鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

苗木城登城・最終章~木曽川を望む

2021-03-14 | 城郭【続日本100名城】


令 和 2 年 ( 2 0 2 0 年 ) 8 月 1 0 日 ( 山 の 日 )

午 後 2 時 2 9 分

岐 阜 県 中 津 川 市

苗 木 城 本 丸





二の丸の終点・千石井戸、そして本丸の入口・本丸口門の跡地を経て、本丸に突入します。



本丸口門はのところ。
ここから天守台まで上り、東濃の山川がおりなす絶景を見ていきます。


 

本丸に入って最初の建物は、具足蔵武器蔵でした。
本丸口門から目と鼻の先の進行方向右側、つまりは崖っぷちに建っていたことになります。
具足蔵には城主の具足と旗が、武器蔵には弓矢や鉄砲が収納されていたそうです。
画像の礎石は武器蔵のもので、「八間蔵」と称されていたとおりに細長い建物でした。



武器蔵跡から見下ろす木曽川です。
濃緑の森を貫くエメラルドグリーンの一筋、赤い城山大橋
夏の蒼天はところどころに雲が浮かんでいますが、それがまたいいんです。

 

武器蔵の跡地は、ちょうど天守台の足元にあります。
巨岩に穴をあけ柱を立ててから建物を築く懸け造りの様子をうかがうことができます。


 

カーブのたびに門が構えられていた苗木城。
今度の門は玄関口門、文字どおり天守の玄関となっていた門です。
通常は鍵がかけられており、目付役の者が鍵を管理していたようです。

 

玄関口門付近から眺めた三の丸
大矢倉の櫓台も小さくなってきました。
櫓台が連立している複雑な構造が、ここからだとひと目でわかりますね。


玄関口門先のカーブを曲がり、

 

本丸の天守曲輪に入りました。
天守曲輪には本丸御殿?というべき建物が曲輪を取り囲むように建っており、上の画像は本丸玄関すなわち本丸御殿?の玄関跡です。
御殿というには少々狭いからなのか、案内看板には「御殿」という表記はないので、ここでは「本丸御殿?」と表記しておきますね。



本丸玄関から中に入ると、「清水の舞台」の如く岩の上に建つ千畳敷という部屋を通ります。
千畳敷は複数の建物が連なっていて、そこから曲輪内側の一段上にある次の間居間へと至ります。
天守台へは、御殿?内側の建物を経由することとなっていました。



現在は本丸御殿?は復元されておらず、本丸玄関跡から階段で直接に居間跡へと上ります。



博物館を出て、じっくり検分しながら登城すること30分。
天守台に到達しました。



天守台の傍らには、漢文で記載された苗木城址碑が立っています。
篆額(てんがく)(碑の表題)の「苗木城址碑」は、最後の苗木藩藩主・遠山友禄(ともよし)の書によるもので、また文章は依田百川の手によります。
依田百川は森鴎外に漢文を教授したことで知られ、鴎外の『ヰタ・セクスアリス』で登場する「文淵先生」のモデルとされています。
碑文の内容は・・・


鎌倉幕府創業の功臣・加藤景廉(かげかど)の長男・景朝が美濃国恵那郡の遠山荘を所領とし、「遠山」の姓を名乗りました。
これが遠山氏のルーツです。
遠山景朝は岩村城を築き、ここを拠点に明知苗木などに勢力を広げていきました。
こうして本家の岩村遠山氏から明知遠山氏苗木遠山氏などの分家が成立しました。
苗木城の歴史は、ほぼ苗木遠山氏の歴史とリンクしています。
ちなみに名奉行「遠山の金さん」こと遠山景元は、明知遠山氏を出自としています。

戦国時代に入ると、東美濃地方は西の斎藤氏、東の武田氏、そして南の織田信長との争奪の的となります。
苗木城が築城されたのは、そのさなかの1530年ごろと考えられています。
東美濃は次第に織田信長の勢力下に入っていきますが、東から侵攻してきた武田勝頼の軍勢に苗木城を攻め落とされてしまいます。
長篠の戦いで武田軍が敗退すると、信長軍は東美濃を奪還していきますが、一連の戦いで岩村遠山氏をはじめとする遠山一族はほとんどが滅亡していき、苗木遠山氏や明知遠山氏など分家の一部が存続できました。
苗木遠山氏の当主・遠山友忠も、このとき苗木城を奪還しています。

天正10年(1582年)本能寺の変が起きると、友忠は近隣の美濃金山城主・森長可を暗殺しようとしますが、失敗。
長可は羽柴秀吉の後ろ盾を得て東美濃を席巻し、天正11年(1583年)苗木城を攻略。
苗木遠山氏は、当時秀吉と対立していた徳川家康のもとへと逃れました。

慶長4年(1599年)森長可の後継である弟・忠政は信州川中島に移り、代わって河尻秀長が苗木を治めることとなりました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで河尻は西軍についたため、徳川家康は遠山友政に命じて苗木城を奪還させました。
戦後、遠山友政はそのまま苗木に所領を与えられて苗木藩が成立しました。
苗木遠山氏は明治維新に至るまでの260年間、苗木藩主として苗木城を拠点としたのです。



・・・碑文に刻まれている文章はこんな内容のものではありませんが、苗木城の歴史は苗木遠山氏の苦悩の歴史といえます。
そんなわけで、ここで改めて「城攻め」



遠山さんではなくて、河尻秀長さんが登用できました。
なお、苗木城はJR恵那駅で攻略済みです。




それでは、天守台に立ちます。



眼下に望む木曽川、こちらは上流。
蒼天には雲が覆い始め、東濃の秀峰・恵那山は雲の笠をかぶっています。
そのふもとには中津川の市街地が広がっていますね。
バスに乗って渡った玉蔵橋、その隣りの廃線・北恵那鉄道木曽川橋梁の2本の橋も、絶景にアクセントを加えています。



一方下流は、城山大橋、さらに下流の美恵橋が存在感を出していますね。
この日の中津川市の気温は体温超えだったようですが、エメラルドグリーンの木曽川のせせらぎを見て、少しばかり涼しい気持ちになれたような気がします。




 

天守台を検分。
天守は2つの巨石にまたがって造られ、2階3層となっていました。
巨石を礎としながら必要箇所を石垣で補う構造、せまい岩山に建物を据える構造は、たぶん苗木城だけではないでしょうか。


 

天守台を下り、その足元へ。
ひときわ大きい岩は、馬洗岩と名付けられています。
苗木城が攻められた際、水の手が断ち切られてしまった時、この岩の上に馬を乗せ米を馬にかけ、あたかも水が豊富にあるかのように敵を欺いたのだそうです。








武器蔵跡付近に戻りました。

 

スタンプの画角は、ここから天守台を見上げたものです。
今回の画角探しは簡単でした。



「兜岩」と私が名づけた岩。
本当の名は不明です。



最後に、スルーしていた二の丸へ。



大門跡から坂を上らず、右へ進みます。

 

二の丸から天守方向を見ると、石垣が幾重にも積み上がっている豪壮な画。

 

南側に進んでいくと、石垣とともに現れる巨岩。

 

ついには巨岩だけになってしまいました。
この先には八大龍王社という巨岩に鎮座する社があるのですが、私は途中で引き返してしまいました。



午後3時11分、苗木城を退城。
観光客もそれなりに多かったですが、それにふさわしい魅力的な城郭でした。



帰りもバスを利用するので、バス停までは徒歩で向かうこととなりますが・・・



これはいったい・・・と考えさせられる記念碑がありました。
とりあえず、苗木城の登城記はここまで。






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