ
二皿でも 三皿でも
二皿でも 三皿でも!
その途端、それまで東白壁学校まで徒歩三分の距離にあった「下駄屋」「ブリキ屋」「自転車屋」の下町の私たちは、学区外ということで要徒歩15分の山口国民学校に転校させられました。
山口国民学校に転校した早々、私は下校時に悪たれに誘われ、行った先が徳川園前の坂。 この坂を下りきると、通称「朝鮮長屋」があり、その長屋の前で上級生を先頭に整列した 私たちは一斉に叫びました。
“チョウセン チョウセントパカニシテ オーナジママクテ トコチガウ“
何度も何度も叫ぶと、日の丸の鉢巻きをした爺さんが棒きれを手にして、
“オレタチ ソナコト イテナーイ“
その必死の形相に、いち早く逃げた者は意気地なし、という遊びでした。
朝鮮人のリイくんと仲がよかった岩田宏は、戦後こんな詩をうたいました。
“おれはリイくんが好きだった そしたらみんなが走ってきた
綿アメのように集まってきて 飛行機みたいに みんな叫んだ
くさい くさい 朝鮮くさい
おれすぐリイくんから離れて 口ぱくぱくさせて叫ぶふりした
臭い 臭い 朝鮮臭い
今それを思い出すたびに おれは一皿五十円のよなかのギョウザ屋に駆け込んで
なるたけいっぱい ニンニク詰めてもらって たべちまうんだ
二皿でも 三皿でも
二皿でも 三皿でも!