鳥取城【国指定史跡】の登城を開始してから1時間20分経過。
二ノ丸脇から続く中坂を進んで20分弱、
ようやく本丸に到達しました。
標高は260メートル。
天球丸が51メートルなので、200メートル以上の山登りを敢行してきたことになります。
いや~、きつかった・・・羽柴秀吉が兵糧攻めを選択した理由もよくわかります。
中坂を見下ろすかのようにそびえ立つ石垣。
「落石注意」という看板があったのでそそくさと通り過ぎましたが、このあたりには月見櫓が建っていました。
本丸にある大きな井戸・車井戸。
鳥取城の籠城戦で大きな役割を果たした・・・と思っていましたが、この井戸が完成したのは関ヶ原の戦後に城主となった池田長吉の時代になってからだそうです。
さて、鳥取城の本丸に着きましたので・・・「城攻め」!
日本100名城・第63番、鳥取城攻略!
国指定史跡・太閤ヶ
もうひとつ、鳥取城の出城であった丸山城も攻略できました。
武将は吉川経家と中村春続を発見し、登用。
二人とも第二次鳥取城攻防戦の関係者ですね・・・中村さんの相方・森下道誉はいないようですが。
鳥取城の築城は16世紀中ごろの天文年間、因幡守護・山名
山名同士の対立は中国地方の二大勢力・大内義隆と尼子晴久の対立が根本にあるとされていて、誠通は隣国の尼子と同盟を、祐豊は大内と同盟を組んでいました。
天文17年(1548年)祐豊軍が因幡を奇襲し、誠通が討ち死にすると、祐豊は弟・豊定とその子豊数を因幡に送り込みました。
永禄5年(1562年)山名家の重臣であり因幡の有力な国人であった武田高信が鳥取城を奪取し、山名家に反旗を翻します。
高信は、中国の覇者・毛利輝元の保護を受けて勢力を拡大していきますが、天正元年(1573年)豊数の弟・豊国と手を組んだ山中幸盛(鹿之介)率いる尼子再興軍によって鳥取城を落とされ、没落してしまいます。
山名豊国は、自らの居城を布施天神山城から鳥取城に移しました。
室町時代は「六分の一殿」といわれるほどに繁栄していた山名ファミリーも、戦国時代になるとこのゴタゴタっぷり。
鳥取城の歴史紹介が、山名のゴタゴタのせいで長文になってしまいますねぇ。
いや、それは私に文章をまとめる能力がないから?!
それはそうと、もう少しだけ山名さんのゴタゴタっぷりを記述しなければなりません。
山名豊国と尼子再興軍の本拠となった鳥取城に、毛利軍の山陰方面の総司令官・吉川元春が攻め込んできました。
これに豊国は抗しきれず降伏しますが、尼子再興軍が再び鳥取城を奪取します。
しかし山名家が中国の覇者・毛利家に対抗できる力はなく、天正3年(1575年)山名豊国は毛利家に従属。
あくまで毛利家と敵対する尼子再興軍は、鳥取を去り織田信長を頼ることになります。
その織田信長が東から勃興してくると、毛利軍はこれに敵対することになります。
天正8年(1580年)羽柴秀吉が軍勢を率いてくると、山名豊国はあっさりとこれに降伏します。
これに対し毛利軍は再び鳥取に来たため、山名さんはこれまたあっさりと降伏。
毛利家から城主が派遣されることとなり、山名さんは城主の座を下ろされてしまいます。
天正9年(1581年)再び羽柴秀吉が鳥取に攻め込んできました。
前の城主の山名さんはここでまたしても秀吉に降伏しようとしますが、家臣の中村春続や森下道誉らによって追放されてしまいます。
中村・森下らは有力武将をあらたに城主に派遣するよう毛利家に依頼し、これに応えた吉川元春は、一族の吉川経家を鳥取城の城主としました。
「日の本にかくれなき名山」からの景色は、その名に恥じませんね。
鳥取市は人口が20万に満たない都市ですが、ここから眼下に広がる市街地を見てみると、鳥取の街も大きいなぁ~と感じてしまいます。
こちらは南東方向。
あの山の向こうに、次の目的地・若桜鬼ヶ城があるのですが・・・さすがにここからは見えませんね。
本丸の西の端にある天守台。
元禄5年(1692年)落雷によって焼失するまで、ここには天守が建っていました。
宮部継潤によって建てられた天守は3階建てでしたが、池田長吉によって2階建てに建て替えられたのだそうです。
江戸時代の絵図には茶色の屋根で描かれていることから、
天守台からの眺め・・・
朝まで立っていた鳥取砂丘。
砂地の周りを、緑の森が完全に包囲しているかのよう。
鳥取を潤す千代川の河口。
河口西岸には鳥取港も見えますね。
西側の眺め。
千代川の両岸に市街地が広がっています。
向こうに見える湖は湖山池で、日本最大の「池」だそうです。
山上ノ丸の東側にも足を運びます。
こちらは山上ノ丸二ノ丸。
眺めのよい本丸とは違って木々が雑然と生い茂り、人の出入りもほとんどなさそうです。
さらに下の曲輪に続いていく道ですが・・・ここだけ見たらなるほど、クマさんも出そうな雰囲気。
ここから先は立ち入らずに、本丸に戻ります。
本丸から東を眺めると、羽柴秀吉が本陣を構えたという太閤ヶ平が見えます。
天正9年(1581年)の鳥取城攻防戦。
羽柴秀吉率いる2万の軍勢に対し、鳥取城は吉川経家率いる2千。
「日の本にかくれなき名山」に築かれた名城を、羽柴軍は力攻めできないでいました。
秀吉の軍師・黒田
鳥取で売られている食糧を高値で買い取る。
鳥取城をとりまく陸路や海路すべてを封鎖。
鳥取の領民に兵を向けて城内へ追いやり、早期に穀を潰させる。
これに対し毛利家の吉川元春は兵糧を運び入れようと軍勢を動かしますが、伯耆国(鳥取県西部)の南条元続が織田方に鞍替えしてしまったために、兵糧を鳥取に持ち込めずにいました。
兵糧攻めを始めて1ヶ月ほどで、城内は飢餓に陥りました。
あたりに生えている木や草、普段は食用としないカエルやネズミなどの動物すらも食べ尽くしてしまい、餓死者が続出。
食糧を求めて城外へ出た者は、羽柴軍の銃撃にあってことごとく討ち果たされます。
すると城兵はその死体に群がり、人肉を食べていく・・・・・・。
城主の吉川経家も4ヶ月ほどの籠城に耐えてきましたが、凄惨な場面に心を痛め開城を決心したといいます。
経家と旧山名家臣の中村春続・森下道誉は、城兵の助命と引き換えに切腹。
後世「鳥取の
下山する前に、もう一度石垣を仰ぎ見ます。
これらの石垣は「鳥取の渇殺し」後に構えられたものです。
羽柴秀吉は、攻め取った鳥取城を宮部継潤に与えました。
継潤は鳥取城を改修し、石垣が多く用いられる近世城郭へと変貌していきます。
継潤死後、子の長房が後を継ぎますが、関ヶ原の戦いにて時流を読み誤り西軍方へ寝返ってしまったため、東軍の攻撃を受けてしまいました。
長房は所領を没収されてしまい、池田輝政の弟・長吉が6万石で鳥取に入りました。
江戸時代の鳥取は、もっぱら池田氏の所領となります。
元和3年(1617年)長吉の子・長幸は備中松山へと移封され、代わって光政(輝政の長男・利隆の嫡男)が姫路から32万石で入りました。
光政は鳥取城の規模拡大に乗り出し、山麓の曲輪をあらたに建造していきました。
寛永9年(1632年)光政は、池田光仲(輝政の三男・忠雄の嫡男)が治める岡山との国替えを命じられます。
以降、鳥取城は、池田光仲を藩祖とする鳥取池田氏12代の居城となりました。
下山へ。
山登りのときには目に入らなかったのですが、坂道からは石垣の跡のようなものをところどころに見ることができました。
そうしているうちに時刻は正午を回り、
登る前に「なんだろう?」と思っていた石垣は、武運の神・八幡神をお祀りする八幡宮のものだったようです。
本丸、二ノ丸、天球丸との分岐路に戻ってきました。
二ノ丸に下り、さらに画像中央の石垣のある辺り・・・
表御門跡へ。
左手に天球丸の石垣、
右手に二ノ丸の石垣を見ながら、さらに下っていきます。
二ノ丸の菱櫓跡の石垣が見える所まで来たところ。
振り返ると、前には天球丸、左に二ノ丸。
天球丸の上には、久松山。
ここで少し寄り道して、右の脇道へ。
天球丸の巻石垣を下から見られるスポットへ。
起伏に富んだ石垣に、巻石垣。
鳥取城もまた、来てよかったと思えるお城でした。
気がつけば、鳥取城には2時間以上も滞在していました。
それくらい見どころが多く、試練もそれなりにある名城です。
二ノ丸の石垣に別れを告げ、
太鼓御門の石垣を通ります。
この通路が大手登城路となっているのですが、この日は水濠付近で工事中だったため、
仁風閣【国指定重要文化財】の下を通って、鳥取城を後にしました。
自ブログにて鳥取城の戦いを題材とした記事を書かせていただいたのですが、その際に竹に雀さんのこちらの記事を参考にさせていただきました。
「渇殺し」前後の詳細な内容がとても参考になりました。
鳥取城、結構ハードな城のようですね。
山頂?から見た景色から、春日山城クラスの高さなのかなと思いました。
それと、誠に勝手ながら自ブログにて竹に雀さんのこちらの記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください!