たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出写真_ユングフラウ鉄道

2015年05月21日 22時14分05秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
「インターラーケンからグリンデルワルトまたはラウターブルンネンを経て、クライネ・シャイデックへ。どちら経由でもユングフラウ鉄道は同じ列車に接続している。
 ユングフラウ鉄道は、その4分の3がトンネルの中、おかげで、雨の日も雪の日も、365日運行している。
 クライネ・シャイデックを出た列車は、右にユングフラウの氷河や崖の上にのっかったミューレンの村、左にヴェッターホルンとグリンデルワルトを見下ろしながらアルプスを上っていく。しかしアイガーグレッチャ-駅(標高2320m)を出るとすぐにトンネルに入り、あとはアイガーとメンヒの胎内をひたすら上る。
 途中、停車は2回ある(下り列車は通過)。まずはアイガーヴァント駅(2865m、“アイガーの壁“の意)。ここはまさにアイガー北壁のど真ん中。映画『アイガー・サンクション』で、北壁から滑落したクリント・イーストウッドがぶら下がっていた場所だ。現在でも登攀者の緊急避難場所であり、救助隊の出発場所にもなっている。幾多のアルピニストの命を奪った絶壁を見上げてみよう。停車時間は5分。
 次の停車駅アイスメーア(3160m、”氷の海”の意)は、ちょうど山の向こう側。ここで初めて、ユングフラウ連山の南側の顔を見ることになる。風景は一変して氷の世界。足元のフィッシャー氷河は、グリンデルワルトのグレッチャ-シュフルトの源流だ。正面左にはシュレックホルン(4078m)も姿を見せている。
 クライネシャイデックから50分で、標高3454m、鉄道駅としてはヨーロッパ最高地点のユングフラウヨッホに到着する。」

(『地球の歩き方 スイスアルプス・ハイキング』2007-2008年より)



アイガーヴァント駅にて。








アイスメーア駅にて。













今井通子さんの『私の北壁』を読んだのは20歳ぐらいの時だったでしょうか。
読み返してから行きたいと思いながらその時間はありませんでした。
アイガーのお腹をぬけているなんて不思議な感じでした。

携帯にためこんだままだったこれらの写真をやっと整理したのは去年のことでした。
そしてようやくこうしてブログに載せることができました。
なんだほんとうにようやく、という感じです。

天気がよかったのは珍しいことのようでした。
吹雪いてみえないことも多いような。
私、基本的には晴れ女です。

旅の思い出写真_グリンデルワルドとユングフラウ鉄道

2015年05月20日 22時41分14秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
「アルピニストの夢が詰まったグリンデルワルトはハイカーたちのパラダイス。雨雲が切れたらゴンドラに飛び乗ろう。村の通りを飾る花も、山の斜面を埋め尽くす高山植物の群落にはかなわないし、アイガーも、山に上ればキリリと引き締まったイイ顔を見せてくれる。グリンデルワルトの醍醐味はハイキングにあり、といっても過言ではない。」

(『地球の歩き方、スイスアルプス・ハイキング』2007-2008年より)



20歳前後の頃は、今井通子さんの講演を聴きにいったり、新田次郎さんを本を
たくさん読んだりしていたので静かにこころときめきました。

すべて以前の携帯で撮った写真なので解像度は低いですがよろしかったらご覧ください。

グリンデルワルトの駅前。






夕方チーズフォンデュを食べに行こうとお店を探していた時に
撮った写真だと思います。
ハイジとペーターがひょっこりと顔を出しそうな空気感を感じました。
すごく寒かったです。




ユングフラウ鉄道を撮りました。








こちらもグリンデルワルトでの一枚。




苦しくって苦しくってどうしようもないような中で、
ひたすら走り続けた自分へのご褒美旅行でした。
まだ引きずられていて、どうやってこれから背負って一緒に生きていけばいいのか
わからず手探りをしている毎日。
ゆっくりゆっくりと気持ちを切り替えて行くほどの猶予は許されないけれど、
もうしばらく時間が必要な感じで過ごしている毎日。
ほんとうによくがんばってきたなあ、よくやってきたなあと
涙があふれそうになりながら、こうして旅の思い出をたどっています。


『エリザベート』の思い出(5)

2015年05月19日 22時59分23秒 | ミュージカル・舞台・映画
「19世紀末のこの時代、ハプスブルク王朝のオーストリア・ハンガリー二重帝国は世紀末の文化が花開いていた。当時多民族国家のハプスブルク帝国は政治的には斜陽の落日の一途をたどっていた。支配下にあった北イタリアとの戦いに敗れ、イタリアは独立、北方の雄プロイセンとの戦いにも大敗して圧倒され、きびしい試練にさらされていたが、文化的には音楽、絵画、文学、建築、都市計画、法学、経済学、医学と多方面の分野に天才たちが輩出し、アルプス山脈のように峨々たる多様な高度の文化を築き上げていた。

 エリザベートの美しく典雅な気品ある姿はこの絢爛たる王朝文化の象徴のようであったが、その死の20年後の1918年、第一次大戦の終結とともに、700年近く中欧に君臨してきたハプスブルク帝国は崩壊した。彼女の死はその弔鐘でもあった。」


(2000年東宝初演『エリザベート』のプログラム、
 塚本哲也「ハプスブルク家と皇妃エリザベート」より引用しました。)


2009年9月25日から12月14日まで国立新美術館で開かれた『THEハプスブルク』で購入した絵葉書より。


1865年のシシィの肖像画。
舞台はプロローグの後、16歳のシシィがこの肖像画から飛び出す場面から始まります。
一幕最後の鏡の間で、この肖像画を模した豪華な衣装を身にまとったエリザベートが、
「私だけに」を歌いあげて、自我に目覚めたことを印象づけます。
東宝版は、エリザベートが「私に〰♪」、宝塚版は、トートが「エリザベート〰♪」と歌って一幕終了。
今年の夏の舞台はこの場面がどんな豪華な衣装になるのか楽しみです。



1865年-70年頃のフランツ。エリザベートとはいとこ同士です。
結婚によって領土を広げてきたハプスブルク。マリー・アントワネットも
ハプスブルクです。
家系図をみながら、ルドルフがもっと長く生きていたら世界の歴史は違っていたんじゃないかと思ってしまいます。ルドルフはエリザベートの気質を受け継いだ人でした。

宝塚初演、雪組の舞台の成功は、妻にも息子にも先立たれながら皇帝としての政務を全うし、
てハプスブルクの終焉をみることなくこの世を旅立つ忍耐の人、フランツを演じた高嶺ふぶきさんの功績も大きかったと思います。エリザベートの影にまわる、地味な役柄ですが、舞台全体を支えていました。

「皇帝は自分のためにあらず、国家と臣民のために生きる。
 険しい道を歩むもの。
 皇后となる人にもひとしく重荷が待っている♪」

シシィを見初めたフランツが言い聞かせますが、16歳の溌溂とした自由人のシシィにわかるはずがありませんでした。シシィと世界中を旅することを夢見てフランツと結婚しますが、
待っていたのはがんじがらめの宮廷のしきたりでした。
結婚式の後の舞踏会で、トートがシシィに「おまえの過ち」としのびよっていきます。
うまくつくられています。

終わらなくなるので今日はここまでにします。




思ったよりも・・・

2015年05月18日 23時28分30秒 | 日記
ぷらぷらっとしながら、せっせと断捨離しながら、少しずつ整理しながらの回復の日々。
リーズナブルなお値段で体験できるスタジオがあったので、久しぶりにピラティスをやってきました。残念ながら入会するとなるとスポーツクラブなみにかかってくるので今回きりですが、思ったよりも体が動いて、私大丈夫なのかな、って感じました。

働いていた頃は近場のスポーツクラブでお値打ちなチケットが出ると購入しては
ピラティスやヨガをやっていたのですが、今そこに行くことはできないので、
本当に久しぶりでした。

こうしたプログラムに参加してみると、自分がどれぐらい疲れているのかわかります。
心身をすり減らしてきた日々によってどれぐらいダメージを受けているのか、
心配でした。

駅一つ隣の近場でしたが、地図を見ながら知らない場所にいって、知らない人と顔を合わせて話をして、着替えたりおトイレに行ったりの使い勝手も初めての場所。
小さなことのひとつひとつが、初めてのことが連続する中で、大変なエネルギーを消耗してきた今の私にとってはストレス。なかなか人にわかってもらえないことを抱えてしまって、なかったことにはできないことがストレス。

なんか疲れてしまっていて、やっぱりまだ無理なのかな。
こんなことでもきついのかな。
最初は体も動かないし、そう思ったのですが、やっているうちに体が感覚を思い出してきて、
心配していたよりも体がちゃんと動きました。
一時間のプログラムをやりながら、こんな小さい体の全身のエネルギーをふりしぼってがんばってきた自分はえらいなーって思いました。よくやれました。
思ったよりも体が動いたことで、私なんか大丈夫なのかな、って感じました。
細々とストレッチしたり、内科のリハビリでマッサージ受けたりしているのも
功を奏しているみたいです。

具体的にいつどうなるということはまだありませんが、ずーっとずーっと今の状態が続くということはたぶんない感じがしてきました。
まだそこまで自信はもてませんが、ずーっと続いていくことはないようにできると思います。
ただもうしばらく時間は必要な感じです。
そんなにかんたんには終われない。切り替えられない。
なかったことにもできない。
今の私のような者が安心していられる場所はないことがわかったので、
また傷つけられるんじゃないかっていう警戒心があります。
大変なことの連続だったので仕方ないです。

風の音に、なんとなく大震災のあとの緊張感がよみがってくる感じがあって落ち着きません。
受けとめきれないことが多すぎていっぱいいっぱい。謙虚に生かされているという気持ちを大切にしながら、どうにかこうにか乗り切っていきたいです。

妹とのお別れのあとの日記に戻ろうとしていましたが時間がなくなったので
また今度にします。

春のプリンス・エドワード島。
モンゴメリさんが生まれた家のお庭も緑がきれいでした。

旅の思い出写真_ノイシュヴァンシュタイン城

2015年05月17日 21時48分45秒 | ドイツロマンティック街道とスイスアルプス
断捨離もようやく進んできた感で、自己肯定感回復へのプロセスをゆっくりと歩む中、
久しぶりに、2007年10月の旅の思い出写真を更新します。
なんだかやっとここまできた感です。

写真は、以前の携帯で撮っているので解像度が低いですが雪の中のノイシュヴァンシュタイン城。日本を出発してから四日目。2007年10月23日。

ライン河クルーズ→ロマンティック街道・ヴュルツブルク市内見学→ロマンティック街道・ローテンブルク市内の見学→スイスアルプスへとバスで長期離移動している途中で見学しました。
移動途中からだんだんと雪が舞い始め、どんどんと降りしきる感じになっていって、
お城に着いたころにはすっかり雪に包まれていました。
雪が降ると静寂感もあって、途中の雪景色も、雪に包まれた城も、すごくきれいでした。

この城を建てたバイエルン国王ルートヴィヒ二世は、エリザベートのいとこ。
見学の後、売店で購入した日本語のガイドブックから関連の箇所だけ引用してみます。

「若き国王の異性とのつきあいは少なかった。1864年の夏の四週間をバート・キッシンゲンで過ごした時は、熱狂する女性に囲まれ、いたるところで大人気であった。この年にはルートヴィヒがロシア皇帝の王女をバイエルンに連れ帰るという噂が立ったが、憶測にすぎず民衆はがっかりしたものであった。いとこでオーストリア皇帝妃であったエリザベートとだけは生涯を通じて親交があった。

1867年1月22日、ルートヴィヒ二世と敬愛するオーストリア皇妃エリザベート(愛称シシィ)の姉妹でいとこにあたるバイエルン王女ゾフィー・シャルロッテの婚約が取り交わされ、婚儀は1867年10月27日と決められた。金色の馬車が用意され、記念硬貨も鋳造された。ところが突然10月10日になって若き王は婚約を解消してしまった。以来王は再び結婚のことを考えることはなかった。」

 東宝版『エリザベート』の終盤では、1886年6月ルートヴィヒ二世が湖で亡くなったことが、晩年のシシィに次々と不幸がおそいかかっていったことを象徴する出来事の一つとして描かれます。ハプスブルグ家のことを本で読んだりしているととまならくなってしまうので、これぐらいにしておきます。


ガイドブックに掲載されている若き日の王の姿。たしかにかっこいいですね。






『みんな、絵本から』より_レイチェル・カーソン

2015年05月16日 21時44分31秒 | 本あれこれ
5月だというのに、9月の台風シーズンのような感じでなんとなく落ち着かない、
震災直後の緊張感に似たものを感じてしまうこの頃。
今日はまた涼しくなっています。

真夏日が続いた一週間。
昨日はまた当事者の分かち合いの会に参加させていただきました。
はじめての方が何人もいらっしゃいました。
お別れからまだ本当に日が浅い方もいらっしゃいました。
もうかなり心の整理がついてきたのかなあと思っていても、
いろいろな方のお話を聴かせていただいていると、妹とのお別れの直後の
闇の中にいたような時間を思い出します。心が波立ち、さざめきます。
やっぱりいつまでも、どこまでも、自分がこの世での旅を終える時まで、
心の旅は終わらないのだとあらためて思いました。
背負わなければならなくなった荷物の重さを、
時間の経過とともに軽くなったように感じることはできても、
荷物の重さは変わりません。
楽なることはないのだとあらためて思いました。
妹が教えてくれた生きることの深さ。
限りある時間を一生懸命に生きるのが私の役割。
あんまり一生懸命ばっかりも疲れてしまいますが、いい加減なことできないなあ、
ほんとに。




「「いのち」の感覚は、感動体験から生まれる

 ある日、森の中で遊んでいたレイチェルは、
 不思議なうずまきもようの入った石を見つけました。
 お母さんに見せようと、
 レイチェルは石を持ってかえりました。
 お母さんとレイチェルは、いっしょに本で調べました。
 このあたりは、何百万年も昔、海の底で、
 そこに生きていた貝が化石になったのだと、 
 お母さんは教えてくれました。
 ここが海だったなんて!
 レイチェルは毎日午後になると、お母さんと森を歩き、
 昆虫や鳥や植物の名前を教えてもらいました。
 お母さんは、本もよく読んでくれました。

 
 レイチェルはやがて成長して海洋生物学者となり、
 農薬によって昆虫も小鳥も川の魚も
 死滅していることを告発した著書『沈黙の春』で
 自然環境保護運動の先駆者となったのです。

   -絵本『レイチェル 海と自然を愛したレイチェル・カーソンの物語』より要約」

(柳田邦男著、石井麻木写真『みんな、絵本から』講談社、2009年発行より引用しています。)

 

みんな,絵本から
柳田 邦男
講談社

できることから少しずつ・・・

2015年05月14日 23時01分14秒 | 日記
五月の半ばですが、梅雨を思わせるようなもやが夕方から立ち込めている感じです。
急に暑くなると冷房に弱い私は、それはそれで大変なこの頃。

二歩進んで三歩さがったり、三歩進んで二歩下がったりしながら日々を送っています。
明日はここまで、その次の日はまた明日はここまでと、一日一日が精一杯。
調子がよかったり、悪かったり。
そんな中ですが夕方から大事な集会に参加してきました。
一年前の自分には思いもよらなかった、でも去年の秋二度ほど行ったので
もう驚かなくなった所にも行ってきました。
振り返ってみて本当によくやったと思います。
妹が守ってくれている、背中を押してくれているという思いがあるからやれました。
いつどんな答えが出るのかわからない不安とストレスのなかで、
ひとつひとつこれでいいのだろうかと迷い自分の心に問いかけ続けて、
その時にできる最善だと思うことを選んでやってきたことは、
間違ってはいなかった、自分には必要なことだったんだとようやく思えるようになりました。
半端じゃなくすごいマイナスエネルギーにあたってくらくらになりながらも、気持ちで負けませんでした。
まだ交感神経ばっかり働いている状況が続いているので時間が必要かな。
もうしばらくこんな感じで続いていきそうですが、たぶんずっとではありません。
少しずつの回復のプロセス、大事なことをやってきました。
これでよかったんだと本当に思えるまでに、きっともう少し。

春のプリンス・エドワード島から曇り空の写真を選びました。






『木靴の樹』シナリオ(6)

2015年05月13日 21時44分03秒 | 映画『木靴の樹』
1990年公開映画パンフレット(フランス映画社発行)より引用します。


紡績工場の作業場(夕)

  午後の光のさす作業場で、女達が歌いながら働いている。
  ブレナの美しい娘マッダレーナもいる。終業の音が鳴ると、
  女達は先を争うように階段を降りる。


ポプラの並木道

  鐘の音。家路を急ぐマッダレーナ。
  後ろから彼女を追ってきた若者ステファノが、声をかける。

ステファノ

 「あんたに挨拶してもいいかい? “こんばんは”だけでも言いたい」

マッダレーナ

 「それだけなら構わないわ」

ステファノ

 「君は黙ってるの?」

マッダレーナ

 「(控えめに微笑み)”こんばんは”なら私も言うわ」

嬉しそうなステファノ。歩み去る彼女の後姿を見送り、来た道をひき返す。

畜舎

  二人の様子を不安気に見る父親ブレナ。

ブレナの家・台所

  無言の娘の様子を、黙って見守る両親。
  当のマッダレーナは、何事もなかったように食事を始める。


バティスティの家・台所(夜)

  バティスティはお湯をわかしている。ミネクの明日からの学校にそなえ、
  バティスティーナがカバンを縫っている。


バティスティーナ

 「湯かげんは? お湯がぬるすぎない?」

バティスティ

 「大丈夫だ。とても熱い。(裸のミネクをつからせ)中に入ってしゃがむんだ。
 背中を洗って、それから首と耳をよく洗うんだ。目をとじて、石けんで洗うよ。
 きれいになったぞ、そおら」

トゥーニ

 「ぼくもお湯につかりたい」

 出来上がったカバンに、ノートとえんぴつを入れるバティスティーナ。

トゥーニ

 「これ、学校へ持っていくの?」

バティスティーナ

 「(小さなトゥーニの手をそっとおさえ)さわらないで」



木靴の樹 [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社

「大草原の小さな家」への旅_絵葉書集

2015年05月12日 18時23分44秒 | 「大草原の小さな家」への旅
「大草原の小さな家」への旅の更新は久しぶりになりました。
まだまだ写真を載せきれていません。

ため込んできた色々なものを整理しつつ、少しずつ、少しずつ進んでいく毎日です。
ようやく、ローラツアーで買い求めたものやパンフレットを整理することができました。
やっとここまでたどり着いて、少し落ち着いてきたでしょうか。


ローラの写真を使った絵葉書が出てきました。
ミズーリ州マンスフィールドのローラの家の隣の売店で買ったものだと思います。


こうしてながめていると、ほとんどがアルマンゾの手によってつくられた家の中のぬくもりを思い出して元気をもらえるような気がします。
いくつかの意味でかなり無理をして出た旅でしたが、たぶんこの機会を逃していたら二度と行くことはできなかったでしょう。現地に行って自分の目で確かめて肌で感じなければわからないことがたくさんあったし、なによりもストレスをため込んでいた日々の中で、飛び立たないではいられませんでした。
時間もお金もかかるヨーロッパや北米は、この時というタイミングを逃すとなかなかいくことができないので、やはり貴重な機会だったと思います。

ローラの表情に、意志の強さを感じます。



インガルス家の三姉妹。





1885年、新婚のローラとアルマンゾ。




1900年のローラ。
1886年に長女のローズが誕生。
一家は1894年に中西部から中南部のミズーリ州マンスフィールドに移住していました。





1942年のローラとアルマンゾ。ローラ75歳、アルマンゾ85歳。





ウィスコンシン州ぺピンのローラが生まれた丸太小屋が復元されています。
ローラも子どもの頃、きっとこんなふうに元気に駆けていたんでしょうね。





ミネソタ州ウオルナット・グローブの博物館に展示されているローラ手作りのキルト。


『ちひろのアンデルセン』より『絵のない絵本』第33夜

2015年05月11日 23時04分28秒 | いわさきちひろさん
子どもたちが眠りにつく時を
月は見守っていました。
四つになる女の子が
一心に祈っています。
「われらの父よ、
 パンを与えたまえ。
 パンにはバターも
 どっさりつけてね」

(いわさきちひろ絵本美術館編『ちひろのアンデルセン』講談社文庫、1994年発行より引用しています。)


絵のない絵本 (若い人の絵本)
アンデルセン
童心社