たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2013年『ラファエロ展』_「友人のいる自画像」

2020年06月25日 09時25分30秒 | 美術館めぐり
2020年6月2日:2013年『ラファエロ展』より_「無口な女(ラ・ムータ)

https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/3a146e5298306f0edd5be21fd5caf3ac


ラファエロ・サンツィオ《友人のいる自画像》
1518-20年頃
油彩/カンヴァス 99×83cm
パリ、ルーヴル美術館

「身なりの良いふたりの男性のしぐさには、親密さが漂っている。この二重肖像画のモデルや注文主などは、これまでのところ明らかになっていない。背後の男性がラファエロであることは認められているが、前景の男性については諸説あり、ラファエロの弟子であったジュリオ・ロマーノとするものが近年注目されている。ジュリオはラファエロの一番弟子と言ってよい存在で、師の死後は、彼が中心となって工房の運営を引き継ぎ、未完成作を完成させた。画中のラファエロについては、芸術的着想の擬人化であるとする解釈、前景の人物が指さすのはラファエロの鏡像であるとする解釈などがある。」

(公式カタログより)




「教皇ユリウス二世は、才能を見込んだ芸術家に全幅の信頼を寄せるという点で、優れたパトロンだった。「署名の間」で描かれていたすべての壁画は取り壊され、新しい装飾のいっさいがラファエロに任された。横七メートル以上の大画面は、ラファエロにとっては、はじめての挑戦だ。彼がそこに描いた《アテネの学堂》は、構想の壮大さで、ローマ十を驚嘆させた。公開されるやいなや、人々がこの作品の前に立ちつくしたと伝えられている。この成功で、ラファエロの名声は確固たるものとなった。ラファエロは、

 以後、亡くなるまでの12年間にわたり、ラファエロは、ヴァティカンの宮廷画家を務めた。宮廷画家とは、この時代の文芸保護の動きに伴って、イタリア各地に誕生した職制である。君主専従の画家として、年俸が保証されるだけでなく、ときには貴族の称号を与えられるほどに厚遇された。温厚で社交的なラファエロは、パトロンである教皇や貴族たちとの交流を大いに楽しみ、豪邸にも移り住んだ。その暮らしぶりは、まるで王侯貴族のように華やかだったという。

 名声を得たラファエロのもとに、多くの画家志望者が集まった。ラファエロは、自分の子どもに接するように、彼らをやさしく迎え入れた。そのためますます師匠として慕われ、ヴァティカンに出仕するときには、つねに50人の弟子が付き従ったと伝えられる。

 またパトロンのひとりだった枢機卿(すうききょう)ビッビエーナは、自分の姪を嫁がせようとするほどラファエロをかわいがった。しかし、ラファエロはこの申し出を承諾し婚約はしたものの、結婚することは引き延ばしているうちに、彼女は亡くなってしまう。結局、ラファエロは、生涯独身を通した。」

(『週刊 西洋絵画の巨匠 19 ラファエロ』小学館ウイークリーブック2009年6月16日小学館発行より)



『赤毛のアン』とプリンス・エドワード島のファンにはおなじみの写真家、吉村さんのブログ。

「アーティストが10年間一つの作品に没頭した。ではその間の生活費はどうしたのか。そう、パトロンがすべて出していたのです。〜何世と言われる国王とかが。」

https://kaz-yoshimura.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-b99cdf.html