高松城や歴代藩主の文化財や史料が展示されています。
朝から難しいことは読んでられない〜。
まずは江戸城における高松松平家の位置。上の画像の一番上。譜代・家門。臣下最高の座席になってます。
で、高松藩はなぜに生駒家から松平家にお殿様が変更になったか?
生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、寛永17年(1640)に生駒騒動と言われる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。
この後、寛永19年(1642)に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。
頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたと言われています。
頼重以降、松平氏の治世は11代228年間に亘り、高松は松平氏の城下町として栄えました。
系譜です。右側をよく見ると、家康の息子の徳川頼房が水戸藩主。頼房の長男が頼重で弟が徳川光圀です。東京の後楽園は光圀がこだわって作った庭園で。兄を差し置いて弟の自分が水戸藩の藩主になったことの悩みが滲み出た場所がありましたが。上の系譜を見ると、光圀は息子の頼常を2代高松藩主に据えてます。で、高松藩主となった兄頼重の息子の綱方を水戸藩にもらっています。この辺りはTBSドラマ「水戸黄門」で何度も黄門様が高松目指して旅してた理由ですね。
ちなみに系譜を見れば、高松松平家に水戸藩の家系の殿様が何人もいるのがわかります。黄門様の未練が後の世まで影響してるのね。
トップ画像はありし日の高松藩の見取り図。城の際まで海が迫ってます。日本三大水城の一つです。
こういう立地なので現在のお堀に海の魚の黒鯛が泳いでる訳だ。
ちなみに高松城に天守閣は現存してません。
復元計画はあるようです。復元するとこんな感じらしい。お城は明治3年に廃城許可が降り、一時政府の所管となりました。この時代に高松城の中心部は陸軍の所有となり、天守を始めとする多くの建物が取り壊され、外堀は埋め立てられ市街化が進みました。
明治23年(1890)に再び松平家に払い下げになり三の丸に国の重要文化財に指定ている披雲閣が建設されました。
さてと?外に出たらまたも盆栽がありまして。
販売してる商品だった。一鉢2000円から。
勤めてた頃、最寄駅はJR鬼無駅でして。そこここの田んぼに松が植えられてるのを眺めつつ自転車を漕いでました。全国的には珍しい光景だったのか。
お盆が終わりようやくパソコンに触れる時間が出来た。大変だった。
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