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今一度「霊」は存在しない  文科系

2024年11月07日 14時44分42秒 | 文化一般、書評・マスコミ評など
 10月31日に、こういう前文で標記のことを書いた。
「霊という言葉が、新聞などの広告も含めて当たり前に、実在するもののようにますます多く使われるようになった。心霊スポット、心霊現象という場合の心霊、背後霊や水子の霊。よく言われるスピリチュアルもその存在を認めてこそ成り立つものだろう。」
  霊とは、その漢字の意味はこういうものだ。
人間の肉体に宿り、または肉体を離れて存在すると考えられる精神的実体。たましい」

 これについて改めて考えたことがない人でも、存在するとしてもどのようなものかということを確かめる方法がある。「自分の肉体が生まれる以前の、自分の心、魂」を考えてみれば良い。なんの記憶もないはずだ。中には、「自分の前の世の姿」を感じることがあるなどと語る人が居るが、それを否定することはできはしない。そもそも「ないものを語る人に、それがないと証明することなど論理的にできはしない」。さらには、「そう感じた物は全て存在する」としたら、ドラキュラも玄武、朱雀、鳳凰も存在することになる。これを言い換えればこういうことだ。肉体が死んだら、その後のその心があるとしてもそれは「自分の赤子出生以前の心」でしかないはずだ。赤子以降自分に生まれたものは、この世や自分の肉体と結びついていて、「生前の自分の骨身などを元にして生まれたもの」でしかないはずだから。この世で大人になった心を、さも永遠に存在してきたもののように、描き上げるのはおかしいことだろう。
 なお、肉体の世界を離れてその心がどこかにあるとすれば、その心はどこから生まれたのかと言う問いから、神の世界まで創造されうるものである。つまり、「この世ならぬ心」は神の世界のものになるだろう。つまり、宗教は霊の存在を前提としているのである。

 そしてもう一つ、宗教って死の問題と結びついている。死が怖い人が、「永遠の命」を考え出したのだろう。ところで、僕は「永遠の命」がなくとも、死は怖くないようになった。死が怖いのは若い人だ。将来への渇望が大きくある人はものすごく死が怖い。が、一応この生を生きて「大体の人生、楽しみは味わったと言える」とか「もうこの先は何もなさそうだ」と言う老人は、「永遠の命」などに執着はしない。


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