たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『いわさきちひろ作品集7』より-「母さんは戦場にいっておるす」

2022年05月13日 12時55分59秒 | いわさきちひろさん


(「新潟日報」1973年1月16日ほか)

「母さんは戦場にいっておるす

いつもまぶたにうかぶのは
母さんが戦場にいって
おるすのこどもたち

まちにまった母さんが
今日はかえってきたとしても
あした かえってこれるだろうか
あした かあさんがかえったとしても

そのまえに こどもたちの頭の上に
爆弾の雨がふらないとはかぎらない
日本の南のベトナムの国に
爆弾をはこぶ飛行機を
とばすのはだれ

どうか日本の母さんたち
やさしい世界のかあさんたち
おるすのこどもをたのみます

 グエン・ティー(ベトナム人作家)作
 「母さんはおるす」によせて」

『いわさきちひろ作品集7』より-「今だからこそ失わないでほしい」

2022年05月07日 17時49分22秒 | いわさきちひろさん
『いわさきちひろ作品集7』より-「今だからこそ失わないでほしい」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/a85a7a5ef8c2d7a54efcee912c6c6b0b




今だからこそ失わないでほしい(「人生手帳」1972年12月号文理書院)

「-目的のない抵抗はダメ-

(近ごろ、若者は何を考えているのかわからないという大人が多いと思うんですけれども、先生からごらんになってどうでしょう。)
 私にもよくわからないんです。いまのはやりの男だか女だかわからない恰好、騒々しい音楽、鉄砲のように早いしゃべり方。流行のわからないのは年のせいだといわれるかもしれないけれど、こういうタイプの人に会うと、私はどう挨拶していいかわからなくなります。

(この世の中への抵抗である、と言っていますね。彼らは。)
 それはそうだと思います。でも、抵抗のし方はいろいろあるわけで、私が感じるのは、次に何も生みだせない抵抗のような気がします。自分は自分、親や親、政治家は政治家で、何も関係ないっていうんでしょうけれど、こどもができたら、いったいどうするつもりなんでしょう。

(今の社会が生み出したものなんでしょうね。)
 そうですね。そういう人の意見は一様にたいへん虚無的ですね。この世の中では人生に希望がもてないというのは、しぜんなことなのかもしれません。そこへもってきて、あらゆるマスコミがレジャーだレジャーだとさわぐので、一番うれしいことがもっともカッコよく遊ぶことだったりするんでしょう。

(結局、生きがいが見出せないということなんでしょうね。)
 私の若いころも生きがいを見出せなかったという意味では、いまの若い人と同じですけれど、その中身がだいぶちがうんです。私のころは、ガンジガラメな統制ととぼしさで、どうにもならなくて生きがいをなくされていたのですけれど、今の時代は、ものはありあまっているような世の中だし、情報公害と言われるほどのニュースが伝わり、ちょっと関心をもてば、社会のしくみがわかるようななかでの生きがいのなさなんですね。
 だから、若者のなかでも、社会的関心を強く持つ人と、ぜんぜんもたない人の両極端にわかれちゃったと思うんです。

-心の豊かさを失わないでほしい-

(近頃、若い夫婦が自分の子どもを殺してしまう事件が相次いでますけれど、先生の立場から一言。)
 そういうことは、今にはじまったことでなく、戦前からありましたけれど、昔はほとんど生活苦からやむをえずやったというケースです。いまのはめんどくさいとか、うるさいとかで殺すわけですから、母親の本能からいっても異常なことで、この異常な社会環境のなかで、気が狂ったのではないかと思ってしまいます。
 ドライな言い方をすれば、子どもを施設にあずけることもできるし、その気になれば、どこに相談したってなんとか考えてくれたり、力をかしてくれるでしょうに。それすらもしないということは、人間はだれも信用できないということなんでしょうか。
 こうした精神異常者をたくさん生み出しているような、この異常な社会を、私たちは見せかけだけの繁栄にごまかされずに、よく観察し、そして、人間は人間を信じあって一緒にやっていくんでなくては世の中をすみよくしていくなんてことは、なんにもできないんだと思います。人間どうしがバラバラでいる時に、人間がやったとは思えない、いろいろな恐ろしい事件がおきてくるんだと思います。

(そういうことは、彼らの問題でなくて、同じ社会に住んでいる私たち若者の問題でもあるということですね。)
 ほんとにそうですね。どんどん経済が成長してきたその代償に、人間は心の豊かさをだんだん失ってしまうんじゃないかと思います。
 それに気がついていない若者は多いのでしょうけれど、私はそのことを早く気づいて、豊かさについて深く考えてほしいと思います。私は私の絵本のなかで、いまの日本から失われたいろいろなやさしさや、美しさを描こうと思っています。それを子どもたちに送るのが私の生きがいです。青年たちは若いだけに、もっと大きい生きがいをもてるはずだと思います。世の中がいくらみにくくても、それにうちかつ生きがいは、若もののなかにこそあると思います。」











『いわさきちひろ作品集7』より-「今だからこそ失わないでほしい」

2022年05月06日 19時16分58秒 | いわさきちひろさん


今だからこそ失わないでほしい(「人生手帳」1972年12月号文理書院)

「-戦争で奪われた青春-

 私は女ばかりの姉妹だったので、みうちが戦死するというような、一番大きな不幸はなかったのですが、食べものがないとか、家が焼かれるとかいう、当時にとっては人並みの苦労はありました。

 私は小さいときから絵が好きだったので、たとえその専門家になれないとしても、一生絵を描いていたいと思っていました。けれど、そんな夢はかなえられない時代でした。なにしろフォスターの歌なんかうたおうものなら、敵国の歌だと非難されるんですから。戦争というのは、家が焼かれるとか、人が殺されるとかいうことだけじゃなくて、人の心もむしばんでしまうのです。とりわけ文化的な欲求をもっている人たちにとっては、どう生きていいのかわからない恐ろしい世の中です。だから、いつも、なんで戦争なんかあるんだろう? どうしてこの戦争が聖戦なんていわれるんだろう?と思いながら、希望もなく厭世的に生きていました。

 戦争が終わって、はじめてなぜ戦争がおきるのかということが学べました。そして、その戦争に反対して牢に入れられた人たちのいたことを知りました。殺された人のいることも知りました。大きい感動をうけました。そして、その方々の人間にたいする深い愛と、真理を求める心が、命をかけてまでこの戦争に反対させたのだと思いました。

 いま、ベトナムにアメリカが爆弾の雨をふらしていますけれど、戦争を知っている私は、その恐ろしさにゾッとします。そこで殺され、傷つけられる人たちに20何年前の私たちの姿を見ます。人ごとではないのです。この非人間的なことをやっているアメリカに怒りもなにも感じないとしたら、それはどういうことになるでしょう。やさしい心の人たちは、みんな怒っています。そして、その爆撃をやめさせようと、何らかの形でベトナムに手をさしのべています。愛情と怒りは、まさに表裏一体なのです。」

「-失われている人間らしさ-

 人間が活き活きと暮らせるというのは、明るい平和ないい世の中でなくてはむつかしいことです。その人間を生きにくくしている公害や戦争や物価が上がるのは、みんな人間がやっていること、つまり、政治がそうしているのです。

 私は絵描きだから、絵だけ描いて暮らせたらいいと思うんですけれど、そううまくはいかないのがいまの世の中です。好きな絵を安心して描くためにも、ゼンソクになっちゃあだめだし、物価が高くて、生活がおびやかされるんじゃあどうしようもありません。まして、戦争にでもなったら最後です。そういうわけで、誰でもがちゃんと政治のことを考えて、みんながしあわせに生きられるように、しっかりしていなければならないんだと思います。

 私は子どもはまず健康で、すこやかであってほしい。それからそれぞれの子どもが個性的な、いろいろな能力をいっぱいにのばしてほしいと思います。けれどそういうふうに育てようと思っても、この世はちっともうまくいってはおりません。

 子どもが生まれると、すぐ親は延々とつづく学校教育のために、せっせとお金をためなくてはならないし、親が必死になって入れた学校というのは、受験のための教育に終始しているのです。なにしろ、子どもは友だちより一点でも半点でもよけいに点をとらなければ、上の学校には入れてもらえないのです。いい上級学校を卒業しなければ、人よりえらくなって、より豊かな暮らしはできないしくみにくみこまれた子どもたちは、ただ馬車馬のようにはげまなくてはなりません。こういう学校教育のなかで、矛盾を感じないでスイスイと人間不在の勉強をし、上に上にとあがっていった人たちがやっているのが、いまの日本の政治じゃないんでしょうか。その政治家たちは、もう一段いまの教育を改悪しようとしています。子どもたちが若すぎて、どんな能力があるかわからないうちに、できる子とできない子をわけてしまおうというのです。できないようにみえる子をそのままきりすてて、勉強から遠ざけてしまうんだそうです。偉くなる人はたくさんはいらないというのです。これが中教審教育の中身だとのこと。ちょっと目にボーっとしている子が、まったく能力がないといえるでしょうか。家が貧乏で、勉強どころでない子を、馬鹿といえるでしょうか。子どもというのは、あらゆる可能性をもっている大切な人間の宝です。だから、私たちは、この教育面でも、政治のことを考えなければならないのです。」

























井上ひさしの 子どもにつたえる日本国憲法

2022年05月03日 18時18分19秒 | いわさきちひろさん
「日本国憲法のなかでも、『これだけは読んでおいてほしい』と思う前文と第九条を小学生にも読めるように」と、作家の井上ひさしが子どもにも読めることばに「翻訳」した『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』(講談社)が2006年に出版されました。

今こそ、『井上ひさしの子どもにつたえる日本国憲法』を読みなおしたい、さらに広く知ってほしいという思いから、ちひろ美術館では同書の朗読動画を制作しました。朗読は女優の斉藤とも子さんです。


https://www.youtube.com/watch?v=cXr0Jymes8k




今日は憲法記念日(個人的には1994年9月に自殺した妹が半世紀余り前、この世に生を受けた日でもありますが・・・)、ロシアのウクライナ侵攻により、憲法を改正すべきという声もたくさんありますが、自民党の憲法改正案はあぶないと思います。憲法とはなにか、勉強し直しです。医療対象が選別され、差別化されているコロナ対策禍の日本の現状はどうでしょうか。任意であるはずのワクチン接種とマスク着用が同調圧力によって実質強制となっていることはどうなのでしょうか。考えなければなりません。ちひろさんが参加されていた政党もコロナ対策のフィルターを通してみると非常に残念と言わざるを得ませんが・・・。



(社会福祉士養成講座テキスト『法学』-2006年1月20日中央法規出版-より)

-日本国憲法の成立-

 1946年(昭和21年)11月3日に公布され1947年(昭和22年)5月3日から施行された日本国憲法は、天皇を日本国民の総意に基づく象徴としての地位にとどめるとともに、国民に主権があることを明記し、広範な基本的人権を保障するものであった。わが国憲法の変革は、1945年(昭和20年)8月15日のわが国の敗戦-すなわち、ポツダム宣言の受諾-に始まるといってよい。1945年7月27日に発せられた同宣言は、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障疑ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」と述べ、わが国はこれらの義務を履行すべきこととされた。

 しかし、実際の憲法の改正経過は、わが国が自らの発意で現行憲法の素案を提示するまでには至らず、いわゆるマッカーサー草案が1946年(昭和21年)2月13日日本国政府に提示され、これに基づいて改正案が作成された。そして、この改正案は国民主権を規定し、天皇主権を規定する明治憲法とは憲法制定権力を変えるという革命的変革を遂げたにもかかわらず、明治憲法第73条の規定に基づいて改正するという手続きをとった。

-日本国憲法の原理-

 以上のようにして成立した日本国憲法には、世界の多くの国々が歴史の遺産として継受してきた各国の憲法に共通する規定が設けられただけでなく、わが国の憲法が独自に有する規定も含まれている。前者は三権分立や基本的人権の保障といった統治組織や統治原理に関わるものであり、後者は象徴天皇制や戦争の放棄といった徹底的な平和主義に関わる部分である。また明治憲法にはなかった生存的基本権も規定され、この意味で現行憲法は現代憲法としての特徴も有している。

 各国の憲法の構造を全体として把握すると、その憲法が根本的な価値規範として重視しているものがあることがわかる。これを憲法の基本原理とすると、わが国の憲法の基本原理は、①国民主権、②平和主義、③基本的人権の保障であるといえる。そしてこのことは、憲法の前文によくあらわれている。憲法の前文は憲法制定の由来や目的などを述べ、憲法本文と違って法的拘束力をもつものではないが、憲法の精神を体現し、本文を理解するうえでの指針となるものである。例えば国民主権については「主権が国民に存することを宣言し」と規定し、平和主義については「国民は、恒久の平和を念願し、…平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と述べている。

-最高法規聖性-

 憲法は国の最高法規であって、その条約に反する法律、命令詔勅及び国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しないとされる(第98条第1項)。このことは、国政を担当し権力を行使する者によって特に守られねばならないため、憲法第99条は「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定している。そして、裁判所には一切の法律、命令、規則または処分が憲法に適合するかしないかを決定する違憲立法審査権が与えられている(第81条)。

 ところで法令にはさまざまの種類があるが、その間に矛盾相克が生じることがある。このような場合、近代諸国の法体系において統一的な法秩序が形成されるよう、次の三つの解釈原則がたてられている。第一は、同じ国法形式の間では後法が前法に優るということであり、第二は、同じ国法形式の間では、特別法が一般法に優るということであり、第三は、異なる国法形式の間では上位の方が下位の法に優るということである。憲法の最高法規というのは、この第三の原則の最上位の法形式ということであり、このようにして国法体系の統一性が保たれるのである。

-憲法の改正-

 憲法は、当初制定された条文が改正されたり、当初意図された意味内容と異なって異なって解釈されるようになる場合がある。これは、社会経済の状況や国民の意識が制定当時と変わっていくため、それに合わせて憲法を変更していく必要が生じるためである。このような憲法の変更は、「改正」と「変遷」に区別される。憲法の改正とは憲法の条項の全部または一部を改める場合であるが、憲法の変遷とは条項を改めないままその意味内容が変更される場合である。憲法の変遷は、国会による立法、裁判所の判決、行政府の処分、慣行などによって生する。

 わが国の憲法の改正手続きは第96条に規定されているが、前述したように硬性憲法としての性格を有し、現に制定以来一度も改正されていない。憲法改正に関する国民の承認は、特別の国民投票または国会の定める選挙の際に行われる投票において、過半数を得た場合に認められる(同条第1項)。この国民の承認が得られた場合は、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する(同条第2項、第7条第1号)。

 ところで、憲法のすべての条項が改正の対象になるか-言い換えると、憲法の改正には限界があるか-どうかについて学説は分かれており、通説は限界があるとしている。すなわち、憲法制定権力や主権者を変えるような改正や憲法の基本的構造の改正にわたるようなことは、当該憲法の自殺に等しいものであるとして、その改正は法理論的に不可能であるとするものである。

 そして、わが国の憲法については、国民を主権者とする規定や基本的人権を保障する規定などは、改正によって変更できないとしている。すなわち、国民主権については、憲法前文で主権が国民に存し民主主義は人類普遍の原理であり、この原理に反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除するとうたっている以上、これを変更することはできないとする。また、基本的人権については、憲法第11条及び第97条で侵すことのできない永久の権利として現在及び将来の国民に与えられているとされているため、同様に改正できないとされる。

 ただし、以上述べたことは理論的な憲法改正の限界ということであり、実際に限界を超えて改正されることがありうるが、その場合は革命による憲法の破棄と新たな憲法の制定というべきものである。



 

 





『いわさきちひろ作品集7』より-「わたしのソビエト紀行」

2022年05月01日 01時55分24秒 | いわさきちひろさん
『いわさきちひろ作品集7』より-「わたしのソビエト紀行」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/5e09af31006fbdc982698b374ef94ea6



わたしのソビエト紀行(「母と生活」1963年10月号静岡教育出版社)

「-感動の連続、世界婦人大会-

 私がどうしてソビエト旅行ができたかというと、モスクワで行われる世界婦人大会の日本代表団員ということにしてもらったからです。それで6月の24日から29日まで6日間、毎日他の40人の代表団員とともにクレムリンの大会場に通ったのです。

 世界じゅうから113か国約二千人もの代表が出席していました。各国の報告は全部いちおうロシア語に訳されてから、同時通訳で14か国語に二重に訳されて、それぞれの人の耳にレシーバーを通じてはいります。演説をしている人の話がほんの数秒ぐらいずれるだけで耳にはいるのです。

 大会場は美しい民族衣装でゆれうごいていました。

 アフリカの代表たちは、真の民族の独立について話し、東洋の南の人たちは、いまおきている帝国主義の侵略戦争の残虐さについて涙を流してかたりました。そしてアメリカの婦人は、黒人問題について語り、基地から夫を、むすこを呼びもどそうとしているとうったえました。そのつど、拍手をおくり、ためいきをつき涙を流しました。

 イラクの美しい代表が、カセムのたおされたあとのおそろしいファシズム政権について語り、
「私の夫も殺されてしまった。この前のこの大会に出席した人も、いまは死刑の宣告をうけている」
と、黒いも服姿でうったえると、あちこちから嗚咽がきこえ、壇上は、かけ上って、彼女をほうようし、接吻する人の群れでいっぱいになってしまいました。

 資本主義の国はどこの国でもたくさんの問題をもっており、日本の基地の問題、原子力潜水艦の問題の訴えは、世界の共通のこととして、みんなの深い激励にあいました。

 婦人はどこの国でも子どもを愛し、平和を愛し、美しくその国の着物をきていました。フランスのコットン女史がさいごに大会のアッピールをよみあげたときは、みんな感動し、色とりどりのネッカチーフがふられ、色彩の嵐がまきおこったようでした。

 私はうまれてはじめてこういう国際会議を経験し、平和を願う婦人たちのこころはひとつだと、せつに思わずにはいられませんでした。

 日本に帰ってから見た新聞や週刊誌に、日本の発言は会場のふんいきをとげとげしいものにしたとかいてありました。そして私はふと思いました。ああ、これはたいへんなまちがいだ、これはあの会場で取材した記事ではないと・・・。そしてモスクワで個人的におあいした共同の支局長と朝日の支局長が、大会の開会式にテレシコーワさんのきたときだけしか取材できなかったといったことばを思い出しました。日本にかえってから、あの記事はタイムからとって、こしらえたのだといった評論家の人がおりました。

 だいだい40日間のあわただしいソビエト旅行でしたが、黒海の沿岸のヤルタ、ウクライナの古い首都キエフ、そして世界一の透明度のバイカル湖に、私はいろいろの思いを残してきました。緑の美しかったソビエトには、もう秋の風がつめたくふいていることでしょう。」

(画像は「キエフ老人たち」、ちひろ美術館公式ツィッターよりお借りしています。)



 





『いわさきちひろ作品集7』より-「わたしのソビエト紀行」

2022年04月29日 02時14分58秒 | いわさきちひろさん



わたしのソビエト紀行(「母と生活」1963年10月号静岡教育出版社)

「-花でうずめられた第一歩-

 しゃくやく、あやめ、ライラック、スズラン、やわらかな緑の葉をたくさんつけた花束のむれが、六月のさわやかな光に映えていました。明るい素朴な瞳のおとなや子どもたちが、附近の野や山からつんできて、私たちを迎えてくれたのです。ここはナホトカの港、私のソビエト旅行の第一歩はこうして、野趣のあふれた花束に顔をうずめることからはじまりました。

 ソビエトの東の果ての小さな港町ナホトカは、小高い丘の上にひらけています。どの家も三、四階建ての多くは桃色の建物で、ゆたかな樹木の中に、静かに並んでいました。日の長い一日がやっと暮れてきて、ベンチに休んでいる人たちもいっしょに、やさいい色に沈んで見えるころ私たちは大きな汽車にのりこみました。ハバロフスクまでのるシベリア鉄道でした。

-砂漠の中に立つ近代都市-

 飛行機はモスクワから東南に五時間とびつづけました。雲の切れ間から見える青い原野が、だんだん茶色になってアラル海の上をとびました。まん中の水の深いところだけあやしいブルー、まわりは茶色っぽく水が澄んでいて人気のない不気味な湖に見えました。

 アラル海をこえるともうすっかり黄土色です。道もなくなり砂漠にはいったことがよくわかりました。私たちはウズベック共和国の首都タシケントにきたのです。東はチベット、南はアフガニスタンに接し、そのとなりはペルシャなのです。西洋と東洋の文化の交流点、12世紀から15世紀ごろ回教の文化の栄えていた、いわゆるシルクロードといわれるところです。

 私はこの砂漠の中にこつ然とある近代都市におどろきました。六月中旬、日中は40度をこえる暑さです。けれど木かげにはいると、すーっと涼しい風がよぎります。湿度が少ないのです。

 ひと足ふみ入れたホテルの部屋の、オレンジジュース色の光ったカーテンとベットカバーに、私はまだ見たことのないペルシャを感じました。

 四日間の滞在は短すぎて、少し離れているサマルカンドの古い回教のお寺は見にゆかれなかったけれど、ピヨニール宮殿(子どもの文化施設)、コルホーズの工場、病院と、できるだけ見て歩き、婦人が、みんな顔を黒いベールでおおっていたというおくれた国の革命後のすさまじい発展に目をみはらないわけにはゆきませんでした。

 病院はただ、パンはただ、学校は大学までただ、住宅費は収入の3、4%などという社会主義の国のどこにでもあることは別としても、砂漠の中にこれだけの近代文化をどうしてつくったのか、しかも古い中央アジアの文化や民族性が、なぜうしなわれずに現代にうまく生かされているのか。

 私は社会主義という体制の国のゆたかな力が、一軒一軒の古い土塀の農家の案内にまであふれているのを見たのです。

-豊かな水と美しい友情と-

 レニングラード(現在はサンクトペテルブルク)の街角に腰をおろして私はスケッチです。第二次世界大戦え大方こわされてしまった街がすっかり復元されて、古都の面影がただよっています。タシケントと反対に、こんどは北のはて、白夜といって、沈みかけた太陽が、沈まずにそのまま朝を迎えます。

 スケッチする私のまわりにはおとなや子どもがたかって見ていました。前を人がゆっくり通ると「いまそこを描いているんだから早く通れ」とか何とか、いってくれてたいへん親切な見物のしかたです。

 レニングラードは水の都、美しいたくさんの川が市内をあみの目のように流れています。私はそのどれかの川のスケッチがしたくなりました。大きな街なので川までゆくのにも乗り物にのらなければならないと思い、さきほどから、いっしょうけんめいに私の絵を眺めている13-4才の少年に、道をききました。

 ことばが通じないので、川の絵を描き路面電車の絵を描きました。電車がいちばん庶民的な乗物だろうと思って、それにのろうと思ったのです。手まねも加えて説明し少年に電車の停留所までつれていってもらうと、少年は、電車をまっている2-3人の婦人となにやら相談しました。婦人たちはロシア語で私のスケッチブックに道順か何かをかいてくれました。少年はていねいにも電車の通るらしい図面までかいてくれました。そしてみんなで③という番号の電車に私をのせて、大声で何か車掌さんにたのんでくれました。

 電車のいすにすわった私は、川が見えたらどんな川でもいいからおりようと、ときどき、うしろの窓を見ます。そのたびに両隣りの乗客は私の肩をたたき、”降りるときはおしえてあげるから後を向くな”といっているようです。車掌さんもなんとかいってくれます。もうこうなったらみんながおりろというまで乗っていようと。

 いくつもの河を過ぎて30分ものったでしょうか。みんなが口ぐちにおりるように言ってくれました。私がおりると車掌さんは電車から首を出してそこをまがっていきなさいというように、手まねでおしえてくれました。大きな建物をまがると、はっとしました。美しいネヴァ川が目の前にひらけました。ああ、これこそあの遠いレニングラードなのだ、この河といい、この古い街なみといい、むかし読んだロシアの小説の中の、まさにベテルブルグなのです。現代のナターシャが白いリボンをつけて、かすかに香水の匂いをただよわせてすれちがってゆきました。

 日ぐれが近づき、ひんやりとした風が、寒く感じられるまで私はネヴァ川のほとりを歩いておりました。ひとこともロシア語を知らないのに、人のいい市民たちの親切だけをたよりに、こうして生まれてはじめての街をさまよっていることが、何だか身ぶるいするほど、しあわせでした。」


宙組『アナスタシア』-「ネヴァ河の流れ」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/323ecd86fb60d3f228dd78d5470956d4








なつかしの雪組『虹のナターシャ』『ラ・ジュネス』
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/848ee7e253a18603290893ee10b407a1



(画像は「キエフ老人たち」、ちひろ美術館公式ツィッターよりお借りしています。)

『いわさきちひろ作品集7』より-「ゆきのひのたんじょうび」

2022年04月28日 13時59分36秒 | いわさきちひろさん


『ゆきのひのたんじょうび』(1972年12月)

「もう秋も深まってきました。この絵本を武市さんの案でごいっしょに考えだしたのは今年のはじめだったので、ほとんど一年中この本のことを考えて暮らしていたことになります。

 絵を描く時間はたかがしれていますし文章をみんなで考えるのもそうはかかりません。それなのにどことなくこの本のことを考えていたのは、この本を考えていると、なにかほっとして楽しかったからだと思います。他の仕事をすませた後この絵本のゲラ刷を繰ってみたり、言葉のことを考えているとき、まだ私には、することがあるんだという、生きがいみたいなものを感じていました。

 この世の中にひしめきあって長く暮らしていると、時には疲れてしまい、もういつ死んでもいいと思ったりするのです。まだ年とった母も生きていますし、息子も一人前とはいえないのに「私がいなければいないでなんとかなるでしょう」とこう思うのは、これは私が病気のせいでどこか気弱でさびしくなっているせいでしょう。

 男子が一歩外へ出ると七人の敵がいるそうで、私は女子だからそんなことはないと信じておりましたが、女も一人前になると二、三人の敵はいるようです。本当の敵なら勇ましく立ち向かえるのですが、敵であろうはずのない人がときどき舌を出したり、足をすくったりすので本当に心臓がドキンとして冷や汗をかいてしまいます。

「みんな仲間よ」私は自分の心にいいきかせて、なつかしい、やさしい、人の心のふる里をさがします。絵本の中にそれがちゃんとしまってあるのです。そして私が描きかけている絵本のなかにも。だから、私は一年中頭のどこかでいつも絵本のことを考えているにちがいありません。この”絵本のしあわせ”が、みんなの心にとどくように、もし私が死ぬまでこうして絵本をかきつづけていけたとしたら、それは本当にしあわせなことです。」



『ゆきのひのたんじょうび』
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/0ad70c62c311ff3cb61f49e84d6e8e66












『いわさきちひろ作品集7』より-「子どもによせたいこの一冊」

2022年04月26日 20時30分12秒 | いわさきちひろさん



「アンデルセンの『絵のない絵本』、私は前からこの話が好きだったのですが、先日さし絵を描きあげたばかりなので、なお印象がふかいのです。貧しい屋根裏住まいの絵描きの青年に、月が毎晩訪れて語ってくれた物語りです。

 ガンジス川に灯をながして愛する人の生死をうらなう少女の話、フランス革命のとき玉座で死んでいった少年の話、パンにバターをたくさんつけてと祈る小さな女の子の話など、一夜から三十三夜までの短い話が集まっています。詩集のようにふとひらいて、一つ二つよむとまた味わいがふかいと思います。いまから百男十年も前にかかれたものですが、人の世の悲しみや真実がかかれていて、それは今の世も全く同じです。アンデルセンは神を信じていた人ですが、神の力ではどうにもならない人の不幸をリアルにえがき出しているところも面白いと思います。中学校になって、大人の世界がわかりかけてきた少年や少女に一度は読んでもらいたい愛と詩の絵本です。

 (掲載紙不明1966年)」



『戦火のなかの子どもたち』

2022年03月22日 01時57分55秒 | いわさきちひろさん



「赤いシクラメンの花は

 きょねんもおととしも そのまえのとしも

 冬のわたしのしごとばの紅一点

 ひとつひとつ

 いつとはなしにひらいては

 しごとちゅうのわたしとひとみをかわす。


 去年もおととしも そのまえのとしも

 ベトナムの子どもの頭のうえに

 ばくだんはかぎりなくふった。


 赤いシクラメンの

 そのすきとおった花びらのなかから

 しんでいったその子たちの

 ひとみがささやく。

  あたしたちの一生は

  ずーっと せんそうのなかだけだった。」


「絵本にそえて いわさきちひろ

 ベトナムでは長いこと戦争がつづいておりました。いまだってほんとうは戦争はおわっていないのです。アメリカの爆弾が、おとなりのカンボジアの国にまでおとされているそうですから。

 わたしは日本の東京のせまい仕事場で、それらの戦争のことと、わたしの体験した第二次世界大戦のことを、こころのなかでいつもダブらせてかんがえていました。

 戦場にいかなくても戦火のなかでこどもたちがどうしているのか、どうなってしまうのかよくわかるのです。子どもは、そのあどけない瞳やくちびるやその心までが、世界じゅうみんなおんなじだからなんです。そういうことは、わたしがこどものための絵本をつくっている絵描きだからよけいわかるのでしょうか。」


Wishing peace and happiness for all the children of the world.
―Chihiro Iwasaki

May the day come as soon as possible that no child in the world is ever deprived of a future for any reason.

「世界中のこども みんなに 平和としあわせを」
―いわさきちひろ

すべての子どもの未来が、いかなる理由であろうと奪われることのない世界が一日もはやく訪れますように。


ちひろ美術館公式ツィッターより、
https://twitter.com/ChihiroMuseum/status/1498112029517053955




ちひろさんの、こどもたちの幸せを願う声が世界中にとどきますように・・・、

ただただ祈る。








わたしがちいさかったときに

2022年03月05日 14時40分01秒 | いわさきちひろさん

「目の見えなくなった母親が
 
 死んでいる子供をだいて

 見えない目に

 一ぱい涙をためて泣いていた

 おさないころ

 母に手をひかれてみたこの光景が

 あの時のおそろしさとともに

 頭からはなれない

  小学6年 水川スミエ


 よしこちゃんが

 やけどで

 ねていて

 とまとが

 たべたいというので

 お母ちゃんが

 かい出しに

 いってる間に

 よしこちゃんは

 死んでいた

 いもばっかしたべさせて

 ころしちゃったねと

 お母ちゃんは

 ないた

 わたしも

 ないた

 みんなも

 ないた

   小学5年 佐藤智子 」

『わたしがちいさかったときに』より

画像は「見つめる子どもたち」(1969年)、ちひろ美術館公式ツィッターより。