備 忘 録"

 何年か前の新聞記事 070110 など

履歴稿 北海道似湾編  私の弟と烏 6の3

2024-12-25 20:24:03 | 履歴稿
DCP_0188
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の3
 
 私の母は、胃弱と言う持病があったので、いつも薬湯に親しんで居た人であったから、過激な労働は出来ない人であった。従って、住宅の付近にある家庭菜園を耕作するのが精一杯であったのだから、小出さんからの借地は、主として私が耕作をしなければならなかった。
 
 私の家では、借地の畑を小出さんの畑と呼んで居たが、私は学校から帰ると、早速その小出さんの畑へ鍬・鎌・鉈等の器具を持って第一日の火曜から土曜日までの五日間を、種を蒔くための整地に通った。
 
 私の整地作業第一日は、開墾をする時に伐採をした柴木や掘り起した木の根株、それに切り払った枝木を、人力ではとても掘り起せないので、其の儘に残してある巨木の根株を芯にして、その周囲に積重ねてあったものを焼きつくすことであった。
 
 芯になって燃やされる切株は、その直径が六、七十糎程あった物が五箇所に選ばれて居た。
 
 私は、枯草を狩集めて積累ねてある柴木や木の根の隙間へ風上の方から詰込んで、次々と五箇所を廻って火をつけた。
 
 
 
DCP_0160
 
 その日の風は微風ではあったが、柴木を始め木その物が乾燥しきって居たので、火は忽ち勢い良く燃え広がって真紅の炎が高々と五箇所の切株から揚がった。
 
 「よしっ、これならうまく燃えるぞ。」と、熾んに火の手を揚げる五箇所の火を次々と見廻った私は、その日の黄昏時まで笹の根を深く堀返してある新地の土塊を畑地の南端から、鍬を振るって砕き耕したのだが、その面積は、僅か二十坪程のものにしか過ぎなかった。
 
 私はその翌日も、学校から帰ると早速小出さんの畑に出かけたのであったが、昨日燃やした五箇所の火は既に燃えつきて居た、併し、柴木や木の根の類が未だ炭火のように赫赫として居た。そして芯にされた切株はその外側が黒く焦げてブスブスと燻って居た。
 
 私は昨日に引続いて、矢張黄昏時までの時間を懸命に土塊砕きをやったのであったが、昨日の経験が要領に馴れさせたので、その日は、約半反歩程の成果をあげることが出来た。
 
 明けて、木曜日の第三日目には、火は全く消えて、黒く燻んだ切株の周囲を柴木類の灰が、白く取り巻いて居た。
 
 
 
DCP_0192
 
 その日の土塊砕きは、二日間の熟練が能率をあげて、翌四日目には全部完了と言う素晴しい成績であった。
 
 五日目の土曜日には、昨日までに砕いた土を均して馬鈴薯を蒔く部分の畝筋を切った。
 
 ”私の弟と烏”それは、六日目の日曜日のことであったが、次弟の義憲がこの小出さんの畑で二羽の烏と、珍無類の滑稽を演じたことであった。
 
 その日の朝私が、叺に入れた半俵程の種馬鈴薯を背負って、鍬を持とうとした時に母が、「今日はお天気も良いし家にはお父さんが居るのだから、お母さんも手伝ってあげる。その鍬はお母さんが持って行くから置いて行きなさい。」と言ってくれたので、私はその鍬を残して途中では、三度ほど休んだが、三十分程で小出さんの畑に行き着いた。
 
 畑に行き着いた私が、畑の中央部に在った直径が一米程もある楢の巨木の切株に、種馬鈴薯の叺を卸してホッとした時に、「義章、重かったじゃろうなぁ。」と二丁の鍬を肩にした母が、弟を伴って畑に来着いた。
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

履歴稿 北海道似湾編  私の弟と烏 6の2

2024-12-25 19:48:11 | 履歴稿
DCP_0153
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編 
 私の弟と烏 6の2 
 
 当時、似湾村としての一般的な食生活は、米と麦或は稲黍・粟・稗・馬鈴薯・南瓜等を混合したものが主食であって、馬鈴薯・生唐黍・南瓜の類は、その季節ともなれば塩煮にして、一食は必ず食したものであった。
 
 私の家もこの二種類混合の主食と、代用食の馬鈴薯・生唐黍・南瓜等の塩煮を食べて生活をした家庭であったが、住宅の周辺に割当られた家庭菜園の収穫だけでは補い得なかったので、他に二反歩の借地をすることになった。
 
 借地は、私達の住んで居た吏員住宅から道路(私は鵡川から生べつそして似湾へ移住をするまでも、それから以後も自分達が歩いたこの道を、本稿では今まで道路と書いて居るが、胆振の国の鵡川から十勝の国へ抜けて居る道であったから、或いは当時の国道と称するものであったやも知れんと思うので、爾後は此の道路を国道と書くことにする)をT字路から左へ曲って一粁程を行った所の左側に、その家の造作はあまり立派では無かったが、当時の似湾村としては、家構えの広い小出さんと言う人の土地であって、前年開墾したばかりの新地であった。
 
 
 
DCP_0154
 
 現在では、苫小牧の王子製紙山林部は冬期間に鵡川川の上流地域に在る、会社の所有林から造材をした原料丸太を、柳芽が告げる北海道の春の水に乗せて国鉄富内線の穂別駅までを流送搬出をして、其処から鉄道輸送をして居るのであるが、当時は、太平洋へ注ぐ川口の在る鵡川村の本村までを、流送することによって搬出をして、其処から専用線であった軽便鉄道によって苫小牧まで運んだものであった。
 
 従って、上流地域から川口までの要所要所に、流送の作業をする人夫の宿泊所が必要であった。
 
 併し、その流送搬出は、六十日程度の短期間であったので、その流送作業の過程に於て、終点の鵡川までの途中に於て似湾村が一泊をする地点であったのだが、数隊に分れたその流送人夫の人達が一日間隔で川を原木と共に下って来て似湾に一泊をするのであった。
 
 併し、そうした人達の人数が、時としては百人に近い人数となることもあるので、一般の旅館営業をして居る人達としては、そうした季節的な多人数を収容する設備は、とても出来なかったので、小出さんのような大きな構をした家を借りて居たようであった。
 
 
 
DCP_0170
 
 私の家で借りた畑は、その小出さんの家から更に北へ百米程行った所に幅が二米程の小沢があって、その小沢の土橋を渡ると左へ曲る小路があった。
 
 小沢の流れは、この小路に添って十米程行った所から左へ曲って居て、私達の借地の畑はその右側に在った。
 
 畑は昨年開墾したばかりの処女地であったので、その直径が五十糎程の物から八十糎程もある樹木の切株が、此処や彼処に十数本点在して居て、切り倒して枝を払った直径六十糎内外と言う桂の丸太が、其処此処に集積されてあった。
 
 私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越たので、兄は郵便局へ遠くなったのだが、私は学校の授業が終わった足をその儘郵便局へ立寄って、開函用の鍵と鞄を持って帰えることを許されたので、翌朝の八時に開函した郵便函の郵便物を局に引継いで登校をすれば良かったので、寧ろ都合が良くなった。
 
 併し、日曜日と祭日には、引継を了えた空鞄を持って帰らなければならなかったので、以前とは反対の行程ではあったが、市街地と下似湾間を、矢張り往復をしなければならなかった。
 
 またその頃は、勤務の馴れた兄が、一人で配達をして午后の五時頃には毎日帰って来て居たので、私の手伝はもう必要が無くなって居た。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする