先日のレッスンのとき、レッスン室に入っていくと、ショパンのノクターンのCDがかかっていた。
マリア・ジョアン・ピレスのノクターン全集。先生は、この人の演奏がことのほかお好きだそうだ。私は、「ピレシュ」による「スーパーピアノレッスン」をチラ見したこともあるのだけど、名前の表記が違うもんだから、しばらく気づかなかった。
「スーパーピアノレッスン」がチラ見で終わってしまったのは、レッスン進行の中でこの方が言うことが妙に哲学的で、私にとってはピンとこないというか、ウケなかった(ところで現在進行中の「スーパーピアノレッスン」にはウケまくりである)からである。この方の演奏についてはよく知らなかった。
レッスン室のちゃちいラジカセが…いや、いまどきカセットではないのでCDプレーヤーか…ちょっと音が大きくなるとビビリが入ってえらいことになってしまい、あんまりピアノを楽しめる音質ではないのだが、それでもわかる範囲でいうと、ピレスのノクターンは、テンポの揺れ・音の強弱などの幅が大きく、めりはりてんこもりなのにやりすぎ感がなく、自然にきれいに流れている。
先生がいうには、「この人の演奏を聴くと、あ~私はこういうふうに演奏したかったのよ~と思うんです。こういうふうには弾けないんですけどね」だそうだ。
ほぅ、先生はピレスが好きなのか。ふと思い立って、一歩「取材」を進めてみた。「ぴったりくる演奏というのがあって、逆にいくら有名どころの演奏でも、ぴったりこないってことがあるわけですよね」「そうそう」「では、嫌いな演奏って誰のですか??」
すると先生は小考ののち、「まずはアシュケナージですね。うーん、アシュケナージ含む三羽烏かな」「三羽烏って誰のことですか?」「アシュケナージとアルゲリッチとポリーニね。まぁ中高生時代とか、聞きすぎたというのもあるんだけど」
とにかくアシュケナージは聞いたあと、なんかちがーうと思ってイヤな気分になるそうである。アルゲリッチはどうでもいい感じで「あの人、本能で弾いてるでしょう。楽典とかはいったいどれくらい勉強したのかなーって感じで。まぁ、感覚だけであれだけ弾けるのはすごいけど」、ポリーニは「いったい何がやりたいのかさっぱりわからない」とのことである。
そこでさらに取材を進めて、のだめに出てくる「トルコ行進曲」の「やりすぎの演奏(byランラン)」にふれて、「やりすぎ」とそうでないのの間の線引きはいったいどこにあるのかという疑問を投げてみた。
すると、先生はのだめもランランも知らないそうだが「トルコ行進曲なんて、音を足しまくって超絶技巧にした演奏も聞いたことがありますよ。アンコールでしたけどね。あれはあれでおもしろかったですよ。結局のところ、『やりすぎ』というかどうかはともかく、何かふつうと違う部分がある演奏というのがあって、それを気に入ってくれる固定ファンがつけば継続的な演奏活動が成立するわけですから、別に音大のテストとか、コンクールの場で認められなくてもいいんですよ」
…そうだ、この先生自身が「やりすぎ系」の人だった。
だいたい、日本は特におとなしい演奏がよしとされる傾向にあり、ヨーロッパに留学したりすると、「どうしてそんなふうに(つまらなく)弾くの??」とけちょんけちょんにされるものだそうだ。先生は日本の大学にいる間いまいち居心地が悪くて、どう弾けばいいのか悩んでいて、ハンガリーに留学して一気にはじけてイケイケになり、コンクール優勝なども取ったので、特にそう思うのだろう。
つまり、「やりすぎ」ラインはところによって違う。「ジプシー系の人なんて、ハンガリアン・ラプソディーとかそれはそれはすばらしく弾くけど、そのノリのまんまモーツァルトとか弾くから、そりゃ違うだろって感じでしたよ。血なのねぇ」
勢いよく情熱的に弾きまくり、滞空時間長め、おいそこまでタメるかって演奏という点では、わが師匠とランランって気が合いそうだけど。先生はランランの演奏は知らないそうである。もっとも、やりすぎ系の人が別のやりすぎ系の人の演奏を気に入るかっていうとかなり疑問だが…
ところでYouTubeでこんな演奏を見た。
ランランのLiszt Hungarian Rhapsody #2
ランランって、のだめの役のためだけに演技として「やりすぎ」の演奏をしたわけじゃなくて自分のためにもこんな感じなんですね~(^^)
フォーレ録練つづき:
「フォーレ ノクターン第四番 四分割の3つ目」
はなひめ昨日の勉強:
国語第一回語句問題
漢字の学習p14~15
マリア・ジョアン・ピレスのノクターン全集。先生は、この人の演奏がことのほかお好きだそうだ。私は、「ピレシュ」による「スーパーピアノレッスン」をチラ見したこともあるのだけど、名前の表記が違うもんだから、しばらく気づかなかった。
「スーパーピアノレッスン」がチラ見で終わってしまったのは、レッスン進行の中でこの方が言うことが妙に哲学的で、私にとってはピンとこないというか、ウケなかった(ところで現在進行中の「スーパーピアノレッスン」にはウケまくりである)からである。この方の演奏についてはよく知らなかった。
レッスン室のちゃちいラジカセが…いや、いまどきカセットではないのでCDプレーヤーか…ちょっと音が大きくなるとビビリが入ってえらいことになってしまい、あんまりピアノを楽しめる音質ではないのだが、それでもわかる範囲でいうと、ピレスのノクターンは、テンポの揺れ・音の強弱などの幅が大きく、めりはりてんこもりなのにやりすぎ感がなく、自然にきれいに流れている。
先生がいうには、「この人の演奏を聴くと、あ~私はこういうふうに演奏したかったのよ~と思うんです。こういうふうには弾けないんですけどね」だそうだ。
ほぅ、先生はピレスが好きなのか。ふと思い立って、一歩「取材」を進めてみた。「ぴったりくる演奏というのがあって、逆にいくら有名どころの演奏でも、ぴったりこないってことがあるわけですよね」「そうそう」「では、嫌いな演奏って誰のですか??」
すると先生は小考ののち、「まずはアシュケナージですね。うーん、アシュケナージ含む三羽烏かな」「三羽烏って誰のことですか?」「アシュケナージとアルゲリッチとポリーニね。まぁ中高生時代とか、聞きすぎたというのもあるんだけど」
とにかくアシュケナージは聞いたあと、なんかちがーうと思ってイヤな気分になるそうである。アルゲリッチはどうでもいい感じで「あの人、本能で弾いてるでしょう。楽典とかはいったいどれくらい勉強したのかなーって感じで。まぁ、感覚だけであれだけ弾けるのはすごいけど」、ポリーニは「いったい何がやりたいのかさっぱりわからない」とのことである。
そこでさらに取材を進めて、のだめに出てくる「トルコ行進曲」の「やりすぎの演奏(byランラン)」にふれて、「やりすぎ」とそうでないのの間の線引きはいったいどこにあるのかという疑問を投げてみた。
すると、先生はのだめもランランも知らないそうだが「トルコ行進曲なんて、音を足しまくって超絶技巧にした演奏も聞いたことがありますよ。アンコールでしたけどね。あれはあれでおもしろかったですよ。結局のところ、『やりすぎ』というかどうかはともかく、何かふつうと違う部分がある演奏というのがあって、それを気に入ってくれる固定ファンがつけば継続的な演奏活動が成立するわけですから、別に音大のテストとか、コンクールの場で認められなくてもいいんですよ」
…そうだ、この先生自身が「やりすぎ系」の人だった。
だいたい、日本は特におとなしい演奏がよしとされる傾向にあり、ヨーロッパに留学したりすると、「どうしてそんなふうに(つまらなく)弾くの??」とけちょんけちょんにされるものだそうだ。先生は日本の大学にいる間いまいち居心地が悪くて、どう弾けばいいのか悩んでいて、ハンガリーに留学して一気にはじけてイケイケになり、コンクール優勝なども取ったので、特にそう思うのだろう。
つまり、「やりすぎ」ラインはところによって違う。「ジプシー系の人なんて、ハンガリアン・ラプソディーとかそれはそれはすばらしく弾くけど、そのノリのまんまモーツァルトとか弾くから、そりゃ違うだろって感じでしたよ。血なのねぇ」
勢いよく情熱的に弾きまくり、滞空時間長め、おいそこまでタメるかって演奏という点では、わが師匠とランランって気が合いそうだけど。先生はランランの演奏は知らないそうである。もっとも、やりすぎ系の人が別のやりすぎ系の人の演奏を気に入るかっていうとかなり疑問だが…
ところでYouTubeでこんな演奏を見た。
ランランのLiszt Hungarian Rhapsody #2
ランランって、のだめの役のためだけに演技として「やりすぎ」の演奏をしたわけじゃなくて自分のためにもこんな感じなんですね~(^^)
フォーレ録練つづき:
「フォーレ ノクターン第四番 四分割の3つ目」
はなひめ昨日の勉強:
国語第一回語句問題
漢字の学習p14~15