あられの日記

カテゴリーは場所優先。鶴岡八幡宮は寺院・仏閣ではなく「鎌倉」に。一部検索し易さ優先で、花カテゴリーに入れてる場合も。

明日の雪に備える人々?

2014年02月13日 11時37分03秒 | 面白い自販機
先週の雪が溶けきらぬうちに明日、次の雪が来る!と分かったので、人々は備えに走ってます。
さっき、いつもより早めに近所のスーパーへ買い出しに出かけたら、まるで大売り出しの日の如く買い物客が来てました。しかも皆さん買う買う買う~~。そんなに買ってどうすんの??
や。小雪が舞う位ならば、前もって備えるのは1日分ないし2日ぶんといった所でしょうが、今回は3日はもたせる!勢いで買い込んでましたよ。ええ。
まあね。都会のスーパーは、ほとんど徒歩か自転車で買い物に来る客が多いから道に雪が残ってる時には歩きたくもなし、自転車も危ないからさ~。分かるけど。既に実行に移ってる人が多くて驚きましたよ。

さて、せっかくなので画像を少し掲載しときますか?
まずトップ画像は、町田駅のバスターミナルで見かけたバスです。今どき、まさか、半分の所で繋げたバスを見られるとは…。こういうタイプのバスって中国ではスタンダードですが、まさか隣街で走ってるとは知りませんでした!

引き続きましては、寒川神社と最寄駅の途中にあった中華屋さんです。
看板が読めない~~。こうね。3つ重ねて字にする文字って結構あるよね?「木」が3つで「森」。「火」が2つで「炎」。「虫」が3つで「蟲師」!みたいな~。しかし金が3つで何って読むんですかね?店の名前が分からないと検索ワードにかけられんよな?
最後は記事にするのが大変そうなのでついパスしちゃった貨幣博物館&日本銀行本店の売店より。





売店といっても、全部自販機だったのが日本ぽいです。ちなみに私は絵はがきを購入しました。事前に図柄がわからなかったのでギャンブルしましたが、しょうもない写真を絵はがきにしてたので失敗でした。でも価格はとっても良心的。

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スイーツです

2014年02月12日 08時01分37秒 | おいしい&スイーツ
いつものネタ切れです。
あれ~?行きたい所があって、ボチボチタイミングもいいから休みに出かけよう!と思っていたのに、雪でございます。しかもまだだいぶん残ってるし~~。おそるおそる下の商店街を歩いていたら、ゼリーみたいな雪に足を取られて転けそうになるわ。自転車も道路に雪の轍があって歩行者をよけようとして乗り上げて滑るわ。危険極まりなく、パスしてたら記事が間に合わなくなってしまった。んで急遽画像蔵出しです。
トップ画像は相模大野のbonoで売られてるダチョウの卵です。こんなん普通に店頭で販売してるとは…。どんな人が買うのでしょうか?以前、イトーヨーカドーでドリアン1個丸ごと売ってるのを目撃した時と同じインパクトがありました。

上の画像も同じ相模大野のbonoで採取。ちなみに有名な丹沢あんぱんではなく、あげパンを購入しました。1個100円でお求め易い価格でした。が。想像より小ぶりなパンでした。あれ~??あげパンって小学校の給食で人気メニューだったパンだったけど、これを小さいと感じるのは私が大人だからか??注文したらその場でパンを揚げてくれます。お店の前にイートイン用の椅子が並んでるので、揚げたてアツアツの所を食べる事が出来ます。おススメです。

引き続き紹介するのはうちの田舎の和菓子屋さん、白栄堂の看板銘菓観音寺です。これね~、白い玉子あんです。愛媛の母恵夢が好きな人ならば、絶対に気に入ると思う。ちなみに私は母恵夢よりこっちの方が好きです。JR予讃線のキヨスクに大概置いてあります。

最後に紹介するのは、チョコリングパンのマジカルチョコリングです。JR町田駅の駅ビルの丸井で、よくある期間限定で売っていたのだ。

上の画像では分かりにくいけど、生地はクロワッサンとフランスパンを足して割った感じ。そこにチョコの塊がゴロゴロ入ってます。焼く時にチョコはちょっと溶けてるんだけど、いただく時に少しだけレンジでチンすると美味しさが甦るタイプの作品です。美味しいんだが、大きさにしては値段がちょっと割高なのがリピート買いを躊躇わせる作品です。だってこれ、1個500円超えなんだもん。
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日本銀行本店の見学は?

2014年02月10日 08時35分37秒 | レトロ建築
見学開始です。とはいえ、建物内は撮影禁止なので画像がない。味気ない文字解説ばかりにならないよう気をつけなくっちゃ~!!

日本銀行は、明治15年(1882)10月10日に開業しました。
当時は、永代橋のたもとで借り物の店舗(旧北海道開拓使東京出張所)で営業していましたが、3代目の川田総裁の時に本館が建設されました。
この土地は「金座」(江戸時代に徳川幕府の金貨の製造所があった場所)の跡地であり、両替商が軒を連ね貨幣に縁の深い土地柄であったことや、金融機関が集中していたことから、現在の土地が移転先となったと言われています。
設計者は、当時建築学界の第一人者で、東京駅のレンガ造り駅舎や旧両国国技館の設計も手がけた辰野金吾博士です。竜野博士は海外を視察した結果、ベルギーの中央銀行をモデルに、ルネッサンス様式を加味したネオバロック様式の西洋式建物を設計しました。工事着工は明治23年9月、完成は明治29年2月。
地下1階、地上3階建ての石積みレンガ造り(外装は1階部分は花崗岩貼り、2階、3階は安山岩貼り)となっています。昭和49年には、国の重要文化財に指定されました。
トップ画像は本館中庭です、
入館前に、外観を少し撮影しました。

こちら、馬車が使われていた当時の馬の水飲み場。
咆哮の獅子像(青銅製)
設計者の辰野金吾が欧米を視察した際に、欧州の宮殿・寺院などに王者のシンボルである獅子をあしらった紋章飾りが多く使われていることを知り、デザインしたと言われています。
2匹の獅子が抱える図柄は、日本の「日」という漢字の古代書体の一種が由来となったもので、現在もお札に印刷されています。」以上パンフレットより。
この咆哮の獅子像は本館正面西門の隣のアーチ上にあります。見学申込せずともすぐ側で観察可能です。
西門をくぐって本館中庭へ。数段階段を上がった所が集合場所。

ここで見学許可証が回収。そして手荷物はロッカーへ預けます。

上の画像右に少しロッカーが写ってますね。館内は撮影禁止なので、メモ帳・ペン・財布を除き全部預けちゃいます。
予約申込者はそこそこ多かった!でも半分近くはレクチャー付きの団体見学申込の大学生グループだったので一般見学者は…。20人強でした。
ガイドさんにくっついて移動。まずはビデオ上映視聴ですが、その前にセキュリティーチェックを受けました。
その先で見学資料セットと、服の分かり易い場所につける見学者プレートを受け取りました。
見学資料セットを撮影。
注目は中央のビニールの小袋です。コレ実は痛んだりして使われなくなったお札(日本銀行券)のクズの一部なのです。
日本銀行は日本で唯一の「発券銀行」としてお札を発行しています。痛みの酷いものは取り除き、クズに裁断してお札として使えなくして綺麗なお札だけ流通にさせています。
ちなみに、裁断されたお札のうち半数はエコ利用されていて、住宅の建材やトイレットペーパーに再生されています。
会議室のような大部屋で大画面ビデオ上映会開始。大人の社会科見学です。
ってな事で、日本銀行のお仕事について~。
1)銀行の銀行
2)政府の銀行
3)お札の発行・流通管理
 以上、大きく分けて3つです。ちなみに、硬貨の発行は大蔵省造幣局なので別組織なのだ。
ビデオは日本のお札の歴史を解説。
きっかけは西南戦争。費用を賄うために大量にお札を発行してインフレを招いたから。ちなみにお札はあちこちで発行されてました。
ちなみに、去年平成25年のお札の流通量は、銀行の預入金を除いて90兆円。これは地球55周、富士山の377倍に積上る量なんだって。
すんごく多いんだけど、日本の現在の借金が1000兆円超えとかを知ると、たった90兆しかないの~??ってなものです。
ビデオ上映は最後に偽札対策です。日本のお札は偽札が造れないようにさまざまな対策を立てていて、お札にはホログラムや潜像模様を採用してます。日本銀行は偽札を許しません!でフィニッシュ。ビデオ上映は約20分。会議室には戻りません。後ろに設置してある資料が欲しい人はここでゲットするのを忘れずに。
これから40分かけて建物内を見学します。とはいえ、館内撮影禁止なので見学したものを個別に紹介出来ないのが無念です。なのでいただいた資料を撮影します。

まずは上の画像の左側の旧営業場へ。
窓口本館は昭和44年までここを使用していました。現在は裏の新館にて営業しています。本館は現在は、見学者用・図書資料の保管場所として利用しています。
ガイドさん「明治29年に完成した本館は、今年で117年目。建物は石積みレンガ造りで軽いぶん地震に強く造ってあります。下部から上部へとレンガの数を減らしてありますが、外装を安山岩・花崗岩で覆っているため内部は見られません。
ちなみに、関東大震災でも本館建物は耐えました。しかし、明り取りを上部から取り入れる造りとなっていて、隣の日本橋からの火の粉で内部は丸焼けになりました。
ドームが焼け落ちる被害を受けつつも、震災があった1923年(大正12)9月1日は土曜日。翌日曜に消防に頼み内部を消火作業をしてもらい、翌3日は月曜。地下の金庫は無事だったので1日の営業日も休みませんでした。」
おお~ッ!!素晴らしい~~。旧営業場の通路には、東日本大震災・神戸淡路大震災の時、痛んだお札を新しいお札と引き換えた時の写真が展示してありました。
寒空にズラリと各銀行の出張所が並び、混乱を招くことなく営業を続ける写真には感動します。ちなみに、痛んだお金は面積が2/3以上のこっていれば全額として引き換え、面積が2/5以上2/3未満の場合半額として引き換え。面積が2/5未満の場合はお札として価値がないとして失効するのです。例えば、火事でお札が萌えてしまっても、灰となったお札もお札だと確認出来れば引き換え出来るのだよ。日本って凄い~~。
続いて地下へ移動。移動はかつてお札運搬に使用されていた大きなエレベーターを使用します。1回で見学者全てが移動出来ました。

ガイドさん「地下金庫は明治29年から平成16年まで現役でした。地下金庫の外扉は、アメリカ製のスチール製、ハンドルを2人以上で回し人の手で開け閉めします。地下金庫の外壁扉は90センチの熱さがあります。中は釉薬を塗った防火性を高めたレンガが壁を覆っています」
とはいえ、見学者は中へは入れません。金庫の扉の外から伺うのみ。
ガイドさん「視界の奥が地下金庫ですが、左右にも部屋があります。1パレット40億を積み上げたものや、麻袋に納められた2000枚入りのコインや、1本14キロ・6300グラムの金塊が納められてました。
地下金庫の扉前に、レプリカの現金パレットや麻袋、金塊が積み上げられていて、デモンストレーションとして、1億円分のお札の束のレプリカが置いてありました。
ガイドさん「興味のある方は持ち上げてみて下さい。一束で10キロあります」
同じ旧現金運搬用エレベーターを利用して1階へ戻ります。次は上の画像中央にある昭和初期に設置されたエレベーターを使い2階へ移動。ちなみに、このエレベーターは日本で2番目に出来たエレベーターで、現存するエレベーターとしては日本最古のものです。ちなみに、日本で一番古いエレベーターは、浅草の凌雲閣のものでしたが、関東大震災で崩壊しました。当時としては最新鋭の、防火シャッターや避雷針、水洗トイレが日本銀行には残っています」
2階に到着。ますは上のガゾ右下の赤じゅうたんの通路の両側に架けられた絵画を見学。
ガイドさん「歴代総裁の絵画です。スペースの関係で全ては展示出来ないので一部のみ展示してあります。廊下の奥の左手に、総裁室があり続く廊下はかつて行員の間で『松の廊下』と呼ばれていました」
ちなみに、総裁の絵は現在は描かれていないんだとか。展示してある絵で私が見て一目で名前が分かったのは『高橋是清』さんくらい。『坂の上の雲』で日露戦争の時に戦費調達で欧州で奔走してた映像を覚えてますわ。
続きまして、上の画像の右上。これはドーム屋根内側の八角堂の天井部です。かつてここで重役会議をやっていたんだとか。この周辺には日本銀行の歴史の品を展示してあります。中でも面白かったのはかつて営業開始を告げていた樫製の拍子木です。この音もテープで再生出来るようになってまして、営業場内に鳴り響く感じが味わえて楽しいです。
ガイドさん「よく日本銀行本館は上から見て『円』の字であると言われるのですが…。辰野博士の時代に使用されていたのは『圓』の字なので、偶然の一致だと思われます」
えっ!?そうなのっ!!
はっきり言ってこれが今回の見学の中で一番驚いた事だったりする!日本銀行の建物が上から見ると「円」の字というのは、定着したトリビアだと思っていたのに、偶然の一致なのかよっ!!!
展示品の中に日立製の古っるいパソコンがありました。
ここからは本館から廊下で繋がる本館へ移動。現在の日本銀行の業務を見学です。しかし建物内は静か。というのも、現在は日銀ネットで各地の銀行とのやりとりはほとんどまかなえていて、一部ネットに繋がっていない地方の信金などが窓口に来る意外は直接来店する必要もないからです。
ちなみに、日本銀行の行員は、全世界で総勢4700人いるんですって。多いんだか少ないんだか。って事で見学は終了です。引き続き、日本銀行本館向かいにある貨幣博物館の見学に向かいます。しかしここも内部撮影禁止だったんだよね~。見学はとても楽しかったんだけど、画像がないんだよな~。記事、どうしょっかな~。
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日本銀行本店本館見学

2014年02月09日 05時21分11秒 | レトロ建築
先月、1月29日に日本橋にある日本銀行本店本館を見学してきました。
私のブログを長らく見てる方はまだ行ってなかったんかい!?とも思われるでしょうが、ここってば見学方法が面倒くさいのだ!
まずですね。1)見学希望の3ケ月前から1週間前までに電話にて先着順で見学予約する。
やってみてわかったのですが、タイミングが悪いと電話がなかなか繋がりません。何のタイミングかというと、おそらく見学案内してる人と、申込受付してる人が同じなのです。だから、見学者を案内してる時間に電話しても繋がらないのだ。自分で申込して気付きましたよ。
ちなみに、申込受付時間は、毎週月曜~金曜の9時半から16時半までです。
<一般見学>
見学日:毎週月曜から金曜日。
見学時間:1)9:45-10:45頃。 2)11:00-12:00頃。 3)13:30-14:30頃。 4)15:00-16:00頃。
見学所要時間 約1時間(日本銀行紹介ビデオ上映約20分。店内見学約40分。
対象:小学校5年生以上の方。
*ちなみに、一般見学の他大学生以上10名以上のグループを対象とした、開催日時を特定したレクチャー付き見学もあります。

2)電話が通じたら、見学希望日&見学時間を述べる。ここで見学予約者に余裕があれば見学受付OKとなります。
3)見学者<グループ申込の場合は見学者全ての>の氏名・住所・電話番号を口答で述べる。
4)後日、日本銀行情報サービス局から見学グループ代表者宛に封書が届く。封書には最寄駅から日本銀行までの案内図と見学予約証が届く。
5)当日、見学予約証を持参。見学の前にセキュリティーチェックがあります。

ちなみに、館内の撮影禁止。飲食禁止。喫煙禁止。荷物は無料ロッカーがあるので預ける。
結構大変です。
さて、私はというと。1月22日の見学日の1週間前に申込み、第一希望の11:00-12:00の回の見学回が無事に取れました。尻込みせずに電話してみましょう。
では早速。JR神田駅に10時40分到着。日銀通りを探すのに少し迷いましたが、無事に日銀を発見出来ました。

見えて来たのは増築部分。
足元にはカラーマンホール発見。


日銀通りを挟んで、西側が日本銀行本店。東側は三井本館です。この建物は、1929年(昭和4)竣工、アメリカのジェームズ・スチュワート社が施工しました。三井本館も重要文化財の建物なので、いつか記事にしたいです。

さて入口は…。
本店見学者は、本館西門が入口です。

入口の警備員さんに、見学案内証を見せていよいよ入館します。

た~の~し~み~~っ!!

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神奈川は昨日一日雪でした!今までにない大雪でした!今までにないから、ベランダはもちろん玄関前のローカも雪で埋まりました。さっきみたら、玄関前は誰かが雪かきしてくれてました。ちなみに玄関前のローカというのは、マンションの4階のローカです。しゃれになりません。しゃれにならないと言えば。ベランダに並べてあるプランターと植木鉢です。植木鉢のミニバラの枝がボキッとへし折れてしまいました。このミニバラは生田緑地にまだ向ケ丘遊園が存在していた頃にあそこのバラ園で購入した奴なので、既に年代ものです。毎年咲くので楽しみにしていたのに…。まだ雪に埋もれてるので発掘出来てませんが、雪の隙間からあり得ない方向に枝が見えてるからおそらく太い枝から折れた模様です。泣ける…。

諦めきれないので、バラの植木鉢の上からじょうろに湯を入れてかけてみた!
ダメだった~。全然溶けない~~。
なので手で雪をかき出す事にした。

ゆ・雪って重い~~。こんなん雪国の人毎日やってるの~??
ちりとりでかき出すのを諦めて、手でスーパーの袋に詰めていく。つーか、この雪ってどこに捨てれば…。………。ローカ側の雪かきした雪の上に載っけておこう。つーか、ミニバラ以外のプランターは諦めた!結婚記念で友達からもらったブーゲンビリアの枝もボキボキになってたけど、もう見ない~~。あれは枝が折れても大丈夫。毎年どんなに手荒く扱っても復活して毎年花をつけてるから~~~。(大泣き)
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佐藤彦五郎夫妻の墓と井上源三郎の墓

2014年02月08日 05時58分53秒 | 墓所巡り
日野市は新選組所縁の地が多くあり、休日ともなると『新選組』ファンが市内各地を巡ってる訳ですが、ここで注意せねばならない事があります。
新選組の資料館の内 井上源三郎・佐藤彦五郎・土方歳三各資料館が開館するのは第一・第三日曜日限定だという事です。
個別に書き出しますと、井上源三郎資料館 開館時間12:00-16:00(第一・第三日曜日) 入館料500円

佐藤彦五郎資料館 開館時間11:00-16:00(第一・第三日曜日) 入館料500円
*トップ画像は佐藤彦五郎資料館です。日野宿本陣の裏手にあります。

土方歳三資料館 開館時間12:00-16:00(第一・第三日曜日) 入館料500円

ちなみに、市内に点在する新選組ゆかりの地で他に入館時間があるのは、
日野宿本陣 開館時間9:30-17:00(月曜休館) 入館料200円
新選組ふるさと歴史館 開館時間9:30-17:00(月曜休館) 入館料200円
高幡不動尊 新選組ゆかりの品を展示してある奥殿<月曜休館>開館時間9:00-17:00 入館料300円。と土方歳三の位牌を祀る大日堂 拝観時間9:00-16:00 拝観料200円
等がある。
散策を1日で全部巡りたい方は作戦を立てて下さい。なにしろ入館時間の関係のない、八坂神社・土方歳三の墓がある石田寺・井上源三郎の墓がある宝泉寺・佐藤彦五郎夫妻の墓がある大昌寺もコースに組み入れねばならんからして。散策はJRと多摩モノレールとミニバスを組み合わせるのが一般的。

さて。日野宿本陣を見学した後、佐藤彦五郎資料館のある道をかつての日野用水沿いに西へ。大昌寺さんに向かいます。

かつての桜の参道も現存してます。本殿で手を合わせた後、左手の墓地へ向かいます。

こちらが佐藤彦五郎さんと奥さん、土方歳三の姉のぶさん(前名とく)のお墓です。代々墓でした。
さすがにちょいと疲れたので、この後日野用水の途中に設置してあったベンチであられをつまみつつ長めの休憩を取りました。
次は井上源三郎の墓所。JR日野駅ほど近い、宝泉寺さんにあります。

こちらは井上源三郎之碑です。駐車場にあります。碑の後ろは里山。幟があるのですぐ分かりました。
ちなみに裏側は…。

根性で読んでみて下さい。ファンなら出来る!私は途中で挫折した。
そしていよいよ最後のお墓なんだか…。見つかるんか~~??
今まであちこちで墓所巡りしてて、たどり着けなかった事も多いので心配だったんだけどね。心配の必要は全くありませんでした!

ほらね。

到着です。

裏側です。
お墓は井上家の墓所の一角にあり、源三郎の墓の向かいに墓碑がありました。

これ、目を皿にして読みました!真ん中あたりにある誠願元忠居士 明治元年とあるのが井上源三郎のこと。注目するのはその左隣の泰岳宗保居士 昭和2年のほう。この方は、先日天然理心流奉納額でも登場した、井上松五郎氏の次男で、井上源三郎の甥っ子井上泰助くんの事です。
慶応3年(1967)に11歳で新選組に入隊。局長、近藤勇の刀持ちを勤めた。
井上源三郎が慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いで戦死した後、源三郎の首を日野まで持ち帰ろうとしましたが、11歳にはあまりにも重く、仲間から諦めろと諭されて近くの寺院の境内に首と刀を埋めたそうです。それでもちゃんと日野にたどり着き、戦死の報告をしてます。昭和まで生きてたんですね。若くして死亡した隊士が多い中大変だったのでしょうねえ。
さて、11月14日の散歩はこれにて終了です。
日野駅に近い日野宿本陣と京王線高幡不動駅は何度か立ち寄ってるんですが、多摩モノレール万願寺駅近くの土方歳三所縁の地めぐりはなかなか行くチャンスがないんだよな。
いつかそのうち!って又同じ事をつぶやく私でした。
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日野宿脇本陣

2014年02月07日 05時42分47秒 | レトロ建築
日野宿脇本陣は、嘉永2年(1849)正月18日の大火によって古くからの主屋は焼失してしまいました。
現存する建物は、佐藤彦五郎俊正が10年を費やして準備を進め文久3年(1863)4月に上棟し、翌元治元年(1864)12月から住み始めたものです。
日野宿本陣には、佐藤彦五郎が近藤周助に師事して開いた「佐藤道場」がありました。ここでは、後の新選組局長となる近藤勇や、副長の土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちが激しい稽古に励んだのです。
長屋門は大正15年の大火で類焼し、現在はありません。
また、明治26年に54軒を焼いた日野大火によって有山家(佐藤彦五郎の四男彦吉の養子先)が焼失したため、「上段の間」と続きの一間は有山家に移されています。(有山家は非公開です)以上入館時に渡されたパンフレットより。

日野宿脇本陣跡の見学料100円を支払いしばし待つ。日野宿本陣は希望すればガイドさんが案内してくれるのだ。
かつての土間は今は資料展示がなされています。これを見てますと、ガイドさんがやってきた。今回のガイドさんは以前ガイドして下さった方とは違う方でした。
そうなの!実はここを訪れるのは2度目です。
前回の記事はこちら。新選組ファン憧れの日野本陣(2011年6月11日)の記事 この時のガイドさんは、「みなさん、新選組ファンの方ですか?」と確認の上、新選組のエピソード中心でガイドして下さったのですが、今回のガイドさんの萌えは新選組ではなく、レトロ建物の鑑賞ポイントである本陣建築にありました。普段ならそれも楽しいんだが、ここは新選組のエピソードを楽しみにしているだろうあっこさんの為にもぜひともそっち押しでガイドして欲しかったんだけど…。まさかの事態です。

ん~、どうすっかなぁ~??悩むう~~。

何に迷ってるかというと、建物萌えのガイドさんに従って日野宿脇本陣解説の記事にするか?
それとも、前回のガイドさんの新選組エピソードを加えての記事にするか?って事。

………。

決めました!どっちも紹介します。

まずは土間を上がると、ある主屋の18畳の広間から。
ガイド「この部屋はかつて周囲の人達の会合の時などに使われてました。ここで紹介したいのがこの素晴らしい桟です。こうね、年輪の出方がね、こっちが町民・農民向け。反対側は本陣用です。綺麗な正目模様でしょ?」
あまりにも嬉しそうに解説するんで、ぜひとも画像を写したかったんだが、木の色が黒くって挫折しました。私の携帯電話では木の年輪の出方まで再現出来ません。無念。
そんで本陣用側にあったのは…。

玄関あがった所にある10畳間です。
以前のガイドさんは「佐藤彦五郎の奥さんは土方歳三の姉でした。姉の家に遊びに来た歳三は、この部屋に寝転がって昼寝していたそうです」
ちなみに、上の画像の額は、『すなわち武。すなわち文』と読みます。

これはかつての式台です。
玄関でもあります。しかし式台から入れるのは大名のような身分の高い人のみ。
がしかし。以前のガイドさんは「京都・鳥羽伏見の戦いで敗北した新選組は江戸に引き上げてきました。その頃には沖田総司は肺病を患い戦線離脱。江戸で療養していました。沖田総司は日野から甲州勝沼へ向かう新選組を見送りに日野までついてきました。そんな総司を見て彦五郎は尋ねます。『総司、身体大丈夫か?』すると総司は『大丈夫です』と、この式台で四股を踏んでみせました」というナイスな解説を入れてくれましたわ。つーか、数年前の事だったので、ガイドさんの言葉とか記憶からポロポロ抜け落ちてるんだが、土方歳三の昼寝の現場&沖田総司の四股踏みの現場エピソードはバッチリ覚えてます。
しかしガイドさんの萌えは別だった。釘隠しはこんなの。
この部屋の釘隠しのデザインの解説でした。あれ?確かこの部屋の釘隠しは「こうもり」だったような…。この画像は隣の部屋だったかもしれません。
式台つき玄関を上がって正面の10畳間右並びに6畳・6畳の小部屋二つ。

一番奥の6畳間にも新選組のエピソードがあります。
たぶんこの画像の奥が鉄之助くんが匿われていた部屋。
かつてのガイドさん「明治2年(1869)、函館において歳三は戦死しました。歳三は死の直前、小姓を務めていた市村鉄之助に遺髪と写真を渡し、「日野の家族の元に届けてくれ」と命じます。佐藤彦五郎邸に写真を無事届けた鉄之助は、明治政府の逆賊狩りから彦五郎により2年この部屋で匿われました」
まさかのエピソードです。鉄之助くんが歳三に函館で写真を託されたのが16歳の時です。
そんな部屋を歩きつつ、中廊下へ移動です。
建物萌えのガイドさん「上をごらん下さい。欄間に透かし彫りの技が光ります」

「さて、こちらの12、5畳の間が現存する本陣で一番いい部屋です。今に残る職人技をごらん下さい」
さて、歯にものがはさまったような書き方なのは理由がある。この部屋は確かに今一番格が高いけど、かつてはそうではない。以前はこの部屋の左手にまだ2つ部屋があった。大名や公家が休息する「上段の間」です。今現存していない訳は。明治26年(1893)にあった大火事で、彦五郎の4男が養子に入った有山家が類焼。上段の間部分は有山家へ移築されたからです。

「床の間の脇をごらん下さい」
 
「こちら、表と裏で透かし模様が違って見えます!」

建物萌えのガイドさん「この廊下の上を見てください。天井と壁の間の木が凄いんです」
え~と?
建物萌えのガイドさんは「つなぎ目が…云々」と。木の切り出しから詳しく説明を受けたんだけど…。
ゴメン!思い出せないっ!これ去年の11月14日に訪問したのだけど、さすがに3か月近く前だからな~。所々思い出せないんです。
こちら、かつての彦五郎さんと奥さん、土方歳三の姉の夫婦の部屋です。
この部屋の釘隠しは多産のウサギがモチーフです。
この部屋でもかつてのガイドさんは新選組のエピソードを語ってくれました。
「京都から戻り、甲州へ向かう時に歳三は姉に『この後どうなってしまうのか?』とこの部屋で心情を吐露したそうです」
歳三、姉ちゃん子だったんや~。

上の画像は夫婦の寝室の隣の四畳半から眺める庭です。
彦五郎と歳三の姉とは仲のいい夫婦でした。しかし姉の方が先になくなってしまいます。
俳句も嗜んだ彦五郎は「この庭を共に楽しんだ貴女はもういない」という主旨の俳句を残しているそうです。

しか~し、建物萌えのガイドさんはそんなの全く紹介してくれなくて、建物の説明ばかりですわ。
「天井をごらん下さい。並びの3部屋で違いがあります。分かりますか?」
ン~~??何だろう?
「現在はこの先にもう一つ6畳の畳敷きですが、かつてはこの先がお勝手でした」

天井を見比べると、お勝手に近い部屋程黒いんです。煮炊きの火でいぶされていた事が見て取れるんですよ」

「柱の上に釘が並んでるのが見えますか?」と。以後のあれこれとどう使われていたか熱心に語って下さいました。普段ならそれも嬉しいんだけどね。ガイドさんは『新選組』をかすりもしないままガイドを終了しちゃいました。なんだろう?このやり残し感は??あっこさんに聞いてみる。
「新選組の羽織を羽織って記念撮影出来るみたいだよ?」
ンでも、あっこさんの答えはNO!だった…。やっぱりな。
同じ場所へ2度訪れてみて、ガイドさんの萌え方向でガイド内容が全く違うのだと発見出来たのだけ嬉しい。
さて。次に向かうは、佐藤彦五郎夫妻のお墓と新選組六番隊組長、井上源三郎のお墓です。だって、私らは『新選組ゆかりの地めぐり』がメインの日野歴史散歩なんだも~ん。
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日野宿新選組巡り

2014年02月06日 05時57分00秒 | 面白い自販機
旧三井家拝島別邸(北泉寮)見学終了。シャトルバスで拝島駅へ。
この無料シャトルバスは、啓明学園拝島駅行きが8:40 9:55 10:55 12:15 13:15と便があるのだ。見学時間は11時から開始の60分コースなので、12時15分発のシャトル便は使い勝手がいいのだ。
そして、立川経由で日野駅に到着したらもう12時50分過ぎでした。
ここからは新選組所縁の地めぐりです。まずはかつての甲州街道を東へ。
ンでもって到着したのは八坂神社さんです。
ああっ!!これはっ!!
天然理心流の門人募集ポスターじゃないかぁ!!
これ見て萌えない新選組ファンはいない。つーか、ここで萌えなければそれはエセ新選組ファンだろう。
このポスターは八坂神社さんの石の柵に貼られていたのですが、隣にあったのはこれ。
天然理心流奉納額です。
奉納額の説明文もあります。読んでみましょう~。
『安政5年(1858)天然理心流近藤周助の門人であり、砂糖道場で稽古に励んでいた25名によって八坂神社(当時は牛頭天王社)に奉納。
欅板に大小2本の木刀が架けられている。
最後に嶋崎勇とあるが、後の近藤勇のことである。
最後から2番目に名がある沖田惣次郎は後に沖田総司と改めている。
正式入門が安政6年の土方歳三の名前はない。
八王子の千人同心、井上松五郎と弟の井上源三郎の子孫は今でも日野で近藤勇の子孫と共に「天然理心流勇武館」を組織し、流派を継承している。」とあります。サイズは縦47センチ、横90センチ。
ちなみに、額を目を皿にして読みますと。名前の右端が井上松五郎。隣が佐藤彦五郎。右から6番目が井上源三郎となっています。筆跡がみな同じなのが残念ね~。ここは直筆が見たいよな~。
でもこれ、いつでも見られるというものではありません。
天然理心流奉納額は、5月の新選組まつり当日と、9月の八坂神社例大祭当日のみ10時-16時に公開されます。
とりあえず八坂神社さんに参拝。更に甲州街道を東へ。

道の反対側になんかあった!
渡ってみる。
この場合、井上源三郎資料館にひかれるのが正しい新選組ファンなのでしょうが、あまりにも背後の痛車が存在感を主張しています。

これって、アレだ。『とある魔術の…』シリーズのインデックスと御坂美琴ちゃんだよな?立川市がモデルの。
う~む。なぜここに??
あ。イカン先を急ごう。
ついたのは図書館。ここって新選組関連の書が一杯あるんだよな。ンでも立ち寄ったら時間がいくらあっても足りなくなえるのでパスです。
すぐ先にある日野宿交流館へ向かいます。
ここでお昼ごはんじゃ。や。途中どこかでいただくつもりだったんだけど、ついここまで食べずしまいになっていたのだ。テーブルを借りていつものパンとお茶です。
NHKの大河ドラマの新選組!
交流館は新選組のあれこれがそこここにあって嬉しいです。
自販機すら新選組!
他にも売店がありまして。ついうっかり2014年幕末手帳をあっこさんと私、共に購入しちゃいました!何だろう~?この萌えを狙い撃ちするような創り込みと色合いなんだよな。
さて、お腹も落ち着いたので甲州街道と川崎街道の交わる角に建つ日野宿本陣へ。

日野本陣の開館時間は、9:30-17:00
休館日:月曜・年末年始。
入場料200円
日野宿本陣なガイドさんが建物を随時案内して下さいます。た~の~し~み~~。

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今日、いきなりお腹が壊れてしまいまして…。
なぜかしら~??と。しばらく考えて心当たりがありました。
じゃがいも…。
アレしかないわ~。
年明けから、1箱10キロまとめ買いしていたじゃがいもに芽が出始めたのだ。こりゃあイカンと急いで使っていますが、芽は大きくなってきた。芽を取りつつ芽の根元をほじって使ってたんだけど、昨夜3個のじゃがいもを煮て、残りをお昼に食べたのね。そしたらーー。お腹が壊れた~~。
久々にやっちまいました…。次からは芽の周りは気をつけてほじろうと思います。(捨てろよっ)
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旧三井家拝島別邸(北泉寮)見学2階

2014年02月05日 05時12分34秒 | レトロ建築
北泉寮は、明治25年(1892)に永田町の旧首相官邸の所に建てられた鍋島侯爵邸の和館がベースになってます。なぜにベースかといえば、拝島へ移築した後に三井家が増築してるからです。
見学ツアーは建物2階へと進みます。私がまず驚いたのは南に大きく開いたガラス窓です。もう採光たっぷり~~。



広間を取り巻くように廊下があります。上の画像の床をよく見て欲しい。廊下の内側が畳敷きなのです。鍋島侯爵・旧鍋島藩のお殿様は、畳部分を歩くのだ。

こっちの画像の方が畳の廊下部分がもっとよく分かるかな?
「以前案内したお客さんが教えてくれたんですが…」
ン?

「床の間の上にある小さな引き戸は何の為についているか?」
何の為に~??
そういやあ、大概アレ同じ大きさなんだよな~。何でついてるのかしら?
「実は…」
ほうほうほう。
「首検分した首を入れる為だったのです」
フリーズ!!
え~と?ソレって…。
アレだ。戦があったとする。ンで敵方の名のある武将を倒したら、本人かどうか確認する為に戦場から首を本陣とか城へ送る。ンでもって首を納めた櫃を床の間の上の引き戸に収納したーーって事か!?
う~む。まさかの使い道!まさかの目的でアレはつけてあるのだね。

「この化粧台は古いです。オリジナルです」
ごめ~ん。他にも由来とか時代とか説明があったんだけどね。化粧台が置いてある場所は狭くてですね。案内人さんが説明してた時にそこに近づけなかったのね。後から撮影したンで、詳細は分からないままです。これが鍋島時代か?三井になってからか~??
さてさて、2階は大広間・中の間・小広間とか、いわゆる和室がいくつもあるのですが…。
「ここで問題です。一番格式の高い部屋はどこでしょうか?」
ン~~??
「実はこの部屋です」

「この部屋は、桟が全て角を面取りがなされています」
本当だ…。こんな所に職人芸が…。自由鑑賞だったら絶対に気付かなかったわ~。

そして私が密かに萌えたチェックポイントです。この建物って釘隠しが全くないんですよ。って事は、全部組み合わせの組木で建物が造られてるのだね。この建物が出来たのは1892年。1923年に発生した関東大震災を殆ど被害無しで耐えた優れた建物です。日本の技だよなあ…。まあ、旧首相官邸の地に立ってたのであれば、あそこなら地盤はそこそこ硬かったと思うけど。少なくとも液状化とかはなかったんじゃないかな~?とはいえ、同じ敷地にあった鍋島侯爵の洋館は倒壊したとかとか。
ああ…。レトロ建築を見学していっつも思うんだけどね。私にもう少し建築の知識があればもっともっと楽しめると思うんだよね。
こちら廊下の隅っこを写してみました。


2階の廊下から1階を見下ろしてみました。
さて、2階の奥へ進みます。

実はもう三井時代の増築部分になります。
「増築部分と鍋島侯爵の建物の見分け方は、桟の太さです。時代が下ると細い木が使われています」

「こちらが当主の寝室です」
病気で寝てた時とか、看護婦を呼び出しボタンが壁に残ってました。
更に奥へ進みますと、
「浴室です」
  
右の画像は、天井の湯気抜きです。
さて1階へ戻ります。
これ、昨日の記事の最後に紹介した階段ではありません。別の使用人用の階段だそうで。つーか、よくこんな和館を校舎として使っていたよなあ…。子どもなど使い方が洗いだろうにな。
入口には、維持募金の箱が設置してありました。





かつてここに門がありました。土台だけ残されてます。
最後に北泉寮の建物をもう一度振り向いて見学ツアーを終えました。

さて、ここからは…。大勢の見学者はグループ毎に散って行きます。あるグループは近所の拝島大師へ。別のグループは武田つつみと立川堀を見学に向かうようです。私らといえば…。そそくさと拝島駅行きのシャトルバスに乗り込みます。シャトルバスは本数は少ないけど、見学客も利用出来るのです。しかもありがたい事に無料で利用出来るのだ!
拝島駅到着。次に向かう先はJR日野駅。あっこさんの希望で新選組ゆかりの日野本陣を目指します。

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三井財閥の屋敷がなぜ昭島に?

2014年02月04日 05時51分58秒 | レトロ建築
ところで、旧三井家拝島別邸は昭島市の多摩川の側にあるのですが、なぜにこんな所に三井財閥が別邸を建てたのか?まずそこに引っかかっていたのですが…。

いよいよ案内人さんについて北泉寮の建物の中を見学します。
まずは1階から。




食堂だった部屋。






案内人さんは、見学客を集めて説明開始です。それがトップ画像です。ね。見学客多いでしょう?客が多いと同じ部屋に全員は入れないのよ。
案内人「大正12年(1923)、相模湾を震源とした関東大震災が発生しました。三井家も大被害を受けました。三井家11代当主、三井八郎右衛門は大号令をかけます。曰く『地盤が堅い場所を探してこい!』条件に合致したのがここ、拝島でした。八郎右衛門は震災後、千代田区永田町2丁目にあった鍋島侯爵の和館を買い取り移転します」
ちなみに、移転費用は莫大で、一から建てた方が安上がりだったとか。つーか、ぶっちゃけ一から建てるのに比べ倍額かかったんだって!ひえええ~~~!!ですよね。
「拝島周辺は、かつて養蚕がさかんでした。しかし時代が変わり次の産業を模索していた時に三井家がやってきました。結果、昭島市には三井の工場や会社がいくつも出来ました」
やっぱ凄いな三井財閥!
「やがて暗い時代がやってきます。拝島別邸は子ども等の疎開先となりました。北泉寮は校舎となったのです。
三井家が拝島別邸を寄贈。港区赤坂にあった啓明学園が移転し、この地が学校となりました。その後赤坂の校舎が空襲により焼失。終戦後、拝島で授業を再開。
やがて学生も増え、手狭になり日本庭園を潰して新校舎を建設。その頃にはこの北泉寮はぼろぼろになり『おばけ屋敷』と揶揄される程に痛んでました。そこで三井家に「壊していいか?」とお伺いを建てた所、とんでもない!と修覆が始まりました。ちなみに、熱心に修覆に尽力したのは三井英子さんでした。都心の自宅から何度も足を運び指揮をとりました」
う~む。確かかかった費用を聞いたようにも思うんですが、メモを見直しても書いてないの。あれ~?
あ。これは書いとくか。
案内人「先月(10月)、トヨタの名誉会長が見学に訪れました。彼は三井の甥っ子になるんですね。『生きてるうちに見ておきたい』と」
トヨタの名誉会長?誰だろう??
あ。もう一つ抜けてるわ~。
案内人「啓明学園北泉寮の名前の由来は、北が三井北家<三井の総領家>(三井高雄)の北を、泉は住友家(英子夫人の母方の実家)の屋号の泉屋からきています。
三井財閥と住友財閥が縁戚関係になったのはこの縁組みが始めてだったんだって。へえ~へえ~へえ~。
折上げ格天井の応接室です。
折上げ格天井があるのは、格が高い部屋の印。以前にもいくつか見たような…。
神奈川県庁本庁舎の一般公開(2013年6月25日)の記事 こちらの記事に神奈川県庁舎の大会議場の画像があります。思い出したのがここ。あとは…どこだっけな?川越喜多院の徳川家光公誕生の部屋とか?あそこは写真撮影禁止だったんだよな~。
三井財閥の豪邸2階部分(2011年5月17日)の記事 こちらの記事に武蔵小金井市のたてもの園の中にある三井家本邸2階にある二重折上格天井の画像があります。
ちなみに、この部屋はすんごく豪華。現存してるものをいくつか撮影してみた。

マントルピース。和館なのに洋館風味なのね。

布飾りはオリジナルのものだとか。


こちらはモザイクの床。…モザイクで良かったっけか?木の種類の違いで模様がついています。
や~、説明聞きつつ撮影しつつ立ったままメモしてたんですが…。よ・読めないんですっ!自分の字なのに~~。判別不能~~。その上ね。撮影しつつ耳だけ説明を聞いてた場所を後から確認してたりもしたのですが。なぜって。見学者が多過ぎて応接間に全員は入りきらなかったのだ。
この建物は明治25年(1892)に建てられた和館なのですが、その頃にはまだすごい細工の技を持つ大工や職人が一杯のこっていたのね~。



この辺りは指物?とみまごう技があちこちに使ってあります。

こう、どこをとっても素晴らしいんだわ。
「文化財指定出来るかどうか?を見に来た人が、応接室を見て『ここまで現存してる場所はまれ』と評価してくれました」

「念願の指定が取れた時、学園内で指定プロジェクトにかかわった人で大喜びしました」
 
さて、1階はこれにて。2階へ移動です。

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学園の中に江戸・明治?

2014年02月03日 05時55分48秒 | 歴史散歩
啓明学園は多摩川に面して立ってます。園内のグラウンドや体育館は川に面してありまして、建物は斜面の上に立ってます。

啓明学園のそぐ外の多摩川には、戦国時代に武田vs北条が戦った古戦場なのかな?信玄つつみが現存しています。信玄は2万の軍勢でもって攻め拝島に陣を敷きました。ちなみにトップ画像の奥に写っている川向こうの小高い山は、滝山公園です。滝山公園は多摩川と秋川の合流点にありました。かつては北条氏の枝城でした。
ちなみに上の地図の上下に分けるのは江戸時代に昭島・立川をうるおしてきた立川堀の跡です。
さて、旧三井家拝島別邸北泉寮の外観を見学した跡、案内人に連れられて向かったのは学園の最奥に広がる森です。森の中に江戸の昔の八王子から拝島を抜ける道が残ってます。
こちらが八王子方面。
下り坂です。
こちらが拝島駅方面。かつての道は本当に狭いよな~。
森の中にポツンと建つレトロな建物。

三井家別邸時代の建物です。こちらは「放置」されてるのかな?外観をぐるりと巻くように散策路を進みました。



覗いてみた。これは…。ビリヤード場??わからん…。つーか、案内人は説明してたのやもしれませんが、この日のツアー参加者は30人超えでして、列の先頭の案内人の声は届きません。
なのでポツポツ写しつつ列についてきます。







訪問したのは11月14日でした。既に紅葉が始まってます。去年の秋は早かった。







思いがけず早めの紅葉を楽しんだら、旧三井家拝島別邸の建物に戻ります。

建物の周りは今は駐車場になってまして。木の隙間にポツポツ車が止められてて…。こういう駐車場昔はよくあったよなあ~。

さて、玄関に回りました。でも上の画像は旧鍋島藩のお殿様の建物部分じゃなく三井家の時代に増設した部分だったハズ。
あ。こちらが入口です。


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旧三井家拝島別邸

2014年02月02日 06時00分01秒 | レトロ建築
この三井家の建物は、去年まで公開日に予約制で見学可能の物件でした。手続きが面倒で、いつか~そのうち~と何年もパスしてました。ところが、去年たまたまチェックをかけたらば、見学方法が変更になっていたのです。
すなわち、公開日の公開時間の10分前までに、学園正門に集合する!これだけ。
これはぜひとも見学したい!と。あっこさんを誘って訪問計画を立てたのが去年の10月のことです。ところが、訪問を実行しようとした10月24日(木曜日)、当日は天候が荒れ模様でして延期することに。仕切り直して訪問したのは、11月14日(木曜日)です。
待ち合わせはJR横浜線町田駅。終点八王子駅でJR八高線に乗換えて拝島駅到着。実はこっからが時間との勝負です。なぜなら、集合時間の10時50分まであまり時間がなかったのです。一応拝島駅南口から徒歩20分とあるんだけどね。30分はかかるかも~?なぜって、始めての場所で地図を片手に歩くのは、迷うかもしれんから~。
さて、到着したのは10時45分です。
…見学希望者が多くてびっくりじゃ!何人いるの?20人。いや、30人は軽く集まってるよな。
まあ、待ち時間を利用して軽く撮影しておくか。

この門、金かけてるなあ~。

門の左手に、守衛さんの小部屋があります。(上の画像は帰りにバスの中からの撮影)

つーか、これが学校の正門かよ~~。
あ。
まだ書いてませんでしたね。
旧三井家拝島別邸は、現啓明学園北泉寮なのです。
啓明学園は、敷地面積10万平方メートルもありまして、都内最大級の学校でして、敷地の中には、幼稚園・初等科・中学校・高校まで揃っています。

あ。説明板発見:旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮) 東京都指定有形文化財(建造物)
三井家の総領である北家当主であった高棟(たかみね)により、昭和2年(1927)に建てられました。客室や居間などの主要部分は、千代田区永田町にあった旧鍋島侯爵本邸の和館を移築したもので、詰め所や台所なを増築して、別邸として整備したものです。
多摩川を望む高台に経つ大規模な和風建築で、広がりのある調和の取れた外観をしています。内部も基本的に和風ですが、客間など一部に洋風の意匠を取り入れた造りとなっています。質が高く、歴史上・芸術上の価値が高いものです。
別邸とはほぼ同時期に建設された正門と、移築前実測具等の建築関係図面は、建築当初の状況を示す重要な資料であることから、附指定としました。」な~るほど!
説明板を読んでいたら、調度時刻となりました。案内人も登場です。
そうなの。この建物は自由見学ではありませんでした。ツアー形式です。
う”…。
ツアー形式は、写真とりつつ説明を聞いてメモも取らねばならんのでヤバいんだよ~。何がヤバいって、やりたい事を全部やるには時間が足りないの~~。
あ。ツアー始まっちゃった!せめて案内人のそばで声を聞かないとメモすら取れないよ~~。
 
歩きながら撮影する。説明もあったんだけど…。メモ撮れなかった…。歩くスピードが早いかも~?

案内人さんは、ツアー説明に携わり6年目の年配の先生でした。
「今グラウンドの所はかつて素晴らしい日本庭園がありましてね。私の子ども等はここで遊んで大きくなったんですよ~」
ン。その情報はいらないや。
でも無駄話の間はシャッターチャンスなのだ。
撮るべし!

撮るべし!

撮るべし~~っ!!!

「こちらをごらん下さい」
いかん。先生が自分話を終えてしまった~~!!

「こちらの杭で雨戸を90度回転させる仕組みになってます」
ああっ!。それ、昔々、どっかで見た事あるぞっ!確かにこういうので雨戸を回転させてたわ~~。

せっかくなので、90度ターン雨戸をさせる上部の画像もおさえておいた!
ってな事で、画像が一杯あるので明日に続きます。
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海雲寺さんがゴール

2014年02月01日 05時25分22秒 | 神社・仏閣
旧品川宿文化財ウォークラリーはチェックポイントが7つあります。その最後のポイントが海雲寺さんなのです。
あれ?
来い来い?また~??
今度呼ばれたのがおじさん。しかも何か荷物が多い??
「あ~、文化財ウォークの参加者さん?」
「あ。はいそうですが」
「あ~、これ完歩の記念品。選んでくれる?」
そんなんあったんや!!知らんかった~。
とりどりのカードケースから、オレンジ色を選択しました。
「あとこちら、区の文化財の絵はがきセットね」
「あ。ありがとうございます~」
「あ~。これで最後かな?」
うっ!!
品川神社さんの後で迷子になってた時間ロスが最後まで響いちゃったぜ~。
や。そもそもの海雲寺さんのラリーの受付時刻は14時半から16時なので、15時23分に到着した私らはビリであっても時間外到着ではありません。ありませんが、当日は天候が悪かったのだ。旧品川宿文化財ウォークラリーの前に新宿御苑に立ち寄ったのですが、そこでパラパラと雨が降って来ましてね。売店でビニール傘を購入。傘を片手にラリー参加したのです。だから参加者が降り出す前に~~と。足早にチェックポイントを通過したのではないかと…。
いいの!文化財を楽しんでなんぼのラリーじゃ!!
さて。気を取り直し、海雲寺さんへ。

ン?また来い来い??
何かしら~??

「こちらは平蔵地蔵と呼ばれています。平蔵は鈴が森刑場の番人で、二人の仲間と交代で乞食をしていたが、1860年頃のある日大金が入った財布を拾い、正直に持ち主の仙台藩士に届けたところ、仲間の乞食に仲間外れにされ凍死したため、藩士が平蔵を悼んで建てたものである。
当初青物横丁にあったが、1900年(明治33)10月京急本線建設に伴い移されました。」
う~む…。このお話から学ぶものは、「正直ものはバカを見る」って事か?違うか??
さて。まづはお詣り。

あれ?何やらお堂に結構な人影が…。

上がってみた。
コピーによりますと海雲寺さんは「鎌倉の建長寺を開いた大覚禅師の弟子、不山和尚によって、建長3年(1251)に開かれました。初めは庵瑞林といい海晏寺境内にあって臨済宗でした。
慶長元年(1596)に、海晏寺5世の分外祖耕和尚を開山として曹洞宗に改められ、独立の寺となりました。山門を入った正面の右側が本堂で、本尊の十一面観音が祀られています。江戸時代から、「品川の荒神様」として親しまれてきました。荒神様は火と水の神、また台所の神とされています。毎年3月11月の27・28日にs千体荒神祭が行われます。<コピーより>
お堂の中にもガイドさんの姿が。
「お堂の中には多数の扁額が奉納されています」
「あれ?綺麗な色の…ニワトリですか??」
「そうです。額には雌雄二鶏図が多く描かれています、鶏は荒神様のお使いといわれています」
「そうなんだ~」
「最も古い扁額は、安政3年(1856)のものです。特に文久元年(1861)奉納の雌雄二鶏図は、板ガラスの裏から描いた絵を、表からみる『ガラス絵』という技法で描かれています」
千体荒神堂奉納扁額(品川区指定文化財)は撮影出来ませんでしたが、とっても美しく、とても150年も前に描かれたものと思えません。
さて。ここがウォークラリーのゴール。後は帰るだけですが、名残惜しい~。他にみるべきものは残ってないか?と境内をうろついてみた。
役の行者像。

筆塚日本帝国議会原始碑

ああ~ん?鈴本亭・末廣亭見覚えのある名前が??
何コレ??
コピーによりますと、「旧石塀 旧石塀は大正6年(1917)に寄進を募って造られました。石塀に積み上げられた石の一つ一つに寄進者の人名や屋号が彫られています。特に噺家など芸人の名前が多くみられます。

平成3年に道路整備工事のため、取り壊されましたが、その一部が保存されています。」
へえ~ほ~ふ~ん。素敵なのに。残しておけば良かったのに~~。
さて、帰るか~。
最後に海雲寺さんの山門を眺めます。

これ、雰囲気あるなあ…。



帰りは海雲寺さんの西にある細い道を奥へ。まさかこんな所に??という場所に階段があり、上がると京急青物横丁駅でした。
これで旧品川宿文化財ウォークラリーはおしまいです。
始めて品川区主催というようなどこかが主催の歴史ウォーキングに参加しましたが、とっても楽しかったです。こうね。歴史を肉付けしてくれる資料が説明ガイドさん、歴史上の有名人所縁の品などを直接目に出来るのは肉付けの上に豪華に飾り立てて見せてくれるようで。とっても楽しくウォーキング出来ました。次、どっかでこのようなウォークラリーがあれば、せひとも参加したいです。
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