小学校三年のときの「エリーゼのために」でピアノをやめ、三十年のブランクを経て再開。
←私のピアノの黒歴史について、思い切ってご紹介
…大きく言えばそうなのだが、この「三十年」の間に、細かくいえば、ピアノを習ったことがありました。
高校生のとき、いろんな楽譜を引っ張り出して自分で勝手にピアノを弾いているうちに、どういった話のいきさつだったか忘れたが、母の主催するピアノ発表会に出してもらうということになった。曲は、チャイコフスキーの四季から、「一月」「四月」。
別に難曲というようなものではないけど、「エリーゼのために」止まりの人が突然挑戦するには大胆な選曲のような気がする。理由は忘れた。とにかく、発表会に出るなら譜読みの音間違いくらい直してもらったほうがいいよと母が言い出し(でも自分では決して教えない)、スポットで二回だけ見てくれるという先生を探してきてくれた。
それで私はのこのこと「四季」を持ってその先生のところに行ったのだが、まずそこで「一月」を弾くと、先生は開口一番こう言った。
「それ、ピアノ弾いてるつもり??」
私は、先生がなんのことをいっているのかさっぱりわからなかった。少なくとも、バイオリン弾いてるつもりとかないし、何を言ってるのだろうこの人は。
21世紀の私が「翻訳」いたしますと、
「音符を並べただけでは、ピアノを弾いたことにならない。そこに何をのせるかを考えるのが、ピアノを弾くということである」
ということになるが、そのときまでの私は、「音符を並べる」以上の音楽教育を受けたことはまったくなく、ついでにいえば、母が別のもっと進んだ生徒にピアノを教える場合でも、大雑把にいって「音符を並べる」以上の話をしているのは聞いたことがなかった。
ぽかーんとしている私を前に、その先生はチャイコフスキーという作曲家とその時代背景について語り始めた。私にしてみればだから何?? という感じである。
つまり、先生がおっしゃりたいことはたいへんもっともではあるけれど、今一回弾いたピアノを聴いてみたら土台そういうレベルではないのは明らかで、音ミスや強弱の間違いくらい直していたほうがなんぼか建設的である。というか、先生にお願いするときにあらかじめ、ピアノをずっと習っていないことと、臨時で発表会に出るにあたって、明らかな間違いくらいは直しておきたいという意向は伝えていたはずなのである。
その状況で初対面。突然歴史について語っても伝わらないわけで、教えるプロとしていうなら明らかに失格だ。
ただ、これまた今となっては当時の先生の年齢をはるかに超えた私が思うに、先生は先生としてやっていく覚悟もできてなければ、いろいろ焦りや不安もあってこういう先走ったレクチャーを口走っていたのだろう。
その先生は当時音大生。音高を出たあと、ヨーロッパのどこかに留学していて、コンクールを受け続けるが特にデビューできるような賞が取れないまま、実家のお金が続かなくなって帰国。日本の音大で勉強を続けている…という状況だった、そうだ。
つまり、コンサートピアニストを目指してやってきたけど挫折して、どうやら教えたりすることをメインにやっていかなくてはいけないという現実に向かい始めたあたり。アルバイトでピアノを教えているが、集まるのは近所のバイエルレベルの子どもばかり(実際、私の前にいた生徒さんはバイエルあたりを訥々と弾いていた)。
それで突然、曲りなりに大人の曲(?)を持ってきた生徒がいたもんだから、自分の言いたいことがバーッとまとめて出てしまったんだろう。
けどね。今は大人だからそんなこともわかるけど、当時はまったくわからなかった。ともかくなんだか情けなくて泣いて帰ってきたのを覚えている。
今なら先生にこう言ってあげたい:
「あなたが目指すピアノがどんなものであれ、音を並べて喜んでいるアマチュアの楽しみに水を差しただけでは教えたことにはならないっ!!」
というわけでこれが私の「ピアノ黒歴史」である。そのあと、また復活してピアノをさわっているわけだが、いつも頭のどこかに「それ、ピアノ弾いてるつもり??」というひっかかりがあって自分の素朴な楽しみのあり方に自信が持てない。
もちろん、八年間ピアノを習ったヤマハのS先生はそんな乱暴な言い方はなさらず、「音を並べる」楽しみから始まってそれを徐々に膨らます形で、ピアノを弾くということはどういうことか伝えようとしていたわけなんだけど。
でも、言いたかったことは結局おなじ、「音を並べただけじゃピアノを弾いたことにはならない」だったような気がする(-_-;;
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…大きく言えばそうなのだが、この「三十年」の間に、細かくいえば、ピアノを習ったことがありました。
高校生のとき、いろんな楽譜を引っ張り出して自分で勝手にピアノを弾いているうちに、どういった話のいきさつだったか忘れたが、母の主催するピアノ発表会に出してもらうということになった。曲は、チャイコフスキーの四季から、「一月」「四月」。
別に難曲というようなものではないけど、「エリーゼのために」止まりの人が突然挑戦するには大胆な選曲のような気がする。理由は忘れた。とにかく、発表会に出るなら譜読みの音間違いくらい直してもらったほうがいいよと母が言い出し(でも自分では決して教えない)、スポットで二回だけ見てくれるという先生を探してきてくれた。
それで私はのこのこと「四季」を持ってその先生のところに行ったのだが、まずそこで「一月」を弾くと、先生は開口一番こう言った。
「それ、ピアノ弾いてるつもり??」
私は、先生がなんのことをいっているのかさっぱりわからなかった。少なくとも、バイオリン弾いてるつもりとかないし、何を言ってるのだろうこの人は。
21世紀の私が「翻訳」いたしますと、
「音符を並べただけでは、ピアノを弾いたことにならない。そこに何をのせるかを考えるのが、ピアノを弾くということである」
ということになるが、そのときまでの私は、「音符を並べる」以上の音楽教育を受けたことはまったくなく、ついでにいえば、母が別のもっと進んだ生徒にピアノを教える場合でも、大雑把にいって「音符を並べる」以上の話をしているのは聞いたことがなかった。
ぽかーんとしている私を前に、その先生はチャイコフスキーという作曲家とその時代背景について語り始めた。私にしてみればだから何?? という感じである。
つまり、先生がおっしゃりたいことはたいへんもっともではあるけれど、今一回弾いたピアノを聴いてみたら土台そういうレベルではないのは明らかで、音ミスや強弱の間違いくらい直していたほうがなんぼか建設的である。というか、先生にお願いするときにあらかじめ、ピアノをずっと習っていないことと、臨時で発表会に出るにあたって、明らかな間違いくらいは直しておきたいという意向は伝えていたはずなのである。
その状況で初対面。突然歴史について語っても伝わらないわけで、教えるプロとしていうなら明らかに失格だ。
ただ、これまた今となっては当時の先生の年齢をはるかに超えた私が思うに、先生は先生としてやっていく覚悟もできてなければ、いろいろ焦りや不安もあってこういう先走ったレクチャーを口走っていたのだろう。
その先生は当時音大生。音高を出たあと、ヨーロッパのどこかに留学していて、コンクールを受け続けるが特にデビューできるような賞が取れないまま、実家のお金が続かなくなって帰国。日本の音大で勉強を続けている…という状況だった、そうだ。
つまり、コンサートピアニストを目指してやってきたけど挫折して、どうやら教えたりすることをメインにやっていかなくてはいけないという現実に向かい始めたあたり。アルバイトでピアノを教えているが、集まるのは近所のバイエルレベルの子どもばかり(実際、私の前にいた生徒さんはバイエルあたりを訥々と弾いていた)。
それで突然、曲りなりに大人の曲(?)を持ってきた生徒がいたもんだから、自分の言いたいことがバーッとまとめて出てしまったんだろう。
けどね。今は大人だからそんなこともわかるけど、当時はまったくわからなかった。ともかくなんだか情けなくて泣いて帰ってきたのを覚えている。
今なら先生にこう言ってあげたい:
「あなたが目指すピアノがどんなものであれ、音を並べて喜んでいるアマチュアの楽しみに水を差しただけでは教えたことにはならないっ!!」
というわけでこれが私の「ピアノ黒歴史」である。そのあと、また復活してピアノをさわっているわけだが、いつも頭のどこかに「それ、ピアノ弾いてるつもり??」というひっかかりがあって自分の素朴な楽しみのあり方に自信が持てない。
もちろん、八年間ピアノを習ったヤマハのS先生はそんな乱暴な言い方はなさらず、「音を並べる」楽しみから始まってそれを徐々に膨らます形で、ピアノを弾くということはどういうことか伝えようとしていたわけなんだけど。
でも、言いたかったことは結局おなじ、「音を並べただけじゃピアノを弾いたことにはならない」だったような気がする(-_-;;
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今日の記事は深いですね。「音符を並べただけではピアノを弾いた事(音楽を演奏した事)ならない」。ああ、そうだなあ…って思います。もちろん、大前提として「音符をきちんと並べられる事」というのがありますが…。
巷には、音符を並べただけのアマチュアの演奏というのが、満ちあふれております。聞く側からすれば「素人臭くて、上手は上手だけど、ツマラナイ」演奏です。でも、演奏する側からすれば「音符を並べるのに必死!」なんですよね。で、ある程度、音符を並べられるようになったら、次は音楽表現に手を着けるかと言うと…そうではなく、さらに音符を並べるのが難しい曲に挑戦したくなるものです。それがアマチュアって奴のサガなんでしょうね。
なにしろ、表現をすると言うのは、目に見える難しさではないですからね、それよりも、音符を並べるが困難な曲を、見事に音符を並べてみせて拍手喝采を受ける…方がスカッとするし、分かりやすく達成感が得られるような気がします。
なんか、そこに、アマチュアの落とし穴があるような気がしてきました。
もっとも、私の場合、特にヴァイオリンは、音符を並べる以前の「音痴な音符をきれいな音程の音符にする」ところで戦っている最中なので、表現なんて、まだまだなんですけれどね。スケールすら、まだちゃんと出来ないんだよね。先は長いです。
まぁ確かに、「アマチュアの落とし穴」といえばそうなんですけど、アマチュアですから、その落とし穴に落ちたまま本人が楽しむ権利だってあるわけでね。他人が聞いてて楽しくはないだろうけど。
バイオリンはね…私もそうですけど「音符を並べる」までにまだまだ距離がある感じですよね(^^;;
ただ、その先生は確か「ピアノは叩けば音が出てしまうだけに、音が並んでからそれが音楽になるまでが長い。バイオリンや声楽などは音を作るまでが長いので、それが並んだときにはまだしも音楽になっている」というようなことを言っていましたよ。
教え方は人それぞれあるのでしょうが、習いだしたのはいいけど怒られて続かなくなってやめてしまった、なんて話よく聞きます。
教えられる側としては、(私の場合)レッスンが好きで続けられるような指導がいいです。
なのであんまり怒られると多分辞めてしまいます。で、上級になり上のレベルを求めるのであればそれなりの厳しいレッスンをしてもらえればと思います。
今習っているバイオリンも何回か弾くと○をもらいますが、今の力ではこのくらいの演奏力でOKと先生は思っているでしょう。お手本のCDはもっと演奏が優れていますからね。
いきなり「弾いてるつもり?」では嫌になりますね。すごく演奏は上手いのに教えるのはそれほどでもなかったり、逆に演奏はそうでもないのに丁寧に教えてくれる先生もみえます。
でもまた気持ちを新たにピアノを弾いてみえるので楽しく演奏してくださいね。
私が何十年ぶりにピアノのレッスンを再開してつくづくわかったのが
「私はきちんと正確にひくことのみを教えられてきたんだな」
です。
今の私の先生は、この時のアンダンテさんの先生よりずーっと練れた大人の先生なので
「練習曲としてなら、ほぼ完璧です。でも、発表会でひくという風に考えるとですね・・・」
と教えてくれます。それをきくと
「私って音を並べてるだけなのね~」
とがっかりしますが、シロウトは音を並べるだけで精一杯なんですよね~。なまじのむかしのピアノ教育のせいで、ちゃんと並ばないと気になるし。すとんさんのおっしゃる「アマチュアの落とし穴」にどっぷりはまっています。
只今「並べるだけでない大人のピアノ」目指して修行中ですが、難しいわ~。んでもちょっと目指してみたい気がするので、努力中です。
今、娘が習っているピアノの先生はミュージカルの舞台芸術家でもあるので、レベルに関わらず常に「人前で弾く」「舞台で弾く」ということを意識させる指導です。基本のキの字もしらない子に「舞台映え」とか教えられても…と思うこともありますが…。
体罰アリのかなり厳しい先生だし、塾の勉強も大変になってきたので、娘は「いつやめてもいい。てかはやくやめたいなので)」などと言ってはいるものの、
親に言われずとも練習はするし、レッスンに行けば行ったで結構楽しめてはいるようです。
確かその先生は、「ふだん習っていないなら、そのハンディキャップの分がんばらないととても追いつけない」というようなこともおっしゃったのですが、そもそも追いつかないし!! っつか何に!?
生徒の状況と目標に合わせて教えていただきたいものです。
今も指導者をしているんだろうけどどんなふうに教えているのかな(^^;;
それにしてもばっかいず世話係さんはその求められていた「きちんと」レベルの高さが尋常じゃないですけどね(^^;; それについていった根性? 気力!? もすごいですわ。
今度は、弾いて楽しいピアノがつかめるといいですね(^-^)
体罰ありとは、現在ではかなりめずらしい(絶滅危惧種)のでは?? でも楽しめるということは、実力はある方なんでしょうね。
ピアノを弾くときに、舞台の上で弾くこと、それをどう聞かれるかということを念頭に置いて練習していくかどうかって、たぶんとても違うことなのでしょう。娘さんがその先生からどんなことを吸収して育っていくか、楽しみですね。
この記事を読んでいて最初に思ったのは、この先生は「だから」コンクールで賞が取れなかったんじゃないかなぁ・・・というものでした。音楽は技術や知識の積み上げが前提なのは間違いないでしょうけど、最後の最後、演奏家として人を感動させられるかどうかっていう最も大事な部分は、「楽しませられるか」とか「キラキラしているか」とかそういう人間的な部分にあるんじゃないかなぁ・・・と思ったりします。国際コンクールとかでは演奏の素晴らしさだけでなく「プロとして興行が成立するレベルで聴衆を魅了できるか」という部分も重要な評価ポイントになるらしいので・・・。初対面の高校生が一発でピアノを嫌いになってしまうようなことを言う人はエンターテイナーにはなりえないでしょう。
私は、「音を並べてるだけのアマチュアの楽しみ」の何がアカンのだ!と思っています。別にプロになるわけでもなし、たまに身内に聴かせる程度のもんです。色眼鏡で見合ってお互い自己満足でええやんかー。
ま・・・私のバイオリンは音を並べることすらままなりませんがね(笑)
というか、ちょうど「やさぐれてる」時期だったかもしれませんね。ともかく、教師としてやっていくにもやっぱりその道はその道で道のりが長そうですね…今はどうしているのかな…
「音を並べるだけのアマチュアの楽しみ」は、誰にも文句つけられる筋合いはないと思ってます(^-^)
そう、そこだけでも難しいんですけどorz