たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

新緑の季節に徒然に・・・

2015年05月10日 23時37分11秒 | 日記
5月だというのに台風がきたり、箱根の大涌谷の噴火が気になってしまったり、
涼しいのにお店に入れば冷房の効きすぎて寒かったり、落ちつかない感じで新緑へと
季節は足早に通り過ぎようとしています。つつじがきれいですね。

おそめのお昼を食べて自分の部屋ではやりたくないパソコン作業をやるために
街に出たらお花屋さんの前がにぎやか。
今日は母の日なんですね。
お花屋さんの前に集う家族の風景。
家族ほどおもいものはないかもしれないし、同時にかけがえのないものはないのかもしれません。

父も母もお星さまになってしまって、もうどこにもいないということが
信じられないと言えば、やっぱりまだ信じられない感じもあります。

あらためて思います。
一つのいのちが育まれ、無事に産まれて、無事に育っていく、そして生き延びていく。
それは当たり前すぎることのようで、実はすごい奇跡にちかいことなんだと。

今こうして私がどうにかこうにか、ふらふらしながらも自分の足で立っていられるのは
母が一生懸命に育ててくれたからなんだと。
どうして妹がいなくなってしまったのかはわからないけれど、
私たちは幼い頃、父と母からたくさん、たくさんの愛情をうけました。
幼い頃、家は安全基地で、私たちは両親に守られていました。
それは変わることのない事実、だから今私はここにこうしていることができます。
大変な時が続いていますが、たぶん私が本来持っている健康的な力を、
ほんの少しずつ、少しずつですが回復することができていると思います。
それは私の体が、愛情いっぱい育ててもらったことをちゃんとおぼえているから。
だから自分を信じる気持ちを取り戻していくプロセスを、一日一日歩むことができています。

父も母も妹も、それぞれに神様から与えられた時間を一生懸命に生きました。

人は生きている間、いかに生きたかを大切にしたいと松本侑子先生がおっしゃってくださったことがあります。

モンゴメリさんは、晩年、旦那さんの精神疾患、世界大戦、出版社との争いなど神経をさいなまれることが多く苦しいものだったようですが、一生懸命に生きられたと思います。
だから、モンゴメリさんの描いたアンは、今も私たちの心の中に生き生きと立ち上がってきます。

ようやく素直に体がつかれたよーと言ってくれるようになったこの頃。
しんぼうの時は続いていきますが、自分の感性を信じてみようと思います。
次の一歩までまだ時間が必要ですが、まだちょっと人がこわかったりしますが、
たぶん回復に向かっています。

写真は、銀の森屋敷に飾られていた『赤毛のアン』を書いた頃のモンゴメリさんです。


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どんな方のところへ届いていくのか、ちょっとドキドキしています。

『エリザベート』の思い出(4)

2015年05月09日 22時10分42秒 | ミュージカル・舞台・映画
「(ルドルフ亡きあと)彼女のさすらいの旅への衝動はさらに激しさを増していった。居ても立ってもいられなくなったのである。アフリカやイタリア、ギリシャなどに上陸すると、焼けつくような熱い太陽の照りつける地を素足で何時間もぶっつづけに歩きつづけた。死に向かっての自虐的な逃避行であった。

 息子ルドルフの死の後、彼女は公式行事にさえも黒の喪服で出席した。「ルドルフの死は私の信仰を打ち砕きました。これからまだ長い年月、生きつづけるなんて、気が狂いそうです」
と、末娘につぶやくような悲しみと無力感、自己嫌悪の中で、彼女はいつも死を身近に感じていた。死こそ安らぎの時であった。

 安らぎの時はおもいがけなく、ある晴れた日に訪れてきた。

 1898年9月10日のさわやかな秋の日の午後1時40分。スイス、ジュネーブのレマン湖で蒸気船に乗ろうとした時に、突然暴漢に襲われ、心臓を一突きに刺され、67歳の生涯を閉じた。犯人は25歳の無政府主義者のイタリア人、ルイジ・ルケーニだった。「高位高官の人物だったら、誰でもよかった」とうそぶいていた。あまりにも突然のドラマティックな死で、まるで死神がつかわした宿命の使者のように思われた。」

(2000年東宝初演『エリザベート』のプログラム、
 塚本哲也「ハプスブルク家と皇妃エリザベート」より引用しました。)


 雪組初演の舞台を観たとき、一番インパクトがあったのは轟悠さん演じるルキーニだったでしょうか。女性がひげをつけて男役を演じるのは宝塚でもう珍しいことではありませんでしたが、その立ち居振る舞い、いやらしい表情は、男性よりもより男性らしくて同時に女性が演じる男性だからこそ出せる味がありました。裁判長に「皇后殺害の動機を述べよ」と迫られたルキーニが悪びれることなく、「皇后本人がのぞんだからだ」とうそぶき、ハプスブルグの黄昏時を生きた人々を黄泉の国から立ち上がらせて舞台は幕を開けます。

 宝塚版と東宝版とでは違うところがいくつもありますが、ラストでシシィが天に召される場面。宝塚版では、黄泉の国へとシシィを迎えに来たトートと結ばれて昇天していきますが、東宝版は、シシィとトートは最後まで結ばれなかったという描かれ方になっているところが一番ちがうかなと思います。東宝版では、トートがシシィを棺に入れて蓋を閉じると棺を乗せたゴンドラが天に上がっていきます。なんとなくあっけな過ぎる終わり方に違和感があってもう少し違う感じにならないかな、今年のキャストが一新された舞台ではどうなるでしょうか。

 宝塚では芝居の後にショーがあるのも嬉しいです。「闇が広がる」のメロディにのって、男役が群舞で踊る場面が、特に見応えがあって大好きでした。フランツを演じた高嶺ふぶきさんが男役を率いてさっとう踊る場面、今映像で観ても素敵です。

 ルドルフ亡きあと、シシィが棺にすがりついて、「ママは自分を守るためあなたを見捨ててしまった」と泣く姿に、私はいつも心のすみっこで自分を重ね合わせているところがあります。初演を観た時は特にそうでした。
私には辛いことですが、それでも観たくなってしまう作品です。
「私たちは似たもの同士。この世で休めない。今あなたは最後に安らぎを得たのね」
棺にすがりながらシシィがルドルフに語りかけます。
トートの姿がみえていたのは、シシィとルドルフの二人だけでした。

楽曲が耳に残りやすく、知らず知らずのうちに、宮廷人である登場人物ひとりひとりの孤独に感情移入しながら観ています。トートとシシィの恋愛が軸になって展開していくというストーリィは、ビジュアル的に少女漫画のような世界観なところも惹きつけられるところかなと思います。

思いはまだまだ尽きませんが今日はここまでにします。

トップの写真は、2012年8月4日の中日劇場で東宝の『エリザベート』上演1000回を迎えた場面で、げきぴあから転用しました。ゲストに、シングルキャストで1000回のうち半分以上シシィを演じた一路さんが登場された様子が動画サイトにアップされました。

2012年5月17日の帝国劇場のキャスト。





2012年6月12日の帝国劇場のキャスト。



杜けあきさん演じるゾフィが信念をもってハプスブルグ家をまもるためにがんばってきた心情を独白する場面が追加されていて印象的でした。

『Golden Songs』

2015年05月08日 23時11分40秒 | ミュージカル・舞台・映画
GW中の5月4日は、ラフォルジュルネジャポンの会場で行われたOTTVAの公開録音の会場に行ってきました。
数え切れないほどたくさんの苦しい朝、背中を押してくれた本田聖嗣さんがプレゼンターをつとめられた日でした。
ゲストの成田達輝さんのヴァイオリンの生演奏が素晴らしかったです。
ホールの天井から陽がさんさんとふりそそいでまぶしいぐらいの中、ずっと坐っているのも疲れましたが、夕方の林田直樹さんとのオフ会トークまで聴いてしまいました。
有名作曲家の恋愛や結婚にまつわるエピソードがいくつも飛び出してきて、なるほどなるほどでした。

悪妻と言われるモーツアルトの妻コンスタンチェですが、彼女がモーツアルトが夭逝した後、伯爵と再婚し夫が残した楽譜をきちんと保存したから今私たちはモーツアルトの楽曲の演奏を聴くことができる。
ミュージカルの『モーツアルト』を去年観ているのでふむふむ。
逆に良妻と言われているクララ・シューマンが、実は精神的にシューマンのかなりの重荷になっていたという話があるとか。
じゃあ何が良妻で何が悪妻ですかっていうことですよね、という林田さんのコメント。
ふむふむ、なるほど。
バッハの長男の手に渡った楽譜は散逸してしまっていて残っていないけれど、次男はバッハの楽譜をきちんと保存していたので今私たちはバッハの楽曲を聴くことができる。
そうなのか。

ゲーテの文学作品だって、彼の孫たちが原稿を保存管理していたから今私たちはゲーテの作品を読むことができるという話をきいたことがあります。
今のようにコピーやデジタルがなかった時代の作品が受け継がれていくということは、そういう家族の手による努力があったからなんですね。
その時代を生きていた彼らが後世にこうして受け継がれていくことを目的に作品を生み出したわけではないはずです。その時代を一生懸命に生きて、その結果普遍的な力をもつ作品が
こうして受け継がれてきている。なんだか人の生きる営みって不思議です。

音楽に、ミュージカルに、本当に助けられてどうにかこうにか心のバランスを保ちながら
ここまで来ることができた日々でした。去年はミュージカル、コンサートといくつも生の舞台に出かけました。結局全部持ち出しになってしまいましたが、強烈なマイナスエネルギーに負けないためにはすべて必要なことでした。心のエネルギーを満たしてくれる時間がなかったら、こわれてしまっていたと思います。

少し前ですが、2月20日には国際フォーラムの『GoldenSongs』に行ってきました。
ぎりぎりまで迷いましたが、一路真輝さんが出演される千秋楽、『エリザベート』の曲を歌われるというので前の晩ネットでチケットを購入しました。

宝塚の男役出身と東宝のミュージカルで活躍している男性陣とで構成されている、なかなか濃いメンバーでのコンサートでした。そう、ゲストで花ちゃんが出演した日以外は姫役がいませんでした。

男役の出身者は、男役と女役を自由に行き来してすごいなあと思いました。
湖月わたるさん、5月の『セレブレーション宝塚』の舞台もそうでしたが、長い手足を生かしたダンスを披露していました。素晴らしかったです。「王家に捧ぐ歌」では、ひととき男役時代に戻っていて、変わりませんでした。
『マルグリット』から春野寿美礼さんが「china doll」を歌い、湖月さんがダンスを踊る場面は秀逸でした。観ていませんが、いい作品なんだろうなと思いました。
プログラムをみて勉強しました。

一路さんの「星から降る金」。
私が観劇から遠ざかっていた時期で、地方公演で『モーツアルト』に出演されていたとは知りませんでした。モーツアルトを演じたことのある中川さんに語りかけるような歌い出しでした。人によって解釈が違うので、歌い方もちがってくる歌だそうです。
東宝初演の『エリザベート』でしか聴くことのできなかった「夢とうつつの間で」。
すごくなつかしい感じでした。暗いですが、孤独なエリザベートの心の揺れ動きがていねいに歌われている幻の名曲。たしか、コルフ島に旅してハイネのように詩を書く場面で歌われていたと思います。
マテ・カマラスさんと「私が踊る時」を日本語とドイツ語でデュエット。
肩のあいた黒いドレス姿が美しかったです。一路さんのデコルテは、宝塚時代からほんとうにきれいです。

『エリザベート』は楽曲がいいんだとあらためて思いました。
マテ・カマラスさんと平方元基さんの「闇が広がる」。
春野寿美礼さんの「パパみたいになりたい」から、
伊礼彼方さんとのデュエットで「夜のボート」。
ずんこさん(姿月あさと)の「最後のダンス」も、歌声がますますかっこよく、怪しく高く響いて冴えわたっていました。また生で聴けるなんてお金にはかえられないものがありました。

『エリザベート』経験者がずらりと並んでトート閣下が何人いるかわからない中で、一秒も出たことがない自分が歌うのもキッチュ(まがいものの意)だからいいんじゃないかとご本人が
話された石井和孝さんが「キッチュ」を歌う場面。
ルキーニを演じた湖月わたるさんと樹理咲穂さんも登場して、歌にトークに楽しいひとときでした。

『モーツアルト』から中川晃教さんの「僕こそミュージック」、山崎育三郎さんの「何故愛せないの?」、曲だけをじっくり聴けたのもいいもんでした。

『ロミオとジュリエット』は観ていないので曲を知りませんでしたが、後半最初の「世界の王」はロック調でのりのりでした。平方さんの「どうやって伝えよう」、山崎さんの「僕は怖い」、歌詞がわかりやすくて伝わってきました。波が出ていました。
『エリザベート』クリエイター陣の曲はやはりどれもいいと思いました。

ずんこさんの『ファントム』から、子を思う母の心情を歌った曲も響いてきました。

半分は自分は観ていないミュージカルの曲でしたが、歌唱力が安定している方ぞろいで楽しめました。

長くなってしまいました。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
気持ちを整理し断捨離しつつ、自己肯定感を取り戻していくプロセス。
ぷらぷらと浮き草のように過ごす日々はもう少し続いていきそうです。
すごいことをやっていました。緊張感から解放されてようやく素直に疲れが
出てきているようです。

『Golden Songs』キャスト


本来の私を取り戻していくのにもう少し時間が必要な感じですが、きっと大丈夫。
妹が守ってくれていると信じます。

『ちひろのアンデルセン』より『絵のない絵本』

2015年05月06日 22時45分03秒 | いわさきちひろさん
「アンデルセンの『絵のない絵本』、私は前からこの話が好きだったのですが、先日さしえを描きあげたばかりなので、なお印象がふかいのです。貧しい屋根裏住まいの絵描きの青年に、月が毎晩訪れて語ってくれた物語です。

 ガンジス川に灯をながして愛する人の生死をうらなう少女の話、フランス革命のとき玉座で死んでいった少年の話、パンにバターをたくさんつけてと祈る小さな女の子の話など、一夜から三十三夜までの短い話が集まっています。詩集のようにふとひらいて、一つ二つよむとまた味わいが深いと思います。

 今から何百年も前にかかれたものですが、人の世の真実が書かれていて、それは今の世と全く同じです。アンデルセンは神の信じていた人ですが、神の力ではどうにもならない人の不幸をリアルにえがき出しているところも面白いと思います。大人の世界がわかりかけてきた少年や少女に一度は読んでもらいたい愛と詩の絵本です。

                     ちひろ 1966年」

(いわさきちひろ絵本美術館/編 『ちひろのアンデルセン』講談社、1994年発行より。)


 ちひろさんのたしかなデッサン力に裏打ちされた筆は、因果関係では説明のつかない、人が生きることの哀しさ、切なさ、どうすることもできない別れの場面を物語以上に物語っている一冊だと思います。いろんなことがあってから戻っていくと、若い頃にはわからなかった、ちひろさんが共感し描こうとしたアンデルセンの世界に少しは近づけたような気がします。
 悲しいことや苦しいこととの出会いは、なぜそうなのかではなく、私を大きくしてくれていると思いたいです。プラスになる時が訪れると思いたいです。人生が私に何を問いかけているのか、手探りの日々は続いていきます。本当にこれでいいのか、今は自分でもわからないですが自分を信じてみるしかありません。


絵のない絵本 (若い人の絵本)
アンデルセン
童心社

祈りの日

2015年05月04日 00時00分40秒 | 祈り
今日は妹の誕生日でした。生きていればいくつになっていたのかな。
考えてみたら信じられないような気持ちになりました。
縁あってたまたま今日という日に、都内のお寺さんの永代経法要にお招きいただきました。
3月にグリーフケアの集いで初めておじゃましたお寺さんです。

私が自分は自死遺族であることを人に語れるようになったのは母親とのお別れから一年ぐらいすぎてからのこと。なにか人に伝えていかなければならないような思いに勝手にかられてからのことでした。それでこのブログも始めました。
それまではほんの限られた人にしかいうことができませんでした。
今は語っても安全だと思える場所であれば語るようにしています。
語ることで思いもかけない事件遺族の方とのつながりができて、そのご縁で
グリーフケアの集いに参加し、今日の法要へお誘いいただくこともできました。
感謝です。

3月に初めて当事者として話をさせていただくにあたって自分の21年の心の歩みを時系列で振り返りました。自分のことなのに涙が出てきてしまったことは以前にも書いていると思います。
あれほど泣いたことも苦しかったこともやっぱりなかったです。
なぜ自分の家族なのか、なぜ自分の妹なのか、答えがどこかにあると思って探し続けたけれど
どこにもありませんでした。
消し去ることも、乗り越えることもできない。そのまま受けとめて一緒に生きていくのが私に与えられた役割。

たくさんのことを教えてくれました。たくさんの出会いをくれました。
私なりのやり方で、細々とですが受けとめて伝えていきたいと思います。

生きていくことはほんとうにこれが絶対に正解だというものはなくて、とりとめのないことの連続。迷い道、小道。あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、ジタバタジタバタしながらやっている私を、妹はどんなふうに空からみているんでしょうね。
ばっかだなあって笑っているのかな、がんばれよっていってくれているのかな。
わかりませんが、普通はやれないような混乱をやりきったのは妹がずっと背中を押してくれて
いたからにちがいないと思います。そういう力がなければやれないぐらい大変なことでした。
大変なことでしたが、自分自身のために必要なことでした。
きっとこれからも見守ってくれている、きっと導いてくれると信じて、もうしばらくこのまま進んでみようと思います。

妹の分まで生きるのが私の大切な役割。
そこがぶれなければきっと大丈夫・・・。

イタリアの美しい村の写真展とトークショー

2015年05月02日 22時25分15秒 | 本あれこれ
今日はアンセミナーでご一緒させていただいている方と久しぶりにお会いして、吉村和敏さんの写真展とギャラリートークショーに行ってきました。すごい人ごみの新宿駅を抜けて西口のビルへ出ると少しほっ。
プリンス・エドワード島の写真で有名な吉村さんですが、プリンス・エドワード島ばかりではありません。

入った頃にはまだ余裕がある感じでしたが、トークショーが始まる頃には、気がついたらぎゅうぎゅうになっていました。吉村さんが各写真パネルの前で説明をして、吉村さんが移動するのに合わせて私たちも移動するという形式で、人が集まり過ぎるとちょっとせまかったかな。
むずかしいところでしたが、久しぶりに弁舌爽やかな吉村さんのトークをきいて元気をもらえた感じです。ちびたの私は、背伸びをしても見づらい位置に最初いましたが、途中から近い位置に場所をとりながら見ることができました。

イタリアの美しい村の認定は毎月更新されるので、写真集は去年の6月時点の234の村としたそうです。白い建物一色の村、花にあふれた村、もうすぐなくなってしまうと言われていて今は8人しか住んでいない村、映画『木靴の樹』の舞台ロンバルディア地方のけむりがかぶるような北イタリアの村の写真もありました。
こういう村に暮らす人々はどんなふうに暮らしをたてているのでしょうね。

ある村の路地で刺繍に専念していたおばあさんは吉村さんが写真を撮るのをやめた途端、
できあがった刺繍作品を売り込もうと一生懸命になったとか。芸術家は作品を作るのには
必死になるけれど、自分も含めて売り込むのは苦手なので、見習いたいですねというお話でした。

シチリア島に行くというとマフィアのイメージが強いので人から止められたそうですが、吉村さんが行ったのは街中ではなく田舎の安全な場所。そこで漁師さんの仕事を眺めているおじいさんは背広に帽子姿でそれだけで絵になってしまう。マフィアスタイルでかっこいい。イタリアのおじいさんたちは、どんな服装をしていてもかっこいいという吉村さんのお話でした。

村の名もない教会に入った途端、フレスコ画が描かれた宗教画が目に入ってくるとそれだけで感動だったそうです。先日ボッチチェリの巨大壁画をみたばかりなので、また深く感じるものがありました。
村のなんでもないような石づくりのところに、何でもないようにマリア様が描かれていたりするのは、宗教と共にある日常生活の風景のひとつ。

こうやって日本からは遠い国でも日常生活が日々営まれているというのは当たり前すぎて
普段は考えることがありません。
そんなことにあらためて思いを馳せる時間を過ごすことができたと思います。

終わってからはお茶を飲みながらいろいろとお話もさせていただきました。
気持ちを整理するための作業を少しずつ進めてきて、どうやら自己肯定感と落ち着きを
ゆるい歩みですが少しずつ取り戻しつつあることに気がつくことができました。
まぶしい陽ざしの鮮やかさと共に、外はちょっと暑かったですが爽やかな一日でした。
ありがとうございました。



「イタリアの最も美しい村」全踏破の旅
吉村 和敏
講談社

『トスカーナの青い空』より_「ボッティチェッリの春」

2015年05月01日 21時25分28秒 | 本あれこれ
「花の都、フィレンツェ」とはあまりにも言い古されたことばだが、その昔といっても紀元前50年くらいというから相当なものであるが、もうすでにこの町は花の町と呼ばれるべくして生まれた。それよりもまた千年も前にこの近くのフィエゾレにはエルトリア人が住んでいて、古代ローマ人は彼らを追い出そうとして今のフィレンツェのちょうど共和国広場があるあたり一面の“花咲く野”に植民地を建設したのだ。フィレンツェの歴史はこうして始まる。

 それからおよそ1500年の時を経て、その花咲く野に花の女神と美の女神を描いた傑作が誕生した。それはサンドロ・ボッティチェッリの『プリマヴェーラ(春)』である。この『春』という題名はかのヴァザーリが勝手に命名したもので、画家自身はどういう題名を付したかは分かっていない。それどころかこの絵の主題がなんであるかさえ諸説粉々である。しかし、私としてはまあそれはどうでもよいではないかと、ただただこの絵の前に立って陶酔にひたるだけである。目の前のうまい料理をいただく前に材料は何かなどと探っていては、せっかくのものが冷めてしまったりまずくなってしまう。

 しかし、見れば見るほど美しさの影に隠れた神秘を感じるのは確かであり、それがまたこの絵の魅力なのだろう。たとえばビーナスやフローラ、三美神らの足元一面に咲き乱れる花々はいったいどんな花なのだろう。そんな興味を持ち始めたら、やはりいろいろ調べたくなるのも無理はない。幸いにしてレヴィ・ダンコーナという研究者がそれをやってくれた。彼によるとそこに描かれている植物は、アイリス、カーネーション、サフラン、野苺、バラ、ヒヤシンス、ヒロハノマンテマ、矢車草、ミルテそしてオレンジに月桂冠などだそうである。」

(篠利幸 文・写真『トスカーナの青い空』東京書籍、1995年発行より引用しています。)

「踊れトスカーナ」というイタリア映画を観た後、いつかトスカーナに行きたいという思いからこの本を買って20年近くが過ぎてしまったようです。先日文化村のミュージアムに行って久しぶりに思い出しました。この夢をかなえることはまだできていません。生きている間にかなうかな、かなえたい。今は海外に行くのおっかない感じだし、実情として無理ですがいつかは・・・。『エリザベート』の中の「私だけに」という曲で、シシィは、生きてさえいれば、と絶望の中から自我に目ざめて歌います。そんなこともつらつらと考えつつの、明日はイタリアデーになりそうです。急に暑くなりました。


トスカーナの青い空
篠 利幸
東京書籍