鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

浜松城・最終章~出世して太閤殿下へ

2019-07-14 | 城郭【続日本100名城】


平 成 3 0 年 ( 2 0 1 8 年 ) 9 月 8 日 ( 土 )

午 前 1 1 時 5 6 分

浜 松 市 中 区

浜 松 城 公 園



浜松城【浜松市指定史跡】の本丸を退出し、



浜松城公園の駐輪場へと戻りました。
これにて浜松城の攻略は完了・・・?


否。
浜松城を語る上ではもう1箇所訪れなければならない所があります。


徳川家康が浜松城を築く前、この地には曳馬(ひきうま)がありました。

曳馬城の築城は諸説ありますが、室町時代初期に遠江今川家4代当主・今川貞相(さだすけ)によるものとされています。
その後、遠江今川氏は遠江国(静岡県西部)の支配権を失い、応仁の乱で室町幕府の権威が揺らぎ始めると、駿河今川家の今川義忠が侵攻を始めます。
そして義忠の子の今川氏親の代で曳馬城を制圧し、遠江の支配が確立しました。
氏親は家臣の飯尾乗連(のりつら)を城主としました。

氏親の子の義元桶狭間の戦いで戦死すると、今川家の衰退が始まります。
曳馬城の城主はこの時期に、乗連の子の連竜(つらたつ)に代わりますが、今川家を継いだ氏真(うじざね)に疑惑をもたれ、謀殺されてしまいます。
以後の曳馬城は飯尾家の家臣によって守られるものの、内紛を抱えたまま徳川軍の侵攻を受け、あっさりと陥落してしまいます。

この地を得た家康は、曳馬城を西南方向へと拡張し、本拠を構えました。
その際、「馬を曳く」という名は敗北を意味しており縁起が悪いということで、地名を「浜松」に改めたのでした。





やってきたのは、元城町東照宮



小さく「曳馬城跡」とあります。
こちらがかつての曳馬城本丸だったのです。



拝殿でいつもどおりの祈願。



拝殿の傍らに立っているのは、近年できたであろう二公像
家康はわかるけど、なんで豊臣秀吉が?!


曳馬城主・飯尾乗連の寄騎のひとりに、頭陀寺(ずだじ)(浜松市南区)松下加兵衛という武将がいました。
加兵衛の家来に、「木下藤吉郎」と名乗る若者がいました。
この藤吉郎が、のちの豊臣秀吉です。
加兵衛は、若き日の藤吉郎に武芸、学問や兵法を教えたといわれています。
藤吉郎は同僚からいじめを受け、それを哀れに思った加兵衛が路銀を与えて送り出し、その後織田信長に仕えたといいます。
(藤吉郎が使いの金子を持ち逃げした、という説もあります)

今川家が凋落すると、加兵衛は徳川家康に仕えますが、天正2年(1574年)の第1次高天神城の戦い武田勝頼に破られます。
勝頼に赦されて解き放たれると、織田家で頭角を現していた羽柴秀吉に招かれ、その家臣となりました。
秀吉は加兵衛を優遇し、若年時の恩に報いたそうです。



藤吉郎が浜松にいた時は、年齢は16歳から18歳ごろとされています。
銅像の秀吉公はちょっと若すぎるのではないでしょうか・・・?



さて、ここは秀吉にもゆかりがあるという場所。
ここで「城攻め」をしたら、秀吉公が発見できるかもしれませんねぇ・・・

・・・・・・武将、誰もいねぇ。

しかし、



「海道一の弓取り」の称号を獲得!
はじめは今川義元がこの称号で呼ばれていましたが、桶狭間の戦いで戦死。
その後小牧長久手の戦いで勝利した徳川家康が、この称号で呼ばれるようになったそうです。
ゲーム上では、浜松城を攻略するとゲットできるようですね。





さてこの二公像、浜松屈指のパワースポットとされています。



両英傑の間に立って撮影すると、出世運がうなぎのぼりなのだとか。
そしてその画をSNSにアップすると、運気を広く周囲に振りまくことができるのだとか。

・・・境内に誰もいない。
三脚のようなものもない・・・。


ひとり旅の私は、こうして出世を棒に振ったのでした。






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