誕生と結婚と死亡の三つの鐘が鳴るとの事。
ジミーブラウンの誕生、結婚、天国に旅立った時。
谷間に3つの鐘が鳴る (ブラウンズ)
ここからは硬派に振ってが続きますのでその前に毒消 しです。
日経の11月19日(日)の13面に風見鶏とのコラムがありました。
今日のタイトルは「PKOの25年と万年野党」です。
私はPKOに賛成の立場を採っています。
侵略ではない、国連の使命の一つである人類平和を享受できる世界への貢献の一部だと強く思うからです。
過去のPKOに関するスレッドはこちらです
日経の紙面から引用する所も自分の価値観&主義主張に適合する所をピックアップしている事を念頭にして読むなら読む、スルーするならスルーして下さい。
日経が伝えたい事を広めるなら、本来は省略する事無く引用すべきですが長くなりますので、特に論旨が明確な所を引用します。
前段省略―――『両国(私の加筆です、日本とカンボジア)には友好関係の土台がもう一つある。1992年9月、日本は国連平和維持活動(PKO)として初めてカンボジアに陸上自衛隊を派遣した。内戦で壊れた道路の補修や停戦監視にあたり、現地で「丁寧で心のこもった支援だった」と語り継がれている。
PKO参加は戦後の日本外交の転換点だ。当時の社会党は「海外派兵だ」と猛反対。国会で牛歩戦術をとり、所属議員が辞職願を出して抵抗した。
あれから25年。自衛隊の派遣はモザンビーク、ゴラン高原、東ティモール、ハイチなどへと広がった。PKOへの参加を全否定する声は小さくなったものの、野党には海外派遣への慎重意見がなお強い。
5月末に南スーダンから陸自の施設部隊が撤収し、PKOへの派遣は司令部要員の4名だけとなった。戦闘に巻き込まれる危険は確かに減った。一方、世界では120を越える国の約11万人の要員が平和構築のために汗をながしている。(私の加筆です。血を流している。)
自衛隊の元幹部は日本が国連の旗の下でどんな貢献をすべきかという議論が国会でもっと必要だ。『危ないから行かない』『危なくなったら先に帰る』という姿勢でいいのか」と疑問を投げかける。
戦後の安全保障政策の節目は4つ。1954年に自衛隊が発足し、92年にPKO協力法、99年に周辺事態法、そして2015年に安保関連法が成立した。野党第1党はその都度、真っ向から反対した。
日本の野党は「護憲」と「自衛隊の役割拡大阻止」に多くのエネルギーを費やしてきた。国際情勢の変化をとらえ、政府と外交や安全保障で建設的に議論する機運はいまも乏しい。』---以下省略
※ カンボジアでの活動でUNTACの要因として派遣されて文民警察官である高田晴行さんか死亡したのは大変残念で悲しい出来事であった。
四半世紀の25年にもわたり、未だもって不毛な議論がされている国会&国民の国際貢献への希薄さに憤りすら覚える。
日本国内にあっても犯罪が無く、警察も必要としないバラ色の世の中であればどんなにか良いとは思う。
でも、犯罪が亡くならない事と同じで、世界において武力たる強権を執行せねば平和を保てないのも事実であるはずである。
日本が蚊帳の外に居る方と言って、地球たる蚊帳の中の紛争を無くす貢献をしないで良いのか。
甚だ疑問である。
昨夜、ETVで「ペリーの告白~元米国防長官・沖縄への旅~」を見て、普天間の辺野古も少し理解が深まったかもと思った程です。
外交と国防とはかくも真剣に将来を憂いての事かと思わずにはいられない。
人間ですから立場により考え方は異なると所もありますが、ウイリアムペリー氏の真摯に物事を考える姿勢には感動しました。
今の民主主義の世の日本で有れば侵略戦争を起こし危険は限りなく低いと思うのは間違いなりや。
国境なき医師団から毎月の寄付とは別に南スーダンの特別寄付の依頼がありました。
ジミーブラウンの誕生、結婚、天国に旅立った時。
谷間に3つの鐘が鳴る (ブラウンズ)
ここからは硬派に振ってが続きますのでその前に毒消 しです。
日経の11月19日(日)の13面に風見鶏とのコラムがありました。
今日のタイトルは「PKOの25年と万年野党」です。
私はPKOに賛成の立場を採っています。
侵略ではない、国連の使命の一つである人類平和を享受できる世界への貢献の一部だと強く思うからです。
過去のPKOに関するスレッドはこちらです
日経の紙面から引用する所も自分の価値観&主義主張に適合する所をピックアップしている事を念頭にして読むなら読む、スルーするならスルーして下さい。
日経が伝えたい事を広めるなら、本来は省略する事無く引用すべきですが長くなりますので、特に論旨が明確な所を引用します。
前段省略―――『両国(私の加筆です、日本とカンボジア)には友好関係の土台がもう一つある。1992年9月、日本は国連平和維持活動(PKO)として初めてカンボジアに陸上自衛隊を派遣した。内戦で壊れた道路の補修や停戦監視にあたり、現地で「丁寧で心のこもった支援だった」と語り継がれている。
PKO参加は戦後の日本外交の転換点だ。当時の社会党は「海外派兵だ」と猛反対。国会で牛歩戦術をとり、所属議員が辞職願を出して抵抗した。
あれから25年。自衛隊の派遣はモザンビーク、ゴラン高原、東ティモール、ハイチなどへと広がった。PKOへの参加を全否定する声は小さくなったものの、野党には海外派遣への慎重意見がなお強い。
5月末に南スーダンから陸自の施設部隊が撤収し、PKOへの派遣は司令部要員の4名だけとなった。戦闘に巻き込まれる危険は確かに減った。一方、世界では120を越える国の約11万人の要員が平和構築のために汗をながしている。(私の加筆です。血を流している。)
自衛隊の元幹部は日本が国連の旗の下でどんな貢献をすべきかという議論が国会でもっと必要だ。『危ないから行かない』『危なくなったら先に帰る』という姿勢でいいのか」と疑問を投げかける。
戦後の安全保障政策の節目は4つ。1954年に自衛隊が発足し、92年にPKO協力法、99年に周辺事態法、そして2015年に安保関連法が成立した。野党第1党はその都度、真っ向から反対した。
日本の野党は「護憲」と「自衛隊の役割拡大阻止」に多くのエネルギーを費やしてきた。国際情勢の変化をとらえ、政府と外交や安全保障で建設的に議論する機運はいまも乏しい。』---以下省略
※ カンボジアでの活動でUNTACの要因として派遣されて文民警察官である高田晴行さんか死亡したのは大変残念で悲しい出来事であった。
四半世紀の25年にもわたり、未だもって不毛な議論がされている国会&国民の国際貢献への希薄さに憤りすら覚える。
日本国内にあっても犯罪が無く、警察も必要としないバラ色の世の中であればどんなにか良いとは思う。
でも、犯罪が亡くならない事と同じで、世界において武力たる強権を執行せねば平和を保てないのも事実であるはずである。
日本が蚊帳の外に居る方と言って、地球たる蚊帳の中の紛争を無くす貢献をしないで良いのか。
甚だ疑問である。
昨夜、ETVで「ペリーの告白~元米国防長官・沖縄への旅~」を見て、普天間の辺野古も少し理解が深まったかもと思った程です。
外交と国防とはかくも真剣に将来を憂いての事かと思わずにはいられない。
人間ですから立場により考え方は異なると所もありますが、ウイリアムペリー氏の真摯に物事を考える姿勢には感動しました。
今の民主主義の世の日本で有れば侵略戦争を起こし危険は限りなく低いと思うのは間違いなりや。
国境なき医師団から毎月の寄付とは別に南スーダンの特別寄付の依頼がありました。