あられの日記

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泉岳寺

2012年02月26日 05時34分27秒 | 歴史散歩
訪問日は2011年1月27日。待ち合わせは泉岳寺駅A2出口地上に10時でした。
私の最寄り交通は小田急です。小田急と連繋して東京メトロのお得きっぷがあるので、都営地下鉄はほとんど利用したことがない。ですが、この日同行のあっこさんは京急利用なので、連繋するのは都営地下鉄なのだ。ということで、都営地下鉄の1日きっぷ700円を利用して、都営地下鉄線で巡る江戸の旅第1回を始めます。
まずは泉岳寺赤穂浪士を知ってる人なら泉岳寺を知らない人はいない。
トップ画像は泉岳寺の中門です。総ケヤキ造りで天保7年(1836)に再建。昭和7年に大修理。正面扁額には「萬松山」とあります。
泉岳寺は慶長17年(1612)徳川家康公の創立で、曹洞宗江戸三ケ寺の一つです。開山は門庵宗禅師(今川義元の孫)です。
山門
中門を抜けると山門がある。山門建立は天保3年(1831)に34世大道貞釣和尚が再建。二階部分には十六羅漢が安置されてるそうですが、観光客は階上に上がることは出来ません。1階天井部分に「江戸三龍」の一つ銅彫大蟠龍がはめ込まれている。日本の彫金の元祖関義則の作です。撮影しましたが、失敗しました。ぶれぶれです。

門を裏から見ると、松の木がいい感じにありました。さすが「萬松山」(泉岳寺の山号)
本堂
旧本堂は第二次世界大戦の空襲で焼失。現本堂は昭和28年12月14日に落成。大石内蔵助の守り本尊摩利支天(秘仏)などが納められている。正面に掲げられている「獅子吼」(ししく)とはお釈迦様の説法のこと。
なんてまともに寺院の紹介をしてますが、泉岳寺に訪れる参拝客の9割の人の目的は赤穂浪士事件の面々のお墓でしょう。よってここからは泉岳寺に残る赤穂浪士の所縁のものを紹介します。
大石内蔵助良雄の像
浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願で鋳造。大正10年12月14日に寄進除幕。
銅像は手に連判状を持ち東の空(江戸方向)を睨んでいる姿だそうです。
血染めの梅・血染めの石
浅野内匠頭が田村右京太夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられる梅と石です。
田村右京太夫邸は後日の記事で登場するので、ちょいと記憶に留めて置いて下さい。
 
赤穂浪士の面々が、吉良上野介の首級を洗った井戸。主君・浅野内匠頭の墓前に供え報告をしたので「首洗い井戸」と呼ばれている。
画像に「川上音二郎」の名前が見える。これってアノ人ですかね?明治期の日清戦争の頃にオッペケペー節を歌った人。つーかパリ万博で奥さんの貞奴と公演した人。なぜに川上音二郎が泉岳寺でしかも吉良上野介の首洗い井戸なのか??わからん。

この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものです。
門をくぐると浅野家の墓所があります。そして赤穂浪士の墓も整然と並んでおります。
泉岳寺は元々外神田に徳川家康が創建したのでですが、寛永の大火(1641年)で焼失後、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹波・水谷の5大名により、現在の高輪の地に再建さてたのです。浅野家との付き合いはこの時より。
明日は赤穂浪士のお墓を紹介するね。   歴史 ブログランキングへ



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1 コメント

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川上音二郎 (あっこ)
2012-03-01 19:10:57
ググったら、こんな情報が出てきたよ。

「高輪の泉岳寺境内には川上音二郎の碑があるが、もともとは墓が「首洗いの井戸」の真後ろにあったとのこと。それが谷中に移ったともいわれる。」

赤穂浪士の話を、演目にしてたのかと思ったけど、違うみたいね~。ま、一説のようだけど。
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