あられの日記

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甲州街道を守るお地蔵さん

2019年04月06日 05時55分37秒 | 神社・仏閣
2019.3.17環境庁の巨樹・巨木林観察コース明治神宮と新宿御苑をめぐる連載も今日で最終回です。最後に紹介するのは新宿御苑から丸ノ内線新宿御苑前駅のすぐ北にある太宗寺さん。ここに江戸六地蔵があるのだ!あるのは知ってて新宿御苑に行ったら寄ろう!と思ってたのに、御苑で疲れ果てパスしつづけていた。この日はまだ14時を回った所。余力があったので、行ってみた。
ありゃ?何だこれ??
内藤新宿散歩の地図と案内板を発見:内藤新宿散歩は、新宿駅から四谷大木戸までの約2キロの道のりです。江戸時代の甲州街道を歩きます。今の新宿追分あたりから新宿御苑あたりまでは代表的宿場であった内藤新宿が開設され、多くの旅籠屋が軒を連ねていました。
元禄11年(1698)、内藤家などの屋敷地の一宇などが収公(領地を没収すること)され、宿場が開設された。内藤家は信州高遠藩主であり、現在の種塾御苑の地に下屋敷を構えていた。徳川家康の江戸入府にあたって江戸周辺地を検分し、家康を迎えたといわれ、以後江戸城西方の交通要所を警固した宿場や関所とともに、幕府は江戸城下から出る主要街道の出口に人や物資を監視する木戸番所を設けた。甲州街道口は、現在の四谷四丁目交差点にあたる所には、四谷大木戸を置き、道の両側に石垣を気づいて木戸が設けられた。
説明板発見:銅造地蔵菩薩坐像 江戸六地蔵の一つ 東京都指定有形文化財(彫刻) 指定:大正10年3月
江戸六地蔵の由来は、本像の内部に奉納されていた刊本『江戸六地蔵建立之略縁起』によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病いにかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したことから、京都の六地蔵に倣って、宝永3年(1706)建立の願を発し、人々の浄財を集め、江戸市中六か所に地蔵菩薩をそれぞれ1体ずつ建立したと伝えられています。各像の全身及び蓮台には、勧進者、その造立年代などが陰刻されており、神田鍋待ち鋳物師太田駿河守藤原正儀によって鋳造されたことがわかります。六地蔵のうち、深川にあった永代寺の地蔵菩薩(第6番)は、廃仏毀釈で取り壊されて、5体が残っています。
6地蔵のうち、霞関山本覚院太宗寺の地蔵は、3番目として正徳2年(1712)に造立されました。像高は六地蔵の中では一番小ぶりで267センチです。本体には、かつて鍍金が施されていました。
江戸時代中期の鋳造像としては大作であり、かつ遺例の少ないものであることから文化財に指定されました」
読みがいのある説明板だなあ。まさか江戸六地蔵が民衆が寄付を募って建てたものだったとは驚きです。日本の町民文化って本当にすごいわ。
あ。も一つ説明板がある。これによると、寄付した人は合計72000人以上に及んでいた、とあります。
江戸って本当にすげえわ。今時でも72000人以上から寄付を集めるって大変よ〜。私の生地って市民を総計しても7万人もいない。
ちなみに、江戸六地蔵の設置場所も説明板にあったので書いておきますね。
品川寺 品川区南品川3−5−17 宝永5年(1708)建立
東禅寺 台東区東浅草2−12−13 宝永7年(1710)建立
真性寺 豊島区巣鴨3−21−21 正徳4年(1714)建立
霊厳寺 江東区白河1−3−32 享保2年(1717)建立
永代寺 江東区富岡1−15−1 享保5年(1720)建立
ん?あれ??日暮里のお寺が入ってない!
やっぱあそこは自称だったのかな?
新宿ミニ博物館というものなんだって!で、内藤新宿太宗寺の文化財という体で見物しましょうということらしい。あ。太宗寺さんの簡単な縁起も書いてある。
太宗寺は、慶長年間初頭(1596頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、のちの信州タ高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。
寺号「太宗寺」は、創建時の庵主太宗の名をいただき、山号「霞関山」は、当時四谷大木戸一体が霞が関と呼ばれていたことにちなみ、院号「本覚院」は内藤正勝の法名「本覚院」を拝しています。浄土宗の寺院です。
とのこと。
では文化財めぐりをするか。
2)閻魔堂の閻魔像と奪衣婆像
「内藤新宿のお閻魔さん」「しょうづかのばあさん」として親しまれた閻魔大王と奪衣婆の像は、江戸庶民の信仰をあつめ、薮入りには縁日が出て賑わいました。
現在も、毎年お盆の7月15・16日には、盆踊りとともに閻魔像・奪衣婆像のご開扉、マンダラ十王図・涅槃図の公開が行われています。
閻魔様の像は撮影してませんが、建物の直前に立つとタイトアップボタンが設置してあるので中が見えます。閻魔様は堂の天井近くまであって、奪衣婆も大きかった。丁度お彼岸だったので、去年あちらに渡った父と叔父たちの平安を祈る。
説明板発見3)切支丹灯籠 新宿区登録有形文化財 歴史資料 登録:昭和60年3月1日
昭和27年(1953)太宗寺墓地内の内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の笠・火袋部分も復元し補われています。
石質は白みかげ石で、江戸時代中期の製作と推定されます。
切支丹灯籠は、江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れ切支丹がひそかに礼拝したとされるもので、織部型灯籠(安土桃山時代〜江戸初期の大名・茶人古田織部の好んだ灯籠)の全体の形状は十字架を、また竿部の彫刻はマリア像を象徴したものであると解釈され、マリア観音とも呼ばれています。」
この灯籠と同じのを見た気がする。あれは確か〜?
去年目黒川の桜を見物して、目黒不動尊に移動する途中で立ち寄った大鳥神社さんに切支丹灯籠があった。
ちょっと変わった建物ですが、これが本堂です。
説明板発見:4)内藤正勝の墓(内藤家墓所) 新宿区指定史跡 平成7年2月3日指定
江戸時代に信州高遠の藩主をつとめた(元禄4年より幕末まで)譜代大名内藤家の墓所です。
現在の墓所は、昭和27年(1953)東京都の区画整理事業に伴い、墓地の西北部にあったものを現在地に改葬したもので、約300坪・57基の墓塔を現存の3基に改葬し、改葬記念碑を建立しました。
墓塔は3基とも宝篋印塔で、中央が5代正勝(寛永6年造立)、右側が13代頼直、左側が内藤家累代の墓塔(ともに明治時代の造立)となっており、このうち正勝の墓は区指定史跡に指定されています。
太宗寺は、寛永6年(1628)にこの正勝が葬られ、6代重頼が寺地を寄進し起立したものですが、正徳4年(1714)7代清枚(きよかず)が葬られて以後ここを歴代の墓所とし、当主ほか一族が葬られました」
うぎゃああああ〜〜〜!! ぱったり
え〜と、今起きたことを簡単に説明しますと、このあと文章が全部消えた〜。
何でですかね?なんかメッセージも出てた気がするが、無視して入力を続けて送信したのよ〜。全部消えてた!しばらく放心。
た、対策せんと!
全文入力して送信せずに、ぶつ切りで送信しようかな?これ、サーバーに負荷がかかるとか聞いた気がするので、なるべくまとめて書いて送信するようにしてたけども。入力した文章が消えるとなれば、ブツ切りしかないよな?
あ〜もう!何書いたっけ!忘れてしまったわ。え〜と??
5)三日月不動像 布袋尊像(新宿山ノ手七福神)
塩かけ地蔵。近くにお百度石もありました。
時刻は14時15分。まだ早いけど帰るか。新宿御苑から小田急新宿駅を目指す。途中、新宿門脇のインフォメーションで物販テントがあった。ダンナは地方限定カップ麺を購入。あとで撮影させてもらおうと思ってたのに、ダンナは帰宅後即食べちゃいました!ダイエットしてたんじゃなかったんかい!撮影できず。
私が購入したのはからむしうどん。
うどんを見ると食べてみたくなるのが讃岐民の習性。にしてもからむしってどこかで見覚えが??と思ったら、うどんの説明文をいただく。そこには上杉家ゆかりの植物からむし(青苧・苧麻)と書いてある!
えっ!?上杉家??と驚き読むと、戦国時代、上杉謙信・景勝・直江兼続が栽培を奨励した自然素材苧麻(カラムシ)が蘇ります。かつて麻織物原料として、また葉は食用として使われ、現代ではその粉末を織り込んだ「からむし麺」が驚くべきパワーで大人気をよんでいます。
からむしには独特のねばりがあり、モロヘイヤなどネバネバ野菜と同じく。豊富なミネラル分を有しています。とあって、ほうれん草と比較の成分表が載ってた。すげえ。上杉謙信がすごいのか?直江兼続がすごいのか?歴史好きなら一度は食べてみたいよ。このからむしうどん。
ってなことでこれで明治神宮・新宿御苑の巨木巡りの連載はおしまいです。明日からは3月24日の京王線の巨木巡りと早咲き桜です。まだまだ巨木巡りは続くんじゃ。

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