週の半ば、水曜日。
当然のごとく行きつけのコンビニで森永ハイソフトを購入します。
11枚目の出た日曜日からわずか3日で、12枚目を引くことに成功しました。
雲海に浮かぶ廃墟のような城址・・・No.13 竹田城!
兵庫県の山の中にあって、某CMで「日本のマチュピチュ」と紹介された城址です。
カードでは、本丸から望む南千畳と呼ばれる曲輪の画角が採用されています。
ハイソフトのパッケージにも採用されている3つの城のひとつでもあります。
竹田城の築城時期は15世紀半ば、1440年代ごろと考えられています。
室町幕府6代将軍。足利
隣国・但馬(兵庫県北部)の守護・山名宗全は幕府の討伐令を受け播磨に出撃、赤松満祐を滅ぼしました。(嘉吉の乱)
このときの播磨への出撃拠点として築城され、山名氏の重臣・太田垣氏が代々城主を務めました。
のち山名宗全は、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱で西軍の総大将を務めています。
また東軍の総大将・細川勝元の支援を受け、赤松氏は播磨で再興を果たしました。
以後、播磨・但馬国境で山名・赤松両氏のにらみ合いが続いていきます。
時代は下り16世紀後半、織田信長が台頭し、天下布武(天下統一)が進んでいきます。
信長は、中国地方の総司令官として羽柴秀吉を播磨に派遣しました。
播磨の守護であった赤松氏は信長に降伏。
山名氏は毛利氏と組んで抵抗したため、竹田城は秀吉の弟・秀長の軍勢に攻められ、落城しました。
城主の太田垣氏はその座を追われ、降伏した赤松家の赤松広秀(のち斎村正広に改名)があらたに城主になりました。
正広のもとで竹田城が改修され、山頂に広がる総石垣の城に生まれ変わりました。
関ヶ原の戦いでは、斎村正広は西軍につきましたが、東軍に寝返ります。
そして西軍方の鳥取城を攻めましたが攻略に手こずり、城下を焼討ちにしてようやく落城させました。
この焼討ちが徳川家康の怒りに触れ、正広は寝返った武将で唯一切腹を命じられてしまいました。
主を失った竹田城は、のちの一国一城令にしたがい廃城になりました。
その後は歴史に取り残されるように、城址がそのまま遺されていったそうです。
そんなミステリアスなところもマチュピチュに似ているのでしょうね。
残るカードはいよいよあと4枚。
おやつはやっぱり森永ハイソフトです。