大磯明治ー昭和にかけて建築された別荘群。中でも山縣有朋・陸奥宗光・大隈重信・鍋島直大・伊藤博文・西園寺公望・池田成彬の別荘や邸宅が並んでた旧東海道を元勲通りというそうな。
ンでも当時の現存する建物はない訳で。今ではマンションや学校、企業の保養施設になってる訳で。そうなると、在りし日の姿はもちろん、「ここが誰それの別荘」と確定するのは難しい。ブラタモリのように、詳しい先生が指南してくれないと、難しいのです。もちろんなんちゃって大磯旧別荘群地図は持ってるけどね。なんちゃってなだけあって実際街歩きをすると使えない地図は簡略化すると実際には使えんのじゃあ~~~っ!!(魂の叫び)
それでも楽しもうとするならば、妄想しかないよな。
ってな事で、妄想スタートです。妄想なだけあって、正確じゃないと思うけど。楽しんだほうがいいもの~。
元勲通りと呼ばれる旧東海道には、かつての松並木が現存してます。これを眺めつつ進みます。
まずはかつての伊藤博文の別荘滄浪閣は、ちょっと前まで西武グループのホテル・大磯プリンスホテルの別館として営業してました。
上の画像はありし日の大磯プリンスホテル別館の敷地内。おそらくこの左の石垣が敷地の境界で、伊藤博文の滄浪閣と鍋島直大の邸宅の敷地じゃないかな~?でも明治の頃からあった道じゃないと思う。だって道幅が広過ぎるからね。確認しようがないけどね。画像奥に見える松の木が立派じゃない?松がここまで大きくなるには、それなりの時間が経ってるハズなんだよ。た・確かめたいけど、既に閉鎖してるとはいえ、どこかで警備カメラがまわってかもしれんからな。さすがに公道じゃないなら奥へ行けないわ~。
うなってても仕方がないので、東へ向います。
旧東海道は、左右に高低差があります。なぜか海側の方が高い。な、なぜかしら~??
マンションです。大きさから見て、旧鍋島邸の跡に建ったと思う。
画像奥に立派な石組みが見えてますね。
たぶんこれが次の別荘の跡。
なんちゃって地図のは、この辺りに大隈重信と睦奥宗光の別荘があった模様です。
石垣スキーの萌えが萌え上がる凄い石です。横幅は…そうだなあ。メジャーを持ってないから凡そのサイズになりますが、ブロック1個の横幅は80ー90センチは確実。あ。ブロックと言っても現在のコンクリート製ではなく、天然石です。これ、石の種類は何だろうか?私は石垣スキーではありますが、詳しくないというエセ萌えなので確定出来ないの。
海へ続く細い道幅も昔っぽい。
大磯町にはウォーキングする人にはとってもありがたい指示標があります。
たぶんかつての邸宅の入口跡です。
なぜって、旧東海道から敷地内へ向う石組みが同じだから。石って撤去するのは大変だから放置してある事が多いのだ。
にしても、どんだけ敷地が広いんだろうね?
東京都北区にある古河邸。あれって、かつては睦奥宗光の住まいでした。それがなぜに古河邸の名前になったか?といえば、陸奥の子どもが古河財閥の養子になったから。
確かそう。んで、何が言いたいか?いえば、地図にはこの奥に古河電工の大磯荘があるんだよ。これって、睦奥宗光の別荘を、古河財閥に養子に言った子が受け継いで、以後古河財閥もしくは古河グループで活用してるんじゃないかな~?と、妄想してみる!すると楽しいと思わない?
さて。石組みの塀が途切れたら、そこには…。
大磯中学校がありました。
ここね。なんちゃって地図によりますと、山縣有朋邸もしくは旧徳川邸があった模様です。
学校なだけに面影残ってないよな~。と思ったのですが…。
中学校の塀が竹垣風味ですっうお~~~~~ッ!!いい。何かいい~~っ
ちなみに、大磯中学校の前も当然旧東海道でして、松並木が残ってます。
ダンナがしゃがんで何をしてるか?といえば、木の根元にプレートがあるのです。
『クロマツ(マツ科マツ属)
このクロマツは国道1号線に植樹してあるクロマツの中で一番太い木で、太さ約4、3メートルあり、樹齢は約300年の巨木です。
300年ってったら、江戸時代ですっ。元禄時代が1688年から1704年。5代徳川綱吉が将軍の頃。その時代からここの松並木に立ってたクロマツです。
す・凄過ぎる…。なんで、残ってるんですか!?だって、旧東海道って、つまり国道1号線だよ?1番なんだよ??江戸時代の街路樹が残ってる!って!!これは東京駅のホームに開業当時の柱が現役で使われてるのを見て驚愕した時と同じ驚きです。
あ。説明板発見:東海道の松並木
江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木・一里塚・宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。
松並木は、今から400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主に保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごと植継がれ大切に育てられてきたものです。
中学校の端に、歩道橋があったので上から旧東海道の松並木を見てみた。
迫力あるなあ~。見応えあるわ。
さて。歩道橋に登ってしまったので、ここで旧東海道の北側へ移動します。そうなのね。元勲通りに立ち並んでいた邸宅と別荘群は、全て海側(南側)に並んでたのです。やっぱ、おうちから海を望める眺望で住宅デザインしていたんだろうなあ…。ここは妄想を総動員して楽しみましょう!つーか、ブラタモリならここはCG画像が登場し、かつての別荘群が再現される場面だよ…。その頃に思いを馳せれる建物が残ってないのが大磯歴史観光の残念なポイントだよな~。やっぱ、メインは必要なんですよ。歴史浪漫に萠え上がる為のメインが飛鳥なんじゃ~~~。
あ。そうか!
だから燃えてしまった旧吉田茂邸を今更再建するのか。きっとそうだよな。JR大磯駅から歴史散歩をやったら、城山公園がゴールになるものな。まあ、旧三井大磯別邸を再建してくれてもいいんだけども。そこは今後の健闘事案かな?何しろ巨額の予算が必要だしな。観光客は楽しみに待ちましょう!
あ。大磯歴史散歩のまとめのような記事の書き方になりましたが、大磯歴史散歩はまだまだ続きまあす。
追記:
調べたらば、伊藤博文が滄浪閣を構えたのは1896年(明治29)。
小田原へ行く途中で大磯に立ち寄って気に入ったとか。翌年のは品川から本籍を大磯に移動。
1909年、伊藤博文暗殺後は梅子夫人が住んだが、持ち主が複数変遷。
後、1951年(昭和26)には西武鉄道に売却。昭和29年に大磯プリンスホテルの別館に。
路地を挟んで隣が西園寺公望・旧池田成彬邸。
廃墟は池田邸跡で正解のようです。
もともとは、伊藤博文の後を受けて総裁となった西園寺公望が別邸を構えた場所で、博文が滄浪閣を構えた3年後の1899(明治32)念、「隣荘」と称した別荘を公望が建てた。
公望が去った後、池田成彬が大正6年頃やってきた。洋館を建てたのは昭和7-8年頃。現存してる洋館の廃墟がこれ。
ンでも当時の現存する建物はない訳で。今ではマンションや学校、企業の保養施設になってる訳で。そうなると、在りし日の姿はもちろん、「ここが誰それの別荘」と確定するのは難しい。ブラタモリのように、詳しい先生が指南してくれないと、難しいのです。もちろんなんちゃって大磯旧別荘群地図は持ってるけどね。なんちゃってなだけあって実際街歩きをすると使えない地図は簡略化すると実際には使えんのじゃあ~~~っ!!(魂の叫び)
それでも楽しもうとするならば、妄想しかないよな。
ってな事で、妄想スタートです。妄想なだけあって、正確じゃないと思うけど。楽しんだほうがいいもの~。
元勲通りと呼ばれる旧東海道には、かつての松並木が現存してます。これを眺めつつ進みます。
まずはかつての伊藤博文の別荘滄浪閣は、ちょっと前まで西武グループのホテル・大磯プリンスホテルの別館として営業してました。
上の画像はありし日の大磯プリンスホテル別館の敷地内。おそらくこの左の石垣が敷地の境界で、伊藤博文の滄浪閣と鍋島直大の邸宅の敷地じゃないかな~?でも明治の頃からあった道じゃないと思う。だって道幅が広過ぎるからね。確認しようがないけどね。画像奥に見える松の木が立派じゃない?松がここまで大きくなるには、それなりの時間が経ってるハズなんだよ。た・確かめたいけど、既に閉鎖してるとはいえ、どこかで警備カメラがまわってかもしれんからな。さすがに公道じゃないなら奥へ行けないわ~。
うなってても仕方がないので、東へ向います。
旧東海道は、左右に高低差があります。なぜか海側の方が高い。な、なぜかしら~??
マンションです。大きさから見て、旧鍋島邸の跡に建ったと思う。
画像奥に立派な石組みが見えてますね。
たぶんこれが次の別荘の跡。
なんちゃって地図のは、この辺りに大隈重信と睦奥宗光の別荘があった模様です。
石垣スキーの萌えが萌え上がる凄い石です。横幅は…そうだなあ。メジャーを持ってないから凡そのサイズになりますが、ブロック1個の横幅は80ー90センチは確実。あ。ブロックと言っても現在のコンクリート製ではなく、天然石です。これ、石の種類は何だろうか?私は石垣スキーではありますが、詳しくないというエセ萌えなので確定出来ないの。
海へ続く細い道幅も昔っぽい。
大磯町にはウォーキングする人にはとってもありがたい指示標があります。
たぶんかつての邸宅の入口跡です。
なぜって、旧東海道から敷地内へ向う石組みが同じだから。石って撤去するのは大変だから放置してある事が多いのだ。
にしても、どんだけ敷地が広いんだろうね?
東京都北区にある古河邸。あれって、かつては睦奥宗光の住まいでした。それがなぜに古河邸の名前になったか?といえば、陸奥の子どもが古河財閥の養子になったから。
確かそう。んで、何が言いたいか?いえば、地図にはこの奥に古河電工の大磯荘があるんだよ。これって、睦奥宗光の別荘を、古河財閥に養子に言った子が受け継いで、以後古河財閥もしくは古河グループで活用してるんじゃないかな~?と、妄想してみる!すると楽しいと思わない?
さて。石組みの塀が途切れたら、そこには…。
大磯中学校がありました。
ここね。なんちゃって地図によりますと、山縣有朋邸もしくは旧徳川邸があった模様です。
学校なだけに面影残ってないよな~。と思ったのですが…。
中学校の塀が竹垣風味ですっうお~~~~~ッ!!いい。何かいい~~っ
ちなみに、大磯中学校の前も当然旧東海道でして、松並木が残ってます。
ダンナがしゃがんで何をしてるか?といえば、木の根元にプレートがあるのです。
『クロマツ(マツ科マツ属)
このクロマツは国道1号線に植樹してあるクロマツの中で一番太い木で、太さ約4、3メートルあり、樹齢は約300年の巨木です。
300年ってったら、江戸時代ですっ。元禄時代が1688年から1704年。5代徳川綱吉が将軍の頃。その時代からここの松並木に立ってたクロマツです。
す・凄過ぎる…。なんで、残ってるんですか!?だって、旧東海道って、つまり国道1号線だよ?1番なんだよ??江戸時代の街路樹が残ってる!って!!これは東京駅のホームに開業当時の柱が現役で使われてるのを見て驚愕した時と同じ驚きです。
あ。説明板発見:東海道の松並木
江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木・一里塚・宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。
松並木は、今から400年前に諸街道の改修のときに植えられたもので、幕府や領主に保護され約150年前ころからはきびしい管理のもとに、立枯れしたものは村々ごと植継がれ大切に育てられてきたものです。
中学校の端に、歩道橋があったので上から旧東海道の松並木を見てみた。
迫力あるなあ~。見応えあるわ。
さて。歩道橋に登ってしまったので、ここで旧東海道の北側へ移動します。そうなのね。元勲通りに立ち並んでいた邸宅と別荘群は、全て海側(南側)に並んでたのです。やっぱ、おうちから海を望める眺望で住宅デザインしていたんだろうなあ…。ここは妄想を総動員して楽しみましょう!つーか、ブラタモリならここはCG画像が登場し、かつての別荘群が再現される場面だよ…。その頃に思いを馳せれる建物が残ってないのが大磯歴史観光の残念なポイントだよな~。やっぱ、メインは必要なんですよ。歴史浪漫に萠え上がる為のメインが飛鳥なんじゃ~~~。
あ。そうか!
だから燃えてしまった旧吉田茂邸を今更再建するのか。きっとそうだよな。JR大磯駅から歴史散歩をやったら、城山公園がゴールになるものな。まあ、旧三井大磯別邸を再建してくれてもいいんだけども。そこは今後の健闘事案かな?何しろ巨額の予算が必要だしな。観光客は楽しみに待ちましょう!
あ。大磯歴史散歩のまとめのような記事の書き方になりましたが、大磯歴史散歩はまだまだ続きまあす。
追記:
調べたらば、伊藤博文が滄浪閣を構えたのは1896年(明治29)。
小田原へ行く途中で大磯に立ち寄って気に入ったとか。翌年のは品川から本籍を大磯に移動。
1909年、伊藤博文暗殺後は梅子夫人が住んだが、持ち主が複数変遷。
後、1951年(昭和26)には西武鉄道に売却。昭和29年に大磯プリンスホテルの別館に。
路地を挟んで隣が西園寺公望・旧池田成彬邸。
廃墟は池田邸跡で正解のようです。
もともとは、伊藤博文の後を受けて総裁となった西園寺公望が別邸を構えた場所で、博文が滄浪閣を構えた3年後の1899(明治32)念、「隣荘」と称した別荘を公望が建てた。
公望が去った後、池田成彬が大正6年頃やってきた。洋館を建てたのは昭和7-8年頃。現存してる洋館の廃墟がこれ。
こちらのページの「元勲通り」に関わるお写真を保存させていただき、二次利用させていただきたいのですがよろしいでしょうか?
「元勲通り」の写真を保存&二次利用したいとのこと。
私は公開した段階で、どなたでも自由に利用して欲しいと思ってます。なので、nem様も自由に使って下さい。
ただし、撮影は2015年3月撮影のものです。
現在では相違がある可能性があります。含みおきください。