空に月の姿はなく、住宅街の狭間を巡る細道を奇妙に白っぽい輝きで照らし出すのは街灯と、立ち並ぶ家々の窓から僅かに漏れる照明だった。学生と思しき賑やかな集団が、若さに任せた蛮声を張り上げながら躰をすり抜けていくのを大した感慨もなく見送ってから、僕は歩き出す。
最初の曲がり角を回ると、リードに繋いだ犬の散歩を日課にしているという中年男性と顔を合わせた。
「よう、また会ったな」
僕が夜道を歩くようになってから始めて声を掛けてくれた人懐こいおじさんだが、何の仕事をしている人かは知らない。それを聞くのは『ルール違反』なのだそうだし、実際のところ特に知りたいとは思わなかった。
いつものように挨拶を交わすと、おじさんは犬の耳の後ろを掻いてやりながら僕の肩から吊った左腕に視線を向けた。治るまで、暫く時間が要りそうだなと言われ、骨をやりましたからと答えると、そうか、と納得したように頷き、ふと思い出したように忠告してくる。
「そうそう、お前さんのような『流され者』は上着の袖に手を通さず引っかけておきな。その方が安全かもしれん」
行くぞクダ、と名前を呼びながら再び歩き出すおじさん。犬にしては長くてふさふさの尻尾を翻してそれに従う犬。多分顔立ちからすると柴系の雑種なのだろうが、どういう血が混じればあれだけ細身でしなやかな犬になるのだろうか。
おじさんと別れて再び歩き出すと、後ろから靴音とは違う足音が響いてくる。ああ、あの人かと思う間もなく僕の躰をすり抜けて足早に去っていくのは学生帽を被り、古風なマントを羽織った下駄履きの学生だった。何処を目指しているのかは判らないが、僕を追い越していくときはいつも足早に下駄の歯を道に叩き付けるような勢いで歩いているのだ。
三本ほど交差した細道をやり過ごし、お城に通じる坂道を上り始めると、今風の学生や酔客に混じって着物姿の人影が散見される。小柄な彼らは大概身なりが良く、動きもすっきりしているが、それは彼らの時代にこの辺一帯が大名屋敷の立ち並ぶ区域だった為なのだろうかと、僕の瞳には朧な残影にしか映らない彼らの姿を見ながら考える。
地方都市特有の、やたらと広い駐車場を横切ってコンビニに入ると、古民家を思わせる古びた黒い柱と漆喰の壁に囲まれ、赤茶けた照明が照らし出す空間が現れる。今どき誰が使うのか想像も付かない竹で編んだ籠や、そもそも何に使うのかすら判らない道具の数々に混じって何故かある最新携帯ゲーム機とソフト、ブリキ製の玩具、プラスチック製のお砂場セット、箱に入った鰹節とそれを削る道具、ガラス瓶にぎっしり詰まった色取り取りの飴玉、棚に並んだ亀の子タワシや洗剤などの生活用品。
見事なまでに訳の判らない品揃えの只中に、座布団に座ったお婆さんが笑顔を浮かべながら言った。
「おや、また来たのかい?」
僕は頷いて持参してきた袋をお婆さんに渡す。お婆さんは眼を細めながら袋の中身、砂時計と掌サイズのソーイングセットを確認すると、ソーイングセットだけ返してくる。
「あたしゃ、もう目が効かなくて針仕事は出来ないからね…… それじゃ、一つだけ店のものを持って行きな。でもソイツはアンタに不幸をもたらすだろう、その覚悟はあるかい?」
ある、とも、ない、とも答えぬまま、僕は前回ここに来た際に見付けた指輪を手に取る。無惨にひしゃげ、元々セットされていた筈の石も幾つか取れてしまった指輪の残骸。まるで兄弟のようにして育った幼馴染みに、僕が婚約の証として贈った指輪。信号を無視してスクランブル交差点に突っ込んできた暴走トラックが僕の左腕を折り、彼女の躰をボロ切れのように変えてしまった時に、彼女が身に付けていた指輪。
犬を連れたおじさんが言うことには、療養のためとは言え僕のように社会から一時期離れて暮らしている人間は世界との接点が希薄な分、空間の乱れに巻き込まれやすいのだそうだ。
面白いものが見られるのは確かだが、深入りは止めた方が良い。そんなおじさんの忠告を僕はあえて無視した。葬儀の際に顔さえ見せて貰えぬまま荼毘に付された彼女に、もう一度逢いたかった。
きっとこの指輪を頼りに、彼女は僕を見付けてくれる。そんな風に思いながら歩いていると、背後から何かの気配が僕を追ってきた。きっと彼女だと振り返ろうとした直前に全身の毛が総毛立ち、僕は立ち止まった。生臭い匂い、何かを引き摺るような不確かな足音、にちゃにちゃと響きわたる粘りつくような水音。
決して開けられなかった棺の蓋、半狂乱になった彼女の母親、そして。
「おにいいいいちゃあああぁぁぁんんん」
悪夢の只中で響き渡るノイズにしか聞こえない声で、僕に甘えて縋りついてくる肉塊。薄情と言われようと冷血と言われようと、その時の僕は死にものぐるいでその場を駆け去ることしかできなかった。
その翌日、僕は夜道を歩くのをきっぱりと止め、新しい上着を買った。
最初の曲がり角を回ると、リードに繋いだ犬の散歩を日課にしているという中年男性と顔を合わせた。
「よう、また会ったな」
僕が夜道を歩くようになってから始めて声を掛けてくれた人懐こいおじさんだが、何の仕事をしている人かは知らない。それを聞くのは『ルール違反』なのだそうだし、実際のところ特に知りたいとは思わなかった。
いつものように挨拶を交わすと、おじさんは犬の耳の後ろを掻いてやりながら僕の肩から吊った左腕に視線を向けた。治るまで、暫く時間が要りそうだなと言われ、骨をやりましたからと答えると、そうか、と納得したように頷き、ふと思い出したように忠告してくる。
「そうそう、お前さんのような『流され者』は上着の袖に手を通さず引っかけておきな。その方が安全かもしれん」
行くぞクダ、と名前を呼びながら再び歩き出すおじさん。犬にしては長くてふさふさの尻尾を翻してそれに従う犬。多分顔立ちからすると柴系の雑種なのだろうが、どういう血が混じればあれだけ細身でしなやかな犬になるのだろうか。
おじさんと別れて再び歩き出すと、後ろから靴音とは違う足音が響いてくる。ああ、あの人かと思う間もなく僕の躰をすり抜けて足早に去っていくのは学生帽を被り、古風なマントを羽織った下駄履きの学生だった。何処を目指しているのかは判らないが、僕を追い越していくときはいつも足早に下駄の歯を道に叩き付けるような勢いで歩いているのだ。
三本ほど交差した細道をやり過ごし、お城に通じる坂道を上り始めると、今風の学生や酔客に混じって着物姿の人影が散見される。小柄な彼らは大概身なりが良く、動きもすっきりしているが、それは彼らの時代にこの辺一帯が大名屋敷の立ち並ぶ区域だった為なのだろうかと、僕の瞳には朧な残影にしか映らない彼らの姿を見ながら考える。
地方都市特有の、やたらと広い駐車場を横切ってコンビニに入ると、古民家を思わせる古びた黒い柱と漆喰の壁に囲まれ、赤茶けた照明が照らし出す空間が現れる。今どき誰が使うのか想像も付かない竹で編んだ籠や、そもそも何に使うのかすら判らない道具の数々に混じって何故かある最新携帯ゲーム機とソフト、ブリキ製の玩具、プラスチック製のお砂場セット、箱に入った鰹節とそれを削る道具、ガラス瓶にぎっしり詰まった色取り取りの飴玉、棚に並んだ亀の子タワシや洗剤などの生活用品。
見事なまでに訳の判らない品揃えの只中に、座布団に座ったお婆さんが笑顔を浮かべながら言った。
「おや、また来たのかい?」
僕は頷いて持参してきた袋をお婆さんに渡す。お婆さんは眼を細めながら袋の中身、砂時計と掌サイズのソーイングセットを確認すると、ソーイングセットだけ返してくる。
「あたしゃ、もう目が効かなくて針仕事は出来ないからね…… それじゃ、一つだけ店のものを持って行きな。でもソイツはアンタに不幸をもたらすだろう、その覚悟はあるかい?」
ある、とも、ない、とも答えぬまま、僕は前回ここに来た際に見付けた指輪を手に取る。無惨にひしゃげ、元々セットされていた筈の石も幾つか取れてしまった指輪の残骸。まるで兄弟のようにして育った幼馴染みに、僕が婚約の証として贈った指輪。信号を無視してスクランブル交差点に突っ込んできた暴走トラックが僕の左腕を折り、彼女の躰をボロ切れのように変えてしまった時に、彼女が身に付けていた指輪。
犬を連れたおじさんが言うことには、療養のためとは言え僕のように社会から一時期離れて暮らしている人間は世界との接点が希薄な分、空間の乱れに巻き込まれやすいのだそうだ。
面白いものが見られるのは確かだが、深入りは止めた方が良い。そんなおじさんの忠告を僕はあえて無視した。葬儀の際に顔さえ見せて貰えぬまま荼毘に付された彼女に、もう一度逢いたかった。
きっとこの指輪を頼りに、彼女は僕を見付けてくれる。そんな風に思いながら歩いていると、背後から何かの気配が僕を追ってきた。きっと彼女だと振り返ろうとした直前に全身の毛が総毛立ち、僕は立ち止まった。生臭い匂い、何かを引き摺るような不確かな足音、にちゃにちゃと響きわたる粘りつくような水音。
決して開けられなかった棺の蓋、半狂乱になった彼女の母親、そして。
「おにいいいいちゃあああぁぁぁんんん」
悪夢の只中で響き渡るノイズにしか聞こえない声で、僕に甘えて縋りついてくる肉塊。薄情と言われようと冷血と言われようと、その時の僕は死にものぐるいでその場を駆け去ることしかできなかった。
その翌日、僕は夜道を歩くのをきっぱりと止め、新しい上着を買った。