あられの日記

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近藤勇・土方歳三殉節両雄碑

2010年06月06日 04時45分43秒 | 歴史散歩
正しくは故幕府新選隊士・近藤昌宣(まさよし) 土方義豊(よしとよ)碑。
昌宣とは近藤勇のことで、義豊とは土方歳三のこと。
一般的には殉節両雄の碑と言います。
実はこの石碑は、歴史的にもとても意味のあるもので、高幡不動尊では刮目して凝視する価値のあるものです。

特に、建立に至るまでの経緯と建立に尽力した人々が凄い。
篆額が会津の元藩主で、京都で新選組を預かっていた京都守護職の…つーか新選組の上司だった松平容保の書。
文章を作成したのが、幕府の侍医を務め、新選組と親交のあった松本順氏だったことからも伺えます。
つまり、明治政府が作った逆賊新選組じゃない文章が石碑には書かれています。
石碑は字が小さくて、読むのは大変ですが、ぜひぜひ挑戦して下さい。
殊に、新選組ファンなら必読の第一級史料ですので!!虫眼鏡持参しても自分で石碑を読むことをお薦めします。
…まだ迷ってる?
そんな人の為に!!
石碑建立に至るまでの経緯も書きましょう~。出典は、昨日の記事の「高幡不動尊の新選組関連資料」より。
「(前略)その後、京洛での新選組の活躍が華々しく伝えられ、地元でも大きな関心が払われていたが、明治2年歳三が函館で戦死し、戊辰戦争が終結したあとも新政府の戦死者に対する扱いは苛烈で供養も侭ならない様な状態が5年以上も続き、関係者の悩みの種であった。
漸く、明治7年の太政官達によって新政府軍に刃向かった人達の祭祀・慰霊が許されることになり、当山(高幡不動尊)の前住職賢雅和上、日野宿の佐藤俊正をはじめ糟谷良徇、土方義弘、本田定年、橋本政直、小島為政、近藤勇五郎等、近藤・土方由縁の人達の尽力により両有士の顕彰碑が高幡不動尊金剛寺の境内に建立されることになった。
碑文は小野路村の小島為政が誌した「両勇士伝」をもとに仙台藩の儒者大槻磐渓が選し、篆額は会津の松平容保、書は幕府の侍医を務めた松平順の筆である。
然しこの碑は篆額に「殉節両雄之碑」と掲げられ、又文中にも「前の住僧賢雅二子の忠烈を追念し」とある通り、近藤・土方両士の幕府への忠節を讃える顕彰碑であった為、碑が完成しても建設の許可が得られなかったらしく、改めて明治15年に神奈川県令に申請し、漸く明治21年に建立されたものである。」
*文中に出て来る佐藤俊正・糟谷良循・本田定年・橋本政直・小島為政は土方家の親戚。近藤勇五郎は近藤勇の養子です。
コメント
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