203高地の頂上あたりに「爾霊山」と刻まれた構造物が建っている。
日露戦争の激戦地203高地では多くの人命が失われた。
乃木希典は高地に散乱していた砲弾や薬莢を集め「爾霊山」と記した砲弾型の記念碑を建て、戦死者を弔った。
「爾霊山」は「にれいさん」と読む。203高地の名前と同時に「爾(なんじ)の霊」ともかける。
爾の霊、すなわち203高地で戦死した者への慰霊である。名付けたのは乃木希典との定説。
台座の石は日本から運ばれた。砲弾型の記念碑だが、現在建っているものは上部の素材が下部と違っている。最近修理されたようだ。鉄製ならば仕方ないかもしれない。
ところで私がこれまで旅した国は決して多くないが、英国でも中国でも国の為に戦って死んだ人の為の慰霊碑は立派で敬意を持って祀られている。対して、日本はというと必ずしもそうではない。これは日本の最後の戦争が敗北を喫して終ってるからではないだろうか?今の教育がどう教えているか定かではないが、少なくとも私が学生だった頃、昭和の歴史は3学期の先生に余裕のない学習時間の中で教えられていて、しかと学ばなかったように思う。これはいかにも情けないことだ。
ところで、203高地の地名だが高さが203メートルだからついた名前ではないらしい。ここは元々の標高が206メートルだったが、砲撃で3メートル削られたのだ。とは後世のガイドで用いられる常套句である。
爾霊山の記念碑のすぐ近くに、ロシア軍の150ミリキャノン砲が展示してあった。これまた本物かレプリカかわからない。最も日露戦争は1905年だから既に100年が経過してる。鉄は腐食する。とは言っても戦国時代程昔ではない。よって生々しい戦争の遺物が本物であってもおかしくはないんだけど…。
南の重砲兵観測所からは旅順港が望める。が、そこから右へ目を転じるとぼうっと平かな山が浮かんでいた。
「あの山の左手に見える海が黄海。右手に見えるのが渤海です」とガイドの楊さんは言うが、霞んでて空だか海だか判別がつかない。
散策路を駐車場へと戻る。途中で塹壕跡や乃木保典の墓や陣地隔離帯跡を眺めつつ戻る。
道々、皇居東御苑の二の丸庭園で見たのと同じトラノオの白い花がたくさん咲いていた。
駐車場の周辺には土産物屋がいくつか店を開いている。誰も立ち寄らなかったので、何を売ってるか確認出来なかったが、「203高地Tシャツ」は思い切り目立ってました。
ところで。
当り前だが、中国の人からすれば「祖国を侵略した日本」という事実がある。
日本人が203高地へ来る目的と中国の人が203高地へ来る目的には明らかな違いがある。
今を生きる中国の人は「なぜ中国で日本とロシアが戦ったのか?」と203高地、ひいては旅順へ来るのだそうだ。
203高地にはいろいろな説明板が設置してある。
辛辣な文字も目にする。双方歴史は正しく学ばないといけない。
15時10分、203高地を麓まで戻る。短いトンネルを抜けると、バスは右へ。
実はこれが可能になったのは去年の9月から。それまでは外国人の立ち入りは禁じられていた。旅順は中国軍の軍港であり、軍の施設がひしめいている場所なのだ。よって、トンネルから出た所にその旨を通告する看板がまだたっていた。それを画像に撮りそびれたのは痛恨の極みです。おそらくあの看板は近々撤去されるのだろう…。
日露戦争の激戦地203高地では多くの人命が失われた。
乃木希典は高地に散乱していた砲弾や薬莢を集め「爾霊山」と記した砲弾型の記念碑を建て、戦死者を弔った。
「爾霊山」は「にれいさん」と読む。203高地の名前と同時に「爾(なんじ)の霊」ともかける。
爾の霊、すなわち203高地で戦死した者への慰霊である。名付けたのは乃木希典との定説。
台座の石は日本から運ばれた。砲弾型の記念碑だが、現在建っているものは上部の素材が下部と違っている。最近修理されたようだ。鉄製ならば仕方ないかもしれない。
ところで私がこれまで旅した国は決して多くないが、英国でも中国でも国の為に戦って死んだ人の為の慰霊碑は立派で敬意を持って祀られている。対して、日本はというと必ずしもそうではない。これは日本の最後の戦争が敗北を喫して終ってるからではないだろうか?今の教育がどう教えているか定かではないが、少なくとも私が学生だった頃、昭和の歴史は3学期の先生に余裕のない学習時間の中で教えられていて、しかと学ばなかったように思う。これはいかにも情けないことだ。
ところで、203高地の地名だが高さが203メートルだからついた名前ではないらしい。ここは元々の標高が206メートルだったが、砲撃で3メートル削られたのだ。とは後世のガイドで用いられる常套句である。
爾霊山の記念碑のすぐ近くに、ロシア軍の150ミリキャノン砲が展示してあった。これまた本物かレプリカかわからない。最も日露戦争は1905年だから既に100年が経過してる。鉄は腐食する。とは言っても戦国時代程昔ではない。よって生々しい戦争の遺物が本物であってもおかしくはないんだけど…。
南の重砲兵観測所からは旅順港が望める。が、そこから右へ目を転じるとぼうっと平かな山が浮かんでいた。
「あの山の左手に見える海が黄海。右手に見えるのが渤海です」とガイドの楊さんは言うが、霞んでて空だか海だか判別がつかない。
散策路を駐車場へと戻る。途中で塹壕跡や乃木保典の墓や陣地隔離帯跡を眺めつつ戻る。
道々、皇居東御苑の二の丸庭園で見たのと同じトラノオの白い花がたくさん咲いていた。
駐車場の周辺には土産物屋がいくつか店を開いている。誰も立ち寄らなかったので、何を売ってるか確認出来なかったが、「203高地Tシャツ」は思い切り目立ってました。
ところで。
当り前だが、中国の人からすれば「祖国を侵略した日本」という事実がある。
日本人が203高地へ来る目的と中国の人が203高地へ来る目的には明らかな違いがある。
今を生きる中国の人は「なぜ中国で日本とロシアが戦ったのか?」と203高地、ひいては旅順へ来るのだそうだ。
203高地にはいろいろな説明板が設置してある。
辛辣な文字も目にする。双方歴史は正しく学ばないといけない。
15時10分、203高地を麓まで戻る。短いトンネルを抜けると、バスは右へ。
実はこれが可能になったのは去年の9月から。それまでは外国人の立ち入りは禁じられていた。旅順は中国軍の軍港であり、軍の施設がひしめいている場所なのだ。よって、トンネルから出た所にその旨を通告する看板がまだたっていた。それを画像に撮りそびれたのは痛恨の極みです。おそらくあの看板は近々撤去されるのだろう…。
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