鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

米子城登城・前編~ガイドブックの石垣

2020-07-12 | 城郭【続日本100名城】


令 和 元 年 神 無 月 廿 日 ( 日 )

午 後 三 時 五 十 七 分

鳥 取 県 米 子 市

J R 米 子 駅





米子駅を出て、時刻はそろそろ夕刻。
この日最後のお城訪問は、米子城【国指定史跡】です。

米子駅からのアクセスは、米子駅を背にして駅前通りをそのまま進み、国道9号線の十字路で左折。
距離は約1km、徒歩約15分ほどなので、今回はそのまま歩いていきます。



米子城に行く前に、9号線を城とは反対側に曲がり・・・

 

米子市立山陰歴史館に寄り道します。
いかにも文化財っぽいレトロな建物だな~と感じましたが、実際に米子市役所旧館【米子市指定文化財】という名称で文化財に指定されています。
昭和5年(1930年)建築、設計は早稲田大学大隈記念講堂【国指定重要文化財】を手がけた佐藤功一によります。

時刻は午後4時を回る中・・・



169番、米子城!・・・のスタンプを早々にもらいました。
それにしてもこの絵柄・・・いったいどこの石垣なんだよ?!
鳥取城に続き、画角探しに苦労しそうですね。
鳥取城のスタンプの画角は、結局見つけることができませんでしたけどね。

そしてこの米子城でも、



御城印! 国指定史跡・米子城!
こちらは300円で販売しておりました。
押印されている家紋は上から順に、吉川氏「丸に三つ引」中村氏「立ち沢瀉(おもだか)加藤氏「蛇の目」です。


応仁の乱の時期、山名宗之によって飯山(いいのやま)に砦が築かれました。
これが米子城のはじまりといわれています。

時は過ぎて天正19年(1591年)豊臣秀吉によって天下統一がなされ、西伯耆(鳥取県西部)、東出雲(島根県東部)などの領主となった吉川広家は、戦向きの山城・月山富田城【国指定史跡】(島根県安来市)から交通の要衝・米子への移転を図り、中海のほとり、飯山の隣りの湊山に築城を始めました。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、広家は岩国(山口県)に移封となり、代わって中村一忠が駿府から18万石で伯耆に入り、慶長7年ごろに米子城が完成しました。

慶長14年(1609年)中村一忠が急死すると、翌年美濃黒野(岐阜市)より加藤貞泰が6万石で米子に入ります。
元和3年(1617年)貞泰が伊予国(愛媛県)大洲に移り、鳥取に池田光政が入ると、米子城は一国一城令の例外として認められ、その一族・池田由之の預り城となります。
寛永9年(1632年)池田光政と光仲が領地替えとなると、米子城は光仲の家老・荒尾成利の預り城となりました。
以後明治維新まで、鳥取池田家家老の荒尾氏の預り城となりました。



山陰歴史館では、吉川広家の父・吉川元春のものと伝わる兜が展示されているらしいのですが・・・
当時はそんなことは知らず、また夕刻とあって登城への影響を考え、スタンプと御城印をもらった後は早々に引き上げました。



そして国道9号線を反対方向へと歩き、



午後4時27分、米子城址・湊山公園の入口に到着しました。



【米子城までの行程記録】



JR米子駅 15時57分発
鳥取県道28号米子停車場線・国道9号線経由
米子市立山陰歴史館 16時08分着

米子市立山陰歴史館 16時18分発
国道9号線経由
米子城 16時27分着

*移動距離 1.7km
*所要時間 30分(移動時間 20分  歴史館滞在時間 10分)




午 後 四 時 廿 七 分

米 子 城 三 の 丸




むむっ、なんともお邪魔な車だなぁ。
よりによって入口のど真ん中に停めおって・・・。

米子城址・湊山公園の入口にあたる三の丸
ここから枡形虎口を経て、二の丸へと入ります。



なかなか広い空間の枡形。
この空間は城兵の集合場所でもあったようです。
狭い空間に攻め入る軍勢を閉じ込め四方八方から射撃するという、よくある枡形虎口とは違う感じがしますね。



ご立派な石垣です。
この先を歩いている紳士とお話しさせていただき、虎口の前に停めている車についてともに愚痴っていました。



見事な打込接ぎの石垣をしばし眺め、二の丸へ。



紳士とは別れ、二の丸散策。



目の前に現れる門は、城門ではありません。



城下にあった旧小原家長屋門【米子市指定文化財】を移築したものです。
小原氏は米子城主・荒尾氏の家臣で、大名の池田家からすれば陪臣(家臣の家臣)です。
禄高は120石ということで、陪臣の中では上級の武士だったと思われます。


長屋門のそばにひろがるテニスコートは、御殿跡です。



通路の傍らには、御殿御用井戸が残っています。




山上の曲輪へと続く道。
米子城は、山麓と山頂に建物を構える平山城です。
また上り坂か・・・でも鳥取城に比べたら、はるかにラクですね。



ちょっと脚に来てるなぁ・・・観音寺、竹田、鳥取と、3日連続の山登りのツケが、ここに出始めているようです。
通路から見下ろすと、御殿跡にあたるテニスコート、その向こうはかつての三の丸である野球場が見えます。



本丸に入る前に、







内膳丸に立ち寄ります。

本丸のある湊山に峰伝いで隣接する丸山に築かれた曲輪で、米子城の出丸のひとつでもあります。
関ヶ原後の城主・中村一忠の家老である横田内膳正(ないぜんのかみ)村詮(むらあき)が普請を担当したことから、その名がついています。
土地が埋め立てられる前の中海に面しており、海側からの外敵に備える役割をもっていました。



内膳丸から見た、本丸側。





近年発見されたという登り石垣



内膳丸から高さ約3メートルの石垣が、本丸まで約40メートルほど続いていたそうです。
内膳丸と登り石垣によって、中海からの外敵を防ぐ仕組みになっていたようですね。





内膳丸を離れ、いよいよ本丸へ。



本丸の入口にあった番所の跡地。
パンフレットによると、ここから公園入口の枡形虎口まで竪堀が伸びているというのですが・・・スルーしてしまいました。
というのも、



この見事な石垣を目の前にしたため、竪堀の存在を忘れてしまったのです。



この石垣こそ、「続日本100名城 公式ガイドブック」の表紙を飾る石垣。
番所跡からの画角だったんですね。


それにしても、これだけ多くの石垣の群れ・・・。



スタンプの画角になっているのは、どの石垣なのか・・・捜索に手間取りそうです。
鳥取城の画をスルーしてしまったので、米子城の画はなんとしても突き止めたい。
そう思って、腰を据えて本丸を散策していきます。






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