鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

ハイソフト「日本の名城」15城目

2017-02-18 | 日記


2 0 1 7 年 2 月 1 6 日 ( 木 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



前日に名城中の名城・姫路城を引いた私。
残るカードは2枚という状況で、この日も驚異の引きをやってのけました。



黒壁の天守閣といえば、No.15 岡山城!

カードの絵柄は「烏城」の異名をもつ天守【外観復元】です。
画角はおそらく南東側、そばを流れる旭川の船上から撮影したか、対岸の後楽園から撮影したのでしょうか。
夕刻の「烏城」もなかなかのものですね(*^_^*)


戦国時代、岡山周辺を支配していた金光宗高を、1573年(天正元年)に宇喜多直家が暗殺して勢力を拡大したところから、岡山城の歴史は始まります。
直家は備前の戦国大名浦上宗景の支配下にあった「暗殺のプロ」ともいうべき謀略家でした。
ついには宗景に反旗を翻して勝利、追放し、備前一国を支配する大名にのし上がりました。

そんな折、近畿からは織田信長が中国地方にまで勢力拡大を図ると、直家は中国攻略の総大将・羽柴秀吉に降伏し、その勢力を保つことに成功。
ですが直家は病に倒れ、嫡子秀家の行く末を秀吉に託し、世を去ります。
このとき直家は、自らの妻を秀吉の側室に出したため、秀家は秀吉の一門と同様の扱いを受けました。

その秀家は成長して備前57万4千石の大名となり、直家以来の居城が手狭になったため、あらたな城を築くことを計画します。
天正18年(1590年)から築城が始まりました。
途中の朝鮮出兵で秀家は総大将になったため中断しますが、帰国後に再開し、慶長2年(1597年)ここに岡山城が建ったのでした。

しかし秀吉死後の関ヶ原の戦いで西軍の首脳となった秀家は八丈島へ流されることとなり、代わって備前に入ったのは小早川秀秋です。
秀秋は岡山の城下の開発に精を出しましたが、2年で死去。
世継ぎがいなかったため家名は絶えてしまい、代わって池田家が入り、明治維新まで続きました。

明治に入ると城の建物は多く撤去され、また戦時には空襲のため天守などが戦災にあって焼失してしまいます。
天守は昭和41年に外観復元というかたちで再建され、現在に至っています。



岡山城は1度登城をしております。
岡山城単独というより、対岸にある後楽園からの岡山城天守が素晴らしく見えました。
また岡山城天守と後楽園を隔てる旭川には月見橋という橋がかかっていて、橋上からの岡山城天守も画になるものでした。
カードで採用された画角は、私が見てきたものとは異なる画角。
私の登城旅もまだまだ甘いのかな~とは考えつつも・・・

カードは残り1枚!

残るカードはNo.10。
番号は北東から南西へ順番に付けられているので、No.10の名城は名古屋城(No.9)以西以南、大坂城(No.11)以東以北ということになりそうです。
考えられるのは滋賀県、三重県、京都府、奈良県のどこか。
Google先生の力を借りればたちどころにわかるのでしょうが、最後の名城は自分で引いて確かめたいと思います。

私の予想としては、
 ◎ 二条城(京都、二の丸御殿が国宝となっている)
 ○ 彦根城(滋賀、天守が国宝、ひこにゃんで有名、平成29年の大河ドラマの影響?)
 △ 伊賀上野城(三重、石垣が高く天守もある、100名城)
このあたりでしょうか。



最後のカードを心待ちにしつつ、明日もおやつは森永ハイソフトです。





ハイソフト「日本の名城」14城目

2017-02-18 | 日記


2 0 1 7 年 2 月 1 5 日 ( 水 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



2月15日。
前日はとある方から巨大なチョコレートマフィンをもらったので、いつものハイソフトはお休みしていました。
この日はその余韻にひたることなく当然森永ハイソフトをおやつにいただきます。


2月の中旬、立て続けに新しいカードを引いています。
そしてこの日は・・・



ついに出ました! 名城中の名城・姫路城です!! あ、No.12ですよ。

カードの絵柄は、現存では最大の規模を誇る天守群です。
姫路城の天守は、絵柄中央の大天守【国宝】、右端の東小天守【国宝】、大天守の裏に西小天守【国宝】、東小天守の裏側に乾小天守【国宝】の4基が建っています。
なお「乾(いぬい)」とは十二支の戌(いぬ)亥(い)で、北西の方角を表します。
それらの天守が4棟の渡櫓(イ・ロ・ハ・ニの渡櫓)【国宝】で連結されている構造です。
カードに写っているのはイの渡櫓で、反時計回りにロ・ハ・ニとついているようです。

さらに絵柄にある城門、櫓、さらには城壁まで、これらのほとんどが現存しているものであり、国指定の重要文化財になっているのです。

姫路城は数ある城の中でも別格。
相撲でいうなら横綱ではなく大横綱、谷風双葉山大鵬千代の富士クラスなのです。


姫路城は、播磨守護・赤松則村が正慶2年(1333年)にとりでを築き、その子・貞範が正平元年(1346年)に城を構えたことに始まります。
その後、家臣の小寺氏、黒田氏が守っていました。
小寺氏の家臣であった黒田官兵衛孝高は、主家ともども羽柴秀吉に帰順しました。
秀吉は、姫路城を西国攻略の本拠地とし、天正9年(1581年)に改修、天守を完成させました。

その後、秀吉の弟・秀長、秀吉の一族・木下家定が城主を務め、関ヶ原の戦いの後は池田輝政が入封しました。
輝政は、8年の歳月を費やして改修、拡張し、現在の天守を築きました。

池田氏3代の後は、本多忠政が入封し、長男・忠刻とその室・千姫のために西の丸を整備し、現在の姫路城の姿となりました。
その後、城主は松平氏、榊原氏、酒井氏と変わり、明治維新を迎えました。

平成5年(1993年)12月、姫路城は法隆寺地域の仏教建造物とともに、ユネスコの世界遺産委員会で、わが国で初めて世界文化遺産に登録されました。


(※1346年は南朝方では正平元年、北朝では貞和2年となりますが、赤松氏範は最終的に南朝についたので、南朝の元号を表記しています)


わが国最初の世界遺産ということもあり、



前回のシリーズ「日本の世界遺産」でも採用されていた姫路城。
このカードの画角は南西側からの天守群、おそらくは西の丸から撮影したものでしょうか。
大天守と、中央に西小天守、左端に見切れた乾小天守が写っています。


私は姫路城を2度登城していますが・・・



平成23年(2011年)1月8日の第1回登城では、平成の大修復のまっただ中で、大天守は覆いの中。
当然天守には入れませんでした。
そして第2回登城。

 

平成27年(2015年)3月23日、平成の大修復は完了し、グランドオープン3日前。
真っ白になった大天守は見られたのですが、立入禁止区域が前回よりも広がっていて、あまり中に入れなかったのでした。

こういうこともあり、「日本の名城」カードの画角である東側からの天守群は拝見したことがありません。
姫路城、ここもまた私が再訪しなければならない名城であります。



「日本の名城」カードは残り2枚、明日のおやつも森永ハイソフトです。