カケラノコトバ

たかあきによる創作文置き場です

休日は、マサラの日

2013-08-28 22:49:07 | 即興小説トレーニング
 残業続きだった数日間を終え、ようやく迎えた休日の朝。
 値千金と称しても大げさではない微睡みの中で極上の安息を貪っていた僕は、一片の慈悲もない振動と言葉によって現実に引き摺り戻された。
「とっとと起きて頂戴、布団を干したいんだから」
 そして加奈子は僕から掛け布団を剥ぎ取り、次に引っ張り上げた敷き布団から僕の躰を転げ落とした。頼むから寝かせてくれよと哀願する暇もない。

 ここで意地になって寝転がると、加奈子は間違いなく蹴りを入れてくる。仕方ないのでパジャマを脱ぎ捨てて着替えた僕は顔を洗ってから台所に向かった。
 僕のために用意しておいてくれたらしい一人分のご飯と味噌汁、それに焼き魚と漬け物を一人で頂きながら、僕は何故か唐突に『今夜のお昼はカレーにしよう』と思い付いた。それもカレーライスではなくマサラだ、間違いない。
「おーい加奈子、マサラ作るけど牛と鶏、どっちがいい?」
 物干し竿に吊した布団を叩きながら、それでも僕の声が聞こえたらしい加奈子は『それじゃ鶏でお願い』と答えてきた。

 冷蔵庫を開けると材料が心許なかったので、近所のスーパーまで行って材料を買いそろえて家に戻った僕は、まずは大量の玉ねぎをみじん切りにする。もちろんフードプロセッサーを使ってだ。戦いの初手から涙で視界を滲ませる気はない。

 加奈子は滅多に使わない厚底の鉄製フライパンにバターを一片落とし、焦がさないように注意しながら玉ねぎを飴色になるまで炒める。
 次に玉ねぎを移したフライパンで鶏肉を色が変わるまで炒め、皿に取り出してから今度は野菜を炒める。
 大鍋に脂を溶かし、クミンシードとコリアンダーを炒めてから玉ねぎ、鶏肉、野菜を投入して香りを移す程度に炒め、そのままナベに水を張り、煮立てる。
 沸騰したら月桂樹、パプリカ、鷹の爪など各種のスパイスを秘伝の配合で投入する。ちなみに加奈子はオリジナルスパイスの配合に興味がない。
 灰汁を取りながら煮立て、様子を見ながら更にスパイスを投入して数時間、更に煮込む。。

 炊飯器に仕掛けておいたターメリックライスが炊きあがった頃、僕は加奈子を呼んでやや遅めの昼食を始めることにした。普段の加奈子は僕が台所に入るのを嫌うが、休日にマサラを作ると言ったときだけは一切の手出しをしないまま、好きにさせてくれるのだ。

 二人でマサラを頂いていると、加奈子は大概笑顔でこう言う。
「やっぱり休日の朝に貴方を叩き起こすのは正解ね」
 だから、貴重な微睡みの楽園を追われた僕は大いなる不満を感じながらも、結局は別の楽園で別の楽しみを見出すことになるのだった。

 明日までにはヨーグルトと各種スパイスに漬け込んだ鶏肉が良い具合に仕上がるはずだから、月曜日のお弁当のおかずにはタンドリーチキンを入れて貰おう。
コメント

出会い頭の轢き逃げ犯

2013-08-27 22:16:25 | 即興小説トレーニング
 轢き逃げにあい、散々の騒動の末に何とか事態の収拾が付いた頃。
 自動車保険の担当員から妙な話を聞いた。

 馬鹿馬鹿しい話ですがね、と担当員は前置きしてから話しはじめる。
「実はお客さんを轢いた車と全く同じ状況で被害にあった方が、うちの会社だけでも何人かいるんですよ」

 全く同じ車種、同じ色、そして同じナンバープレート。
 信号無視の状態で横断歩道に突っ込み、歩行者をはね飛ばしても直進を止めず、その速度に目撃者は姿を見失う。
 どれだけ警察が捜査を重ねても該当車は見付からず、結局事件は犯人不在のまま処理される。

「それがですね、本当は最初の一件だけは轢き逃げ犯の正体が分かって、警察が逮捕に乗り出したんですよ。なんでも主婦で、同乗者の話によると見たい番組があるとかで非常に急いでいたとか」
 まあ、だからって轢き逃げが許される訳じゃないし、見過ごせなかった同乗者が通報したのも当然と言えば当然ですよね。そこまで話して担当員は表情を曇らせる。
「けど、当の主婦の方は我慢できなかったようなんですよ…… 自分が轢き逃げ犯として捕まるのも、自分を警察に売り渡した同乗者も…… だから」

 事件発生から三日後、行方不明になっていた主婦と同乗者は、県境山道沿いの崖下で、潰れた車の中で発見された。主婦の方は確かに事故死だったらしいが、同乗者の体中には刃物で滅多差しにしたような痕が残っていたと言う。
「それ以来なんですよ、奇妙な轢き逃げ事故が発生するようになったのは。事情を知ってる人間には呪いだの、祟りだのと言われていますが、もしそうだとしたら、一体『誰』が、『誰』を呪ってるんでしょうねえ」

 そう言われて思い出したのは、車にはね飛ばされた直後、脳裏に浮かんだ鮮明すぎる映像。
 ハンドルを固く握りしめたまま驚愕に目を見開き、開いた口からどす黒い舌を突きだした女。そして、そのすぐ後ろ、後部座席で血まみれのまま歪みきった笑顔を満面に浮かべながら、女の首に両手で力任せに爪を立て続ける男の姿。

 きっと同じような轢き逃げ事故は、これからも続くだろう。
 だが、生きている人間がその原因を取り除くことは、恐らく出来ないのだ。
コメント

従妹の絵本

2013-08-26 22:25:52 | 即興小説トレーニング
 従妹が同人活動を行っていると聞いて、昨今良く聞く『腐女子』なのかと尋ねたところ、物凄く嫌な顔をして否定された。

「この世界に縁のない人間に詳しく説明しても無駄だろうけど、同人ってのはつまり、基本的に素人が趣味で行う創作活動全般なの。二次創作とかBLとかエロだけじゃないの」
 かなり機嫌を損ねてしまった従妹に必死に謝って許して貰い、それでは従妹は何をやっているのかと質問すると、児童文学やら絵本制作やら、そんな辺りだという。
「まあ、王子さまやお姫さまが出てくるような話は滅多に描かないけどね」
「それじゃ、具体的にはどんな話を?」
「ごく普通の町で暮らすごく普通の子どもが体験する、ちょっと不思議な出来事や冒険談かな」
 だから今日もお兄ちゃん(従妹は僕をこう呼ぶ)の家のもっぷを借りに来たのよ。などと訳の判らないことを言い出す従妹。まさか、わざわざ掃除用モップを我が家まで借りに来たとも思えないので、やはり従妹の言うもっぷとは、うちで飼っている謎の大型モップ犬のことだろう。
「うちのもっぷは普通の犬とは違ってるから、参考になるかな?」
「何言ってるのよ、普通の犬とは違うから、参考になるうんじゃないの」

 私が散歩に連れて行っても大丈夫かな?と尋ねてくる従妹。もっぷの奴は大人しいから大丈夫だろうと思いつつ、僕は一応もっぷがいる犬小屋まで行って尋ねてみる。
「なあもっぷ、僕の従妹がお前と散歩に行きたいと言ってるんだが」
「ひゃん」
「一緒に行ってくれるか?」
「ひゃん」
 どうやら大丈夫らしいと判断した僕は、もっぷの胴輪にリードを付けて従妹に貸してやった。

 数時間後、随分と帰りが遅いなと心配し始めた頃。
 従妹はもっぷを連れて戻ってきた。
「おかえり、どうだった?」
 そんな僕に従妹は碌に答えようとせず、もっぷのリードを僕に押しつけるようにして帰っていった。
「…… おいもっぷ、お前何かやったのか?」
「ひゃん」
「ひゃんじゃないだろう、ひゃんじゃ」
「ひゃん」

 それから暫く後、一次創作オンリーの同人イベント(僕には良く判らないが、そういうものがあるらしい)で、従妹が手作りの絵本を新刊として発表した。
 それはもっぷのような犬を連れて散歩をしていた女の子が、すでに無くなってしまった、子どもの頃の思い出の町並みに迷い込むと言う仕掛け絵本だった。
 モップのような外見の犬と女の子が立体で形造られた最後のページに辿り着くまで、めくる度に町並みが姿を変えながら物語が進んでいく形式のなかなか凝った造りで、ほんの数冊しか作れなかった割に今までで一番の好評を博した、とは従妹の談。
コメント

『月が綺麗』は、『愛しています』

2013-08-25 22:09:18 | 即興小説トレーニング
 言語というのはつまり概念の表音もしくは表意化であり、それは即ち他国語を使用する国民ないし民族の思考概念と言える。
 早い話がいくら言葉の意味を理解したつもりでいても、常識の違う他国では使用される言葉の意味や概念が我々とは根本的に異なる可能性が存在するわけだ。

「…… というわけで、あっち暮らしの長いお前にイロイロと教えて貰いたいわけだが」
 酷く回りくどい言い回しは相変わらずだが、奴にしては奇妙なくらいに腰が低い物言いに何となく不気味なものを感じたオレは、単刀直入に訊いてみることにした。
「何を企んでいる」
 とたんに奴は面白いくらい動揺して、それでも無駄に言葉を重ねてきた。
「別に何を企んでいるわけでもなく、単に国際社会である現代に於ける人付き合いとして、そう言った言語形態の異なる相手との円滑なコミュニケーションを計るために云々…… 」
「つまり、掛川と円滑なコミュニケーションを計りたいわけだ」
 今度こそ絶句する奴。掛川とは先日転校してきた帰国子女で、あまり日本語は得意ではないらしい。ちなみにオレも一応は帰国子女なのだが、既に日本暮らしの方が長いので言葉に問題はなかった。
「残念だが、そういう場合は自力で何とかするんだな」
 ばっさりと切り捨てるオレに、奴は尚も縋ってくる。
「しかしだな、一体何をどう話せば相手に誤解を受けず、なおかつ好印象を与えることが出来るかは正確な言語選択がどうしても必要なわけで…… 」
「お前はいつも半端な理論武装ばかりしているから判らないかもしれないがな、意思伝達ってのは本当はシンプルなモノなんだよ」
 例えば『好きだ』とか『I LOVE YOU』とかな。
 そんな風に混ぜ返すと、奴はたちまち顔色を変えてどこかに行ってしまった。他人の色恋沙汰に部外者が首を突っ込んでもろくな事にはならない。ここは一つ、奴自身の奮闘に期待しよう。まあ、一の結果を語るために十の理屈を並べるような奴が、難しい日本語が分からない異性相手にどれだけアピールできるかお手並み拝見と行こう。

 そして三日後、奴は生涯で初めての彼女が出来たと報告してきて、オレは人生の理不尽を思い知った気がした。

コメント

しあわせなひと

2013-08-24 23:01:06 | 即興小説トレーニング
 幸福な人間は己が幸福である理由を深く考えることは少ないが、不幸な人間はしばしば己の不幸の原因を真剣に探ろうとするものだ。

 まあ、だからと言って複雑なことを考えない幸福な人間よりアレコレと思いを巡らす不幸な人間の方が頭が良いかと言うと、そうとも限らないことが多いもので、つまりこの世は理不尽と不公平に充ち満ちていると言う結論に達せざるをえないのだが、仮にそうであったとしても自分自身の人生内容が変わるわけではない。
 そんなわけで、僕は随分前から物事を深く考えるのは単なる頭脳の体操、ゲームのようなものだと思うようにしていた。むしろ複雑に入り組んでいるように思える思考から虚飾を徹底的に廃した果てに残るものこそ揺るぎない真実であると思うようになっていた。

「つまり、貴方は自分自身の人生ですら真剣に考えるのを放棄したのね」
 当時付き合っていた彼女が心底軽蔑したようにそう言ってきたとき、僕は答えられなかった。ただし、それは己を恥じたからではなく価値観の違いに戸惑ったからだった。
「そうやって本来考えるべきことを切り捨てて、自分自身が楽である道ばかり進んで、それで貴方の人生に何が残るの?」
 実はこの瞬間まで、僕は彼女を尊敬していた。僕とは違った方向で真剣に人生というモノを見据え、更なる高みを目指して進んでいく姿に憧れもしていた。
 だが、彼女がそう言う生き方を己自身に課しているが故に、彼女とは違う価値観の元に生きている人間の存在を認められないというのなら、僕が出来ることは彼女から離れる以外に何もなかった。
「貴方はきちんと自分の頭で物事を考えることが出来る人なのに、どうしてそれを放棄するの?」
 別れの言葉を切り出した時に彼女がこう尋ねてきたので、僕は答えた。
「これ以上、不幸になりたくないからかな」
 すると、彼女は僕に哀れむような視線を向けながら言い放った。
「そう、それじゃ私はもう、貴方を救ってあげることが出来ないわ。さようなら」
 そうだね、さようならと答えてから頷いた僕は、それ以上は何も言わずに去っていく彼女の背中を、やはり無言で見送り、結局は、それが僕と彼女の『おしまい』となった。

 数年後、彼女は更なる真実を求めてとある宗教団体に入団し、厳しい修行の果てに独自の新宗教と多数の熱烈な信者を獲得して独立したと聞いた。やがてその団体は徐々に、だが確実に反社会的な性格を帯びていき、何人もの死者を出した挙げ句に解散させられることになった。ただし、逮捕者の中に彼女の名前はなかった。警察の捜査が及ぶ直前に自らの命を絶ったのだ。

 そして僕は、相変わらず己を取り巻く日常に一喜一憂しながら日々を過ごしている。
 結局、僕が彼女に何も出来なかったように、彼女も僕を何一つ変えることは出来なかったと言うことなのだろう。
 
コメント

愛と憎しみのオムライス

2013-08-24 00:17:27 | 即興小説トレーニング
 旦那と大喧嘩をしていた。

 切っ掛けは些細なことだったかもしれないが、日常の生活の中で一緒に暮らしている相手に対してふと感じ、じわじわと堆積していく違和感や不快感。そういった類の、普段は決して表に出てこない筈の悪感情が無駄に掻き乱されて噴出したのだ。

 まあ早い話が、お互いに虫の居所が悪かったので、大したことのない話が拗れるだけ拗れた挙げ句に様々な別件の不平不満を芋づる式に引きずり出して来た訳だが、こうなると大概、己の地雷を踏まれた相手が激昂するか、或いは地雷を踏んだ相手が逆ギレして、時には暴力沙汰を伴ったとんでもない修羅場が現出することになる。

 今回も例外ではなく、旦那が私に対して決して口にして欲しくない言葉を叩き付けてきた直後、私の視界がすうっと暗くなり。
 次の瞬間には固く何かを握りしめた私の指から鈍い手応えが腕に伝わり、眼前の旦那が赤く染まった。

 愕然とする旦那の顔を奇妙に醒めた感情で見据えながら私が考えていたのは、辺り一面に飛び散った赤い飛沫の後始末をするのが面倒くさいな、だった。

「…… お前、なんだってこんなものを」
 未だ動揺から抜け出せない旦那が呻くように呟く。
 そんなの弾み以外の何物でもないでしょうがと呆れながら、私は言い切った。
「なあに、カゴメじゃ不満だった?
 貴方がハインツを好きなのは知っているけど、アレは高いからドラッグストアの特売商品にならなきゃ買わないわよ。それともデルモンテにした方が良かったかしら」
 旦那に向けて勢いよくぶちまけたために殆ど中身が無くなったポリチューブを握りしめたまま、奇妙なほどの昂揚感と共に私は言い放ち…… ありがちだが、そこで目が覚めた。隣ではケチャップに塗れていない旦那が呑気に眠りこけていたが、夢の中で感じていたはずの憤りは既に消えていたので苛立ちは感じなかった。

 夢判断をするまでもなく自分に余裕が無くなっていること、それに恐らくは旦那に対する気遣いが薄れつつあることに気付いた私は、今は己の感情よりも優先させるべきものがあるのだと肝に銘じる。何より、諍いを起こしたときに何かを失うのは旦那だけではないのだ。

 そんなわけで本日、旦那を会社に送り出した私は遠くのドラッグストアまで足を伸ばして、特売品だったハインツのトマトケチャップを買い込んで来た。今晩の夕飯メニューは旦那の好物でありながら『子どもっぽいから恥ずかしい』と言う理由でなかなか食べる機会がないというオムライスにしようと思う。



 
コメント

もっぷのお使い

2013-08-22 22:13:21 | 即興小説トレーニング
コショウ
 板チョコ
 チリトマトヌードル
 消しゴム
 詰め替え用洗濯洗剤

 半分冗談だったが、うちの犬(ナゾの大型モップ犬、ちなみに名前はもっぷ)に籠と買い物メモ、それにお金を待たせたら家を飛び出してしまい、慌てて探していたら、ちゃんとメモに書いた商品を籠に入れて帰って来た。ついでにメモに書いていない犬用ビーフジャーキーまで入っていた。何故かお金は減っていない。

 感心するより先に一体何があったのかと不安になり、取りあえず犬を連れてレシートの発行先であるスーパーに行ってみると、ちょうど荷出しをしていたパートのおばさんがうちの犬を見るなり言った。
「あら、さっきのモップちゃん。今度は飼い主さんと来たの?」
 やはり大概の人間はうちの犬をモップと認識するのだな、などと妙な感慨を抱きつつ、冗談とはいえ大型犬を一匹で外に出してしまったことを一応は謝り、こちらのスーパーに何か迷惑を掛けていないかと尋ねたところ、とんでもない!と答えが返ってきた。
「このモップちゃんがね、ちょっと親が目を離した隙に車道に飛び出した小さい子を助けてくれたのよ」

 本当にぴょーんと一跳びで道路の半分を超えちゃってね、向こうの歩道に渡ってから横断歩道の青信号を確認して子どもを連れて渡ってきたの、お利口ねえ。

 などと身振り手振り付きで教えてくれるおばさん。もっぷの芸達者振りは良く知っているつもりだったが、いつの間にか飼い主も知らないうちに芸の幅を更に広げていたらしい。
「それで子どもの方もモップちゃんが気に入って、お母さんに頼んでモップちゃんが持っていたカゴにあった買い物を済ませてあげたのよ。ついでにおやつも付けてあげたんですって」
 ああ、それであの買い物内容とビーフジャーキーが、などと納得する。
「本当はモップちゃんに付いていって飼い主さんにお礼を言いたかったらしいんだけど、モップちゃんったら、買い物をすませるなりすごい勢いで帰っちゃって。よっぽど飼い主さんが好きなのねって話をしていたのよ」
 恐らくもっぷにも脱走同然の外出に対する後ろめたさがあったのだろうと予想は付いたが、当然口には出さない。

 また来てね、モップちゃん。
 そんなおばさんの笑顔に曖昧な表情で応てから家に帰る途中、僕はいつものように呟いてみる。
「なあ、もっぷ」
『ひゃん』
「お前、本当に犬なのか?」
『ひゃん』
「何時まで誤魔化しきれると思ってるんだ?」
『ひゃん』

 結局、もっぷの奴はいつものようにひゃんひゃん鳴くだけだった。  
 コイツは本当に犬なんだろうか。もし未確認動物的な、或いは異次元生命体的な、更には宇宙生物的な何かだったら随分と高値が付きそうな気が気がしないでもない。

 でもまあ僕個人としては、もっぷの奴は種類が混じりすぎて何だか良く判らない外見になった、うちで飼っているモップ犬で一向に構わなかった。
コメント

最後の冷やし中華

2013-08-21 22:20:10 | 即興小説トレーニング
 笑顔で用件を聞いてみる。
 実際こういう事態に遭遇した場合には相当に不味い対応なのだそうだが、結果として私はそうしてしまった。
 すると男は、狭苦しい建て売り住宅の一室で私に包丁を突きつけたまま、哀願するような口調で答えた。
「お願いだから冷やし中華を作って下さい」

 材料はありますかと尋ねた私も相当なものだと後で思ったが、案の定、冷蔵庫にあったのはしなびた胡瓜と紅ショウガくらいだった。
「冷やし中華って、何で出来ているか御存知ですか?」
 何だかこちらの方が凶暴な気分になってしまい、つい強い口調で詰問すると、男は相変わらず切っ先の定まらない包丁を持て余し気味に構えたまま、すみませんすみませんとひたすら謝ってくる。仕方ないので私は自分が持っていたバッグから手帳とペンを取り出し(男は一瞬だけ身構えかけたが、すぐに身を引いて私のするがままに任せた)中華料理を作る際の材料を思い付く限り並べていく。
「錦糸玉子は必要ですか、え?錦糸卵が何か判らない?貴方それでよく冷やし中華を食べたいなんて言い出せましたね!」
 あまりにものを知らない男に対する苛立ちを隠す気にもならず、私はズケズケと言いたいことを並べたてる。包丁で私を脅しているはずの男は、その度にすみませんすみませんと身を縮こまらせて謝ってきた。
「もういいです、買い物は私が行きますから貴方はここで待っていて下さい」
 え…… それはその、と私の行く手を阻もうとした男を極めて物騒な目付きで睨み付けてやると、なけなしの蛮勇を使い切ってしまったらしい男がしょげかえる。
「こうなったら作ってみせますわよ、私の知っている冷やし中華を!」

 そんなわけで中華蕎麦を買い、付け合わせの野菜とハム、それに錦糸玉子用に卵を買い、男の家に戻った私はこの家に連れてこられてから度々鼻を突く悪臭に顔を顰めながらも、薄汚い台所で薄焼き玉子を作って細切りし、胡瓜やハムも同じサイズに揃えて切り、トマトは飾り切りにしておいた。ただ、台所にあった包丁は錆びて使い物にならなくなっていたので、男が構えていた包丁を脅し取った。当然のように男は情けない表情になったが、何か文句があるのかと凄んだら黙った。
 料理の戦力として男を当てにする気は全くなかったし、事実何の役にも立たなかったが、男は台所の隅の邪魔にならない辺りで佇みながらぽつり、ぽつりと自分の身の上を語った。

 気の弱い性格が災いして、他人に踏みつけられてばかりの人生を送ったこと。
 ようやく結婚した妻は、男の貯金を食い潰した挙げ句に間男と逃げたこと。

 聞いていて気が滅入るような告白を文字通り聞き流し、私はひたすら冷やし中華の作成に勤しんだ。
 やがて、中華料理屋のメニューとして出すには少し恥ずかしいが、家庭料理としては及第点以上と思われる冷やし中華が完成した。
 男は有難うございますと何度も礼を言ってから、相対した中華料理を情熱的に、だが細心の注意を払って口に運んでいく。私は無言でその様を見詰めていた。
「まさか、この歳になってから、こんな風に他人に親切にして貰えるとは思いませんでした。何のお礼も出来ませんが、本当に有難うございました」

 酷く時間を掛けて食べ終え、空になった皿。
 そして、空になった皿を前にした男。 
 次の瞬間、その姿は蛍火のようにかき消えた。

 あの人は、最期に一瞬でも幸せを感じることが出来たのだろうかと、私は考える。
 気が弱く、損ばかりしていて、仕舞いにはようやく結婚した妻に逃げられ、たった一人で死んでいったあの人。
 恐らく逃げた妻のお腹に自分の娘が宿っていたことも知らず、産まれた娘がどのように育ったかも知らず、実の父親がどんな人だったのかを知りたくて尋ねてきた娘に包丁を突きつけてまで、生前大好きだったであろう冷やし中華を食べたがったあの人。

 住宅内に漂う異臭にもう一度顔を顰めてから、私は自分のバッグから携帯を取り出した。
 そして、警察に電話した。
コメント

餃子のある食卓

2013-08-20 22:14:31 | 即興小説トレーニング
 小間微塵に刻んだキャベツに塩を振り、水分を絞る。
 合い挽き肉に調味料を混ぜ込んで練る際は、やりすぎると具が固くなるので程々に。ハンバーグの時とは違い、ふんわりと最小限混ぜ込むイメージで行うのがポイントだ。
 皮に乗せる具材の目安は大体三分の一、外側に水を塗った皮を左端から襞にして畳んで行くのが私流。
 サラダオイルを引いて熱した厚手のフライパンに餃子を置いて三分、引っ繰り返して二分、更に水を差して二分。
 昔はともかく最近の餃子は外観の整い方は元より、焼いたときの身崩れや皮剥がれもない。修行の成果と言っても良いだろう。
 
 そんなわけで手作りで餃子を作ると、つい作りすぎてしまう。大体は金属のバットにラップを敷き詰め、重ならないように餃子を並べてから再びラップを掛けて冷凍庫に突っ込んで冷凍してしまうのだが、今日はいなくなってしまった息子の分も焼いて皿に載せ、食卓に置いた。
「あんたも、そろそろいい加減にしたら?」

 息子は三年ほど前、文字通り『いなくなった』。
 警察にも捜索を依頼して随分と探したのだが、今のところ見付かっていない。
 そんな息子が、どうやら本当に『単に姿を消しただけ』らしいと気付いたのは最近だった。ふとした弾みに息子の気配を感じて振り向くと、ちょうど私の視界すれすれから駆け去る人影が一瞬よぎったのだ。それは一度や二度ではなく、私は何とか息子の姿を視界に捉えようと素早く動いてみるのだが、どうしてもその姿をまともに見据えることは出来ないでいる。

 私は食卓に着き、テーブルに置いた幾つかの小瓶から醤油、酢、それにラー油を小皿に取り、餃子を一口頂いてから、こんどはご飯に箸を伸ばす。
 息子は偏食が激しく、ご飯を全部食べ終わってもおかずを残しているような子だった。きちんと全部食べさせようとしてもぐずるばかりで、食卓は一向に片付かなかった。

 夫は息子や家庭、それに私に対しても無関心で、ただ自分の生活を維持してくれる『家庭』だけを欲しているような人だった。そして、『家庭』のメンバーである息子が失われた途端、私ごと、それを捨てた。

 私は一人で食事を続ける。餃子のタネに混ぜ込む調味料は潰して刻んだニンニクと生姜を心持ち多めに混ぜ込むと味の失敗が少ない。何度も作った末の結論だから間違いない。でも、息子は私の餃子を碌に食べなかった。不味いと言い放った。碌に家事の手伝いもしないままに養われている身で、私のことなんか大嫌いだと言い放った。
 だから。

 息子はこの三年の間にどんどん目減りしていき、もう少しで完全に『いなくなる』。
 その筈なのに、私の視界をよぎる人影は消えない。けれど、私は多分、その姿を視界に捉えることが出来ない方が良いのだ。それは多分、脳天を割られた血まみれの姿か、さもなければ関節ごとにバラバラになってパーツごとに転がっているのだろうから。

 
コメント

旅する絵描き

2013-08-19 20:59:48 | 即興小説トレーニング
 似顔絵をどうですかと聞かれたイントネーションが西の方の言葉らしく聞こえたので、一枚頼むついでに出身地を尋ねたところ大阪だと答えが返ってきた。
「でも、もう捨てましたけどね」
 やや訛りの残る絵描きの言葉に、僕は黙り込む。
 偏見かも知れないが、西日本の人たちは故郷を離れても出身地の方言を使い続ける印象があったので、それを捨てたと言い切るには余程の事情があったのだろう。しかし、絵描きは画用紙に鉛筆を走らせながら僕の顔を見ると、不思議な笑みを浮かべながら答えた。
「貴方は良い人ですね。お礼に、滅多に他人には話さない私の秘密を教えて差し上げます」
 正直、初対面の絵描きに『私の秘密』と言われても大した興味は湧かなかったが、まあ似顔絵が描き上がるまでの暇潰しにはなるだろうと話を促してみせる。

「私はね、後ろの人が見えるんです」
 そう言われて、つい自分の背後に視線を移してしまった僕に、絵描きは相変わらず不思議な笑みを浮かべながら続けた。
「いやいや、普通のひとには見えないですよ。大体は生きている人間じゃないし、たまには人間ですらありませんから」
「それは、いわゆる背後霊ですか?」
「さあ…… 、実は私も自分が何を見ているのか、正確なところは判らないんですよ」
 ああ絵が完成しました、どうぞ。とスケッチブックから一枚紙を破って渡してきた絵描きに、僕は面白半分で提案してみる。
「それじゃ、もう一枚頼めますか?ただし、今度は僕の後ろにいる相手を書いて欲しいのですが」
 すると絵描きは少し首を傾げるような恰好で眼を細め、僕の背後らしき場所にいま一つ定まらない視線を向け、やがて再び元の目付きに戻ってから答える。
「良いでしょう、ああ、お代は一枚目と同じ金額で結構です」
 
 先程と同じくらいの速さで絵描きの鉛筆が描き出したのは、猫を抱いた紳士だった。服装からするとかなり昔の、多分明治とか大正とか、昭和でも戦前とか、そんな時代の人だろうか。しゃんと背筋を伸ばし、丸眼鏡を掛けた神経質そうな目付きをしているが見覚えはない。家の仏間に並んだ遺影でも見たことのない人だ。
 しかし僕の主な関心は紳士ではなく、紳士が抱いた不細工極まりない猫の方に向けられた。
「これ…… ブッチだ」
 僕が子どもの頃から家にいた、丸々太ったブチ猫。寝るか食べるか以外をしていることは殆どなかった、ぐうたらで怠け者な、大好きだった同居猫。
 二十年近く生きた末、お定まりのようにある日突然行方をくらまして、そのまま帰ってこなかったコイツを、まだ学生だった僕は猫じゃらしと猫缶を携えて何日も近所を探し回ったのだ。
「本当は貴方のところに帰りたかったみたいですね。でも、躰はもう動かなくて、だからこうやって」
「…… そうですか」
「ちなみに紳士は貴方のお祖父さんの弟さんだそうです。生前の貴方に会ったことはないらしいですが、何でも貴方が兄弟で一番仲の良かったお祖父さんにそっくりなのだそうで」
「そうですか、有難うございました」
 僕が少しだけ料金を多めに払うと、絵描きは遠慮しながらもそれを受け取ってから言った。
「でも、今回は良かったですよ。お客さんのように良い人に当たりましたから。
 本当に色々な人に会いますよ。良い人も、悪い人も。
 だから、あちこちを流れながら、こうやって絵を描き続けていれば、やがて私の求める相手に出会えるような気がしましてね」
「求める相手?」
「私の婚約者を殺した連中です」
 息を呑む僕に、絵描きは先程とは打って変わった貼り付いた笑みを満面に浮かべて続ける。
「結婚式の三日ほど前に夜道で襲われましてね、ウエディングドレスを着たまま手首を切ったそうです。
 だから私は探しているんです、そして連中の後ろにいる連中を描き出して突きつけてやるんですよ。大概はとんでもない化け者か、思い出したくもない姿を見せ付けられて発狂しますがね。」
 あと三人ほど残っているんです。そう呟くの絵描きに背を向け、僕は足早にその場を立ち去った。

 家に帰って母に絵を見せたところ、小さい頃に憧れていた親戚の叔父さんのそっくりさんがブッチを抱いていると喜び、強奪された。
 僕は止めなかった。

 
コメント