弘前公園の有料ゾーンである本丸と北の郭を出ました。
西の郭へと通じる道。
「桜のトンネル」とも呼ばれ、左右に桜並木が続きます。
さすがは日本有数の桜の名所。
「桜のトンネル」と城外を結ぶ春陽橋。
春陽橋のかかる西濠です。
橋から南側を眺めてみると、左側(城内側)の「桜のトンネル」だけでなく、右側(城外)にも桜並木が続いています。
春陽橋から城内に引き返して、次は北の郭のさらに北の郭、四の丸へ。
四の丸の半分は、青森県護国神社の境内になっています。
この鳥居も護国神社の鳥居なのですが、どうも立ち位置がよろしくなかったようです。
鳥居の正面に植栽が植わっていて、あまりくぐろうという気が起きない、そんな鳥居です。
しかし足元をよく見ると、小径ができています。
この鳥居をなんとしてもくぐろうという、私のような人が少なからずいるようですね。
こちらの鳥居は表側の鳥居。
先ほどの鳥居は、裏側の参道に立っているもの。
私は裏側から境内に入りました。
護国神社の本殿(拝殿)へ。
いつもどおり、明日のお天気と、大事な方のご加護を祈願します。
(神道では「ご加護」って言うのかな?)
表参道の鳥居から、境内を出ました。
鳥居の向こうから燦々と輝く日輪。
明日もその輝きを見せてほしいものです。
護国神社の鳥居からは、南北への分かれ道が伸びています。
まずはその北の道をたどると、
北門(北の郭北門)【国指定重要文化財】が構えています。
北門の外側。
というわけでこの門は、弘前城で現存する最古の城門だそうです。
この門だけは三角形、四角形の矢狭間、鉄砲狭間がついていません。
弘前城を築城した津軽信枚は、先代・為信が着手して中断していた事業を1年ほどで完成にもっていきました。
急ピッチでこしらえた弘前城は、建物に近隣の廃城のものを移築させて用いるこ
とも多く、この北門もそのひとつで、大光寺城の城門を移築したものです。
城門に残る矢じりの痕。
大光寺城は南部氏との戦いや、為信死後のお家騒動でも戦闘を経験しています。
弘前城は戦闘に巻き込まれたことはないので、現存する遺構で戦闘経験があるのはこの門だけ。
また当時は北側が表口で、この門は「追手門」でした。
北門から引き返して、こんどは南方向へ歩きます。
土塁のみで形成された枡形。
ここは
賀田門の先は三の丸です。
三の丸に入るとすぐ目の前、
お濠の向こうに二の丸
賀田門跡から続く土橋で、二の丸へ。
二の丸丑寅櫓を別角度から望みます。
丑寅櫓付近は児童公園になっています。
花壇越しの丑寅櫓・・・イマイチ?
二の丸と、本丸や北の郭を隔てる内濠沿いを歩きます。
お濠の向かいは北の郭で、土塁の下がわずかに石垣が造成してある腰巻石垣になっています。
お濠沿いを進んでいくと、お濠の対面は本丸になります。
郭の側面は腰巻石垣から総石垣になります。
この石垣の修復のため、天守が移動しているのです。
内濠から離れます。
城門の目の前に建っている建物は、二の丸東門与力番所【現存】。
中にある梁の墨書きから、江戸時代中期のものと推定されています。
明治に入りいったん曳家で城外に移築され、昭和54年に再び城内に戻されたそうです。
番所が守護した二の丸東門(東内門)【国指定重要文化財】。
外に出ます。
門の外にある中濠。
中濠にかかる東内門外橋という、ちょっとわけがわからなくなりそうな橋を渡って、ふたたび三の丸へ。
この東内門外橋は、弘前城唯一の石橋なのだそうです。
そして、
弘前城の東を守る三の丸東門【国指定重要文化財】をくぐり、
弘前公園の外へ出ました。
これにて弘前城の登城は終了です。
三の丸東門の向かいにある弘前文化センターにて。
近くにある弘前中央高校の演劇部と思われるJKが、台詞回しの練習をしていました。
私は無言の圧力でこやつらをどかし・・・
津軽為信公像をしばし仰ぎ見ます。
津軽為信の出自はよくわかっていないのですが、大浦氏の出とも、久慈氏の出ともいいます。
双方とも、北東北を支配した南部氏の一族で、その宗家当主南部晴政を盟主とする連合体の一員でした。
永禄10年(1567年)ごろ、大浦為則の養子となって、津軽の大浦城主となりました。
元亀2年(1571年)晴政の叔父・石川高信を、大浦城から距離もない石川城に攻め、自害に追い込みます。
これより為信は南部宗家に反旗を翻し、津軽地方を攻略していきました。
(異説では、晴政と、その娘婿で石川高信の子・信直が後継をめぐる対立が先鋭化し、晴政が為信に対し石川城攻めを指示したともいいます)
その後南部晴政は死去。その嫡男であった晴継も直後に謎の死を遂げ、南部宗家はくだんの信直が当主となりました。
信直にとって為信は父の仇、津軽に攻め入ろうとしますが、後継を争った九戸氏の警戒のため積極的に動けませんでした。
こういった南部家の内紛を尻目に、為信は容易に勢力を拡大していきました。
中央で豊臣秀吉が台頭すると、天正17年(1589年)の小田原征伐に参陣し、本領安堵を勝ち得ました。
このときに窓口を担当したのが石田三成です。
その後で南部信直が小田原に参陣、為信の所業を訴えたため一時は討伐の対象になりかけますが、このときも石田三成らが取り成し、為信は大名と認められたのでした。
豊臣政権下に、姓を「大浦」から「津軽」に改めました。
秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、三男の信枚とともに東軍につきましたが、嫡男の信建は大坂城に控えていました。
これは真田氏のように一族を東西両軍に分け、どちらが勝っても津軽家が生き残るように画策したといいます。
戦後、居城を鷹岡(のちの弘前城)に移すべく築城を始めますが、工事は進まないまま、慶長12年(1607年)京都で病死しました。
嫡男の信建の死を看取ってから2か月後の死でした。
津軽家の家督は、お家騒動の後に三男の信枚が継ぎました。
為信は立派なひげをたくわえており、肖像画にもその様子が描かれています。
三国志の武将・関羽に憧れていたといいます。
これにて本当に弘前城の登城、了。