晴天の下にあるべきはずの天守はなく、
堅固な構えの天守台のみが残された弘前城。
最北の現存天守はいずこに??
二の丸と本丸を隔てる内濠には、かりそめの通路が設置されています。
そうです・・・この旅日記おなじみの工事です。
弘前城本丸の石垣に
その影響は孕みの部分から少し離れた天守にも現れ、傾きが微妙に出てきてしまったとか。
こうなっては石垣だけでなく、天守も根本的に工事するしかないそうです。
しかし弘前城の天守は、我が国に12基しかない江戸時代からの現存天守。そうそう安易にぶっ壊すわけにはいきません。
そこで天守を地面から切り離してそのまま動かす
本丸からは有料区域で、入城時刻にも制限があります。
そのため八戸の根城の登城をほどほどに済ませたのですが・・・
この時期はどうも青海に揺らぐ「幻想天守」なるイベントが午後9時まで開催されていたようです。
だったらそんなに急いで来なくてもよかったのですね・・・。
ともかく入城料は大人310円、通常の入城時刻は午前9時から午後5時です。
とりあえず本丸に入りましょうか。
本丸への入口。
これまで通ってきた城門のように土塁による枡形ではなく、本丸の入口は石垣の枡形です。
おや・・・石垣の背後に見えるのはもしや・・・?
本丸外郭の石垣。
カドの部分に使われている巨石は「亀石」と呼ばれています。
「亀石」だけに限らず、なかなかの巨石がふんだんに用いられています。
画像奥に見えるシダレザクラは「御滝桜」と呼ばれ、天守の脇を彩る見事な桜だそうです。
晴天、石垣、シダレザクラ、そして移動した天守【国指定重要文化財】。
この光景が見られるのは、工事期間中の約10年間だけだそうです。
期間限定・・・そう考えれば、工事中の登城というのも悪くない・・・かな。
本丸に入りました。
晴天の下、天守台では修復事業が行われています。
その間天守は、
本丸の真ん中に鎮座しています。
津軽の秀峰・岩木山とともに見える箇所に、建物の向きも変えて移動したそうです。
仮天守台に鎮座する天守、また良し!
弘前城は、弘前藩の藩祖・津軽為信が築城を計画したものを、その嫡男で2代藩主・
信枚は慶長14年(1609年)、為信の死で中断していた築城を再開すると、1年でほぼ完成させてしまいます。
もとは鷹岡の地にあったので、「鷹岡城」と呼ばれていました。
その天守は5層6階という豪勢なもの、領地の石高4万7千石には破格ともいうべきものでした。
これは津軽が北辺警護の要所であったため、また藩主・信枚が「黒衣の宰相」の異名を持つ天海僧正を仏門の師としており、そのつてで幕府が特別に許可したともいいます。
しかし寛永4年(1627年)落雷による火災で天守、御殿などが焼失してしまいます。
この後約200年ほど天守のない時代が続きます。
この災害に際し、藩主・信枚は、その師・天海僧正に相談しました。
すると天海僧正は地名の変更を提案、もとはその地名から「鷹岡城」という名でしたが、これを「弘前」と改めました。
文化7年(1810年)9代藩主・津軽
翌年天守は完成し、これが現存しています。
明治になり廃城、御殿などが取壊しとなりましたが、明治28年(1895年)弘前公園として一般に開放され、現在に至っています。
弘前城天守を別角度から。
天守の足下を注意深く見ると、
青くか弱い光が見えます。
これがどうやらイルミネーションイベントの青色LEDのようです。
天守をぐるりとひと回りし、
天守の入口へ。
中に入ると、今回の工事に関する資料パネルが掲示してありました。
「平成の本丸石垣修理」
昭和58年に起こった日本海中部地震後、本丸東面石垣の定点観測を開始。
平成16年度に石垣修理計画を策定し、平成19年度から石垣修理事業の基礎調査に着手。
その結果、東面の石垣が、内濠側に約1m孕む(膨らむ)と共に、天守が北東隅で約30cm沈下し、全体的に傾斜していることが判明し、石垣の積み直し修理に着手しました。
これに伴い、その上にそびえ立っていた天守の移動(曳屋 ひきや)が必要になったものです。
(原文ママ)
「重要文化財 弘前城天守曳屋工事」のパネル。
曳屋工事の過程を年表形式で表示しています。
これによると、天守の移動にかかった作業日数は、休日を除くと70日。
まず初日に、天守を地面から切り離す地切りの作業。
そして移動のために、天守を40cmジャッキアップ(持ち上げる)のに9日間もかかっています。
おそらく工事に携わった人々にとっては経験のない工事、最初の持ち上げがいかに緊張の連続であったかが数字にも表れているようにみえます。
あとの1次移動、ジャッキダウン(持ち下ろし)、回転移動などにはさほどの日数がかかっていません。
これらの工事の末に、現在は仮天守台に着座しています。
1層目には土産物の売店があり、100名城のスタンプもここのおねいさんが預かっています。
4番、弘前城!
絵柄はもちろん、移動前の天守です。
スタンプを回収したところで、天守を上ります。
櫓の必須設備というべき石落し。
天守内の階段。
平安な時代に築かれたせいなのか、戦国期の天守に比べると階段はあまり急ではありません。
天守からの眺め、その壱。
弘前公園は桜が多いですねぇ。我が国有数の桜の名所というのも納得です。
なお天守の屋根は銅葺き。雪に強いものとなっています。
天守からの眺め、その弐。
本丸と西の郭を隔てる蓮池には、ハスの葉でぎっしり。
天守からの眺め、その参。
「お岩木山」に雲がかかってきましたね。
天守から出ました。
本丸南西部、本丸
かつてはここに5層6階の天守がそびえていましたが、焼失。
その後は隅櫓が建っていました。
本丸北西部、本丸
現在はあずまやが建っていますが、ここにも隅櫓があったそうです。
ここの櫓からは、隣接する北の郭への連絡通路があったといいます。
本丸を出ました。
鷹丘橋を渡り、北の郭に入りました。
北の郭には、兵糧を保管していた籾蔵跡とともに、弘前城の守り神を祀っていた館神跡があります。
館神にはごく限られた者しか立ち入ることができなかったそうです。
それもそのはず、ここで祀っていたのは幕府にとっては敵にあたる豊臣秀吉の木像だったのです。
弘前藩の藩祖・大浦(津軽)為信は、のちに盛岡藩の藩祖となる南部信直に反旗を翻し独立、津軽地方を切り取って領地としました。
そして天下統一を進めていた豊臣秀吉に、その腹心・石田三成を通じて謁見。
南部家に先んじて津軽地方の本領を安堵され、これにより大浦家は南部家とは独立した大名と認められたのです。
そのことを恩義に感じた大浦家(のち津軽家)は、幕府に睨まれることを承知の上で、秀吉の木像を祀っていたそうです
現在北の郭に遺構はなく、武徳殿休憩所があるだけです。
中は案内所、喫茶店、売店が備わっています。
ここで絵はがきと、本日のお夜食を購入し、
本丸・北の郭の有料ゾーンを後にしました。