あられの日記

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狭山不動尊の建物紹介

2013年07月31日 05時42分39秒 | 歴史散歩
まずは本堂周辺の建物を紹介しますね。
トップ画像が本堂なのですが、狭山不動尊にある数々の建物の中で一番ショボいです。
狭山不動尊の建物は芝増上寺の徳川将軍家墓所で焼失を免れた構造物を移転したものを中心に、日本全国から様々寄せ集めて構成されています。
なので、本来本堂もそれに見合った、京都の東本願寺から移築した七間堂を使用してました。ところが、2006年(つい最近じゃんっ!)に焼失してしまいました。
ん?
もしかして…。
本堂周辺に石燈籠がぐるりと配置されてるのですが、明らかに火にあたった跡が残るものが散見したのです。てっきり、第二次世界大戦の空襲により増上寺が焼けた時の名残だと思ってましたが、もしかして、本堂が焼けた時の跡だったのかもしれん…。
さて。本堂前にあるのが第二多宝塔です。
だいぶ画像処理して明るくしましたが、逆光撮影でどないもならず…。

この角度からだと樹が邪魔~。
さて多宝塔ですが、説明板発見:第一多宝塔(埼玉県有形文化財)
この多宝塔は弘治元年(1555)大阪府高槻市梶原の畠山神社に美濃国林丹波守が建立したと伝えられているが、上層屋根の隅木に慶長12年(1607)の墨書があり、約370年前の桃山時代の建立であることが明らかである。
昭和36年4月、当境内に移され、大和工匠の手によって修復され完成した。細部の装飾手法に桃山時代の特色をよく表しているばかりでなく全体の形もよく整い、昭和38年4埼玉県有形文化財に指定されている。
構造形式 三間多宝 本瓦葺き。 
多宝塔:多宝塔とは、円塔形の塔身に方形の屋根をのせ、塔身のまわりに、ひさしを設けたものをいう。
方形の建物に、円形の2階を重ねた形となっている。
一般の塔が元来釈迦の墓を意味したに対し、多宝塔大日如来をまつり、わが国では平安時代高野山に建てられたのが始まりである。
昭和50年4月26日 天台宗別格本山 狭山不動寺だそうで。
弁天堂
本堂を西へ。小高い所に見えるのが弁天堂です。
説明板発見:弁天堂(旧清涼寺経蔵)
このお堂は滋賀県彦根市古沢町の清涼寺に、井伊直孝の息女が父直孝の追善菩提のため建立したものである。
建立の時代は、万治二年(1659)より元禄六年(1693)の間と考えられる。
昭和23年8月当境内に移築され、その後弁財天をお祀りした。
構造形式 六角円堂 一重本瓦葺き
弁財天:お堂のご本尊は上野不忍池弁天堂のご本尊である。大弁財天の分身として、古く東叡山寛永寺山内の現龍院にお祀りされていた尊天である。
この度当山の開削にあたり、御尊天をお迎えいたしました。弁天様を拝むと、智慧・福徳をはじめ、あらゆる心願が成就されます。どうか、ぜひこのご本尊にお詣りなさって広大無辺なご利益をお受けになるようにつつしんでおススメ申し上げます。 
昭和50年4月26日。 天台宗別格本山 狭山不動寺 だそうで。
ちなみに、文中に出て来る、井伊直孝とは、近江彦根藩二代藩主になります。彼は大阪の陣で戦い、冬の陣で負けて、後夏の陣で大手柄を上げてます。
ちなみに、墓所は世田谷の豪徳寺です。既出記事に墓所訪問した時のものがある~。
井伊家墓所全体図(2008年12月1日)の記事 直孝の墓所の位置を確認出来ます。そういや、猫に招かれて豪徳寺で雨宿りをした武将というのが、井伊直孝その人です!一説には招き猫の発祥。

おまけ:
弁天堂の前にも桂昌院の石燈籠が置かれてます。これは刻んである漢字がよく読めるので昨日に引き続き解説しますと「宝永2年6月22日」に奉納された石燈籠。桂昌院の月命日ですね。
んで奉納者は「従四位侍従●相模守 土浦城主 土屋政直」とあります。
土浦政直とは、家綱ー綱吉ー家宣ー家継ー吉宗と、徳川5代を主君とした大名です。最後は老中まで勤めてます。側用人を廃止したり、吉宗の擁立に尽力してます。なんと!江戸時代にあって享年82歳でした。(凄過ぎっ)
やっぱ、石燈籠は面白いなあ~。歴史ロマンが詰まってます!
ちなみに石灯籠の画像の手前に写っている白い花は、オカトラノオですね。
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