鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

ハイソフト「日本の名城」6城目

2017-01-11 | 日記


2 0 1 7 年 1 月 4 日 ( 水 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



仕事始めのこの日は、もう1枚カードをゲットしました。



この城は見覚えがあります。
右上の櫓に立っているのぼりは、まぎれもなく真田の六文銭、ということは・・・

No.6 上田城!

天守閣を中心にチョイスしてきた「日本の名城」、ここに来て城門の写真です。
おそらくは某ドラマ「真田●」に影響されてのことでしょうか?


上田城は天正11年(1583年)に真田昌幸によって築城されました。
その2年後、上田城一帯に徳川家康の家臣・鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らの軍勢約7,800が攻め込んできました。
昌幸と嫡男・信幸(信之)らの軍勢2,000は、地の利を活かした戦法で徳川軍を翻弄、大きな損害を与え撃退しました。(第1次上田合戦
その15年後の関ヶ原の戦いが起こると、昌幸と次男・信繁(幸村)は西軍に、嫡男・信幸は東軍につきました。
そのため上田は、再度徳川軍の攻撃を受けます。
今度は徳川秀忠を総大将とする38,000、対する真田は3,000程度。
徳川軍は再び真田の軍略の前に大敗北を喫し、秀忠は上田城攻めを諦めることとなりました。(第2次上田合戦



そしてこのカードの城門や櫓は、この徳川との激戦を物語るもの・・・ではないのです。


上田合戦では敗北を喫した徳川勢も、関ヶ原の戦いでは大勝。
真田昌幸・信繁父子は九度山(和歌山県)へ追放となり、信之がその所領を継承しました。
しかし徳川にとってのトラウマ・上田城は徹底的に破壊されることとなりました。

幕府が創建され、2代将軍秀忠は、信之を松代(長野県)へ移封。
その後上田に入ったのは、隣地・小諸城主の仙石忠政でした。
忠政は幕府の許可を得て上田城を築城し、これが現在に残る上田城です。



カードの城門・東虎口櫓門は現代にて再建されたものですが、右に見切れている北櫓【長野県宝】は仙石時代のものが現存しています。

そして右側の立ち看板がある辺りの石垣で、ひときわ大きい石。
これは通称「真田石」と呼ばれています。


徳川秀忠は上田合戦で惨敗を喫して以来、真田を快く思っていませんでした。
そこで秀忠は、信之を松代へと移封させました。
ゆかりある上田の地を離れることとなった信之は憤慨し、上田城の植栽やら石垣の石やらをすべで松代へ持って行ってやろうとしました。
しかしこの「真田石」だけは巨石ゆえに、松代へと運ぶことはできなかったといいます。



このような伝説がありますが、信之時代には上田城は破却されていたので、単なる伝承にすぎません。
ちなみに松代は松平一族などが領主となった要衝の地なので、秀忠は信之を評価して移転をさせたといえます。



この日は新しいカードを2枚ゲットでき、幸先の良い新年を迎えたといっていいでしょう。

 

じつは仕事納めの12月28日、ハイソフトを2回買って、2回ともダブリを引いたんですけどね。
だから麻雀大会の成績が悪かったのかな?

ともかく明日もおやつはハイソフトです。





ハイソフト「日本の名城」5枚目

2017-01-11 | 日記


2 0 1 7 年 1 月 4 日 ( 水 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



年明け2017年の仕事始め。
今年最初の森永ハイソフトキャラメルをおやつにいただきます。


さて本日の名城カードは・・・



????? ここは何城だ???? 見たことがあるようなないような???

桜に彩られた天守閣・・・丸亀城? いや違う。
弘前城とは瓦の色が違うし・・・彦根城のように破風は多くない・・・
見たことはないけど越後高田城かな・・・桜で有名だし・・・。
会津若松城でもないし、小田原城でもなさそう・・・。

わからないので裏を見たところ・・・

No.4 小田原城!

ああ!言われてみればそうだ!!
天守の脇っちょ(続櫓のことです)から中に入った記憶があります。


小田原城は最初大森氏の本拠地でしたが、15世紀末から16世紀初頭のあいだに北条早雲が奪い取り、以後北条氏5代の本拠地となりました。
3代目氏康の代に大幅に増築され、「難攻不落の巨城」になっていきます。
氏康の好敵手・上杉謙信武田信玄も小田原城を包囲しましたが、攻め落とすことはできませんでした。
(もっともこの2人は、10日程度包囲しただけで撤兵する「示威行為」をしただけともいいます)
北条氏が5代にわたって居を構えた小田原城は、城下町を城壁の中に置く「総構え」を形成していきましたが、北条氏の手から離れるときは来ました。
豊臣秀吉小田原征伐で、小田原城は3ヶ月ものあいだ包囲され、秀吉は北条氏の城郭を各個撃破、さらに小田原のすぐそばに石垣山城を築城するなど、持久戦の構えを見せます。
この状況で、当主・北条氏直は降伏、大名としての北条氏は滅亡しました。

小田原征伐後、関東は徳川家康に与えられました。
家康は小田原城を腹心の大久保忠世に預け、忠世死後は嫡男・忠隣(ただちか)が継ぎます。
江戸幕府が成立した後、忠隣は家康の不興を買ってしまい、領地を没収されますが、大久保氏はのちに返り咲き、明治維新まで江戸の西の守りを任されました。



私が小田原城を登城したのは、残暑厳しい9月の曇天の日。
桜に彩られた天守閣、というイメージはありませんでした。

その天守閣は、江戸時代の初めに建てられるものの倒壊。
現在の天守は、戦後に鉄筋コンクリート造りで建てられた復興天守です。



16名城の制覇まではあと11城、今年もおやつはハイソフトです。





第69回鬼ヅモ同好会麻雀大会・最終日

2017-01-11 | 鬼ヅモ同好会


2 0 1 6 年 1 2 月 3 1 日 ( 土 )

午 後 7 時 0 0 分

第 6 9 回 大 会 ・ 最 終 日



年越しそばを賞味し、麻雀を再開。
この日は最終日ということもあり、食後の試合数は10と定めました。

※参考 鬼ヅモ同好会麻雀規約第86条第1項
最終日に参加できる参加者(以下、「最終参加者」という。)は、あらかじめ、最終日の行程として、競技の回数及びその競技における競技者を定めるものとする。この場合においては、すべての最終参加者にとって平等になるように定めなければならない。

麻雀再開時のスコア・・・




ご覧のとおり、よね氏のひとり勝ちという状況。
そして私のひとり負けという状況。
初日に4試合だけ行ったご~氏のスコアが、「債務者」3人にとっては高く立ちはだかっています。

しかし帰宅後のよね氏の様子がおかしい・・・・・・?



第16試合。そば後最初の試合。
ここでたか氏が痛恨のチョンボ
たか氏は出鼻をくじかれてしまい、上昇気流に乗ることはできませんでした。


上昇気流に乗れないのは、会長も、私も同じ。ということは・・・
またしてもよね氏。
そば後の試合は2位、3位、トップ、トップ、2位と、この日も手堅くポイントを高めていきます。

しかしながらよね氏、己の体温まで高めてしまい、体温が37度8分まで上昇。

残りの3人、前日はほろ酔い気味の男ひとりに歯が立たなかったのですが、
この日は病人に対して3人がかりでも倒せないという状況。


第21試合、そば後の6試合目。



純全帯ヤオ・三色同順・一盃口・門前清自摸和了。
私の今大会唯一のきれいな和了、と同時にご~氏に食らったしょっぱな純全三色の汚名返上
ふぅぅ、これですっきりと横浜を去ることができる・・・。



第23試合、そば後の8試合目が終了。
この間に日本時間では年が明け、平成29年になっていました。
残るは2試合・・・ですが、よね氏の体調が悪化の一途をたどっています。





ここでドクターストップ。
残り2試合を中止、今大会のスコアはこのとおりよね氏が3年ぶり(8大会ぶり)11回目の優勝となりました。おめでとうございます!

※参考 鬼ヅモ同好会麻雀規約第86条第2項
最終日の行程は、最終参加者全員の同意がなければ、変更を加え、又は取り消すことができない。



大会が終わり、よね氏は勝利の美酒を味わうことはできずに就寝。
私も元日は予定があったので、早々に就寝。
会長と副会長はまたしても「スプラトゥーン」に執心、と相成りました。



第69回鬼ヅモ同好会麻雀大会顛末記 完

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