犬伏と唐沢山城【国指定史跡】を訪れました。
そして朝に1杯、昼に2杯の佐野ラーメンを平らげ、佐野駅に戻ってきました。
さのまるに別れを告げ、
JRのほうの佐野駅へ。
お次の目的地は、日本100名城・足利氏館【国指定史跡】です。
こちらは平成23年(2011年)1月に訪れたのですが、時刻が夕暮れ時であったために駆け足の訪問とならざるを得ず、当時所有していたデジカメさんの体力が異常に弱かったために、あまり画像が残っていないのです。
同じく時刻が遅かったために、足利学校には入学できずじまい。
私にとっては、足利はぜひともリベンジしなければならない場所でありました。
というわけで、JRのほうの佐野駅へ。
今回は「ふらっと両毛 東武フリーパス」を所持しているのだから、できれば東武佐野線の佐野駅に向かいたいところです。
しかし・・・
(東武鉄道のサイトより引用)
佐野駅から足利市駅に向かうには、いったん館林駅に南下してから再北上するというルートをたどることとなります。
いっぽうJR両毛線ならば、佐野駅から西にサクっと進め、足利駅までわずか3駅、13分。
さらに東武足利市駅は、JR足利駅よりも市街地から離れていることもあるので、移動時間短縮のためにもJRを使うこととしました。
12時29分、JR両毛線 普通電車 高崎行きは佐野駅を発車。
富田駅と、近年設置されたあしかがフラワーパーク駅を経て、
12時42分、足利駅に到着しました。
【今回の乗車記録】
JR東日本 佐野駅 1番線 12時29分発
■両毛線 普通 高崎行き
足利駅 2番線 12時42分着
*所要時間 13分
*移動距離 11.km
*運賃 237円(IC運賃) ※消費税率改定前(8%)のときの運賃です。
足利駅を出ます。
画像には写っていませんが、8年前に食事したはなまるうどんさんはご健在のようですな。
嬉しいかぎりです。
いかにも「学問の街」というような案内看板に導かれ、
学校への道を進み、
足利学校【国指定史跡】にやって参りました。
足利学校の最初の門・入徳門。
もともとあった入徳門は天保2年(1831年)に焼亡してしまい、現在の門は明治42年(1909年)に裏門を移築したものとされています。
「入徳」は「道徳心を養う」すなわち学校に入ることを意味しており、扁額は紀州徳川家11代藩主・徳川
孔子立像。
儒学の祖・孔子の像であり、足利学校でも孔子が祀られていました。
足利学校の教員は主に禅僧がこれを務めていましたが、仏教の経典については寺院で学ぶべきとされ、講義内容から排除されていました。
したがって、教育は儒学が中心となっていました。
8年前とは違い、この日は学校の門戸が開いておりました!
傍らには遅咲きながらも、学問の象徴とされる梅の花が咲き誇っています。
足利学校。
入学金は大人420円、高校生は半額の210円。
中学生以下は無料となっています。
憲法26条1項の教育を受ける権利と、これに基づく教育基本法&学校教育法の精神が、こんなところにも及んでいるのでしょうか?!
足利学校のシンボル・学校門。
寛文8年(1668年)に建てられ、今日まで足利学校の表玄関の役割を果たしています。
足利学校は、奈良時代もしくは平安時代に
承和6年(839年)ごろに小野
あるいは12世紀末に足利義兼によるともいいます。
学校の成立・起源ははっきりしていませんが、15世紀半ばの関東管領・上杉
学校で仏教を扱わないという指針は、上杉憲実により定められたといいます。
戦国時代には講義内容が儒学のみならず易学、兵学、医学にも及び、学生も3,000人を数えたともいいます。
江戸時代に入ると、朱子学の官学化により、また平和な時代が続いたことによって兵学などが好まれなくなったこともあり、足利学校の学問は時代遅れとなってしまいます。
しかしながら学校は貴重な古書を多数所蔵していたので、図書館としての役割を果たすこととなります。
明治5年(1872年)足利学校が廃校となりますが、大正10年(1921年)国の史跡に指定され、建物や蔵書の保存が図られることとなりました。
学校門をくぐって歩くと、右側に・・・
学生が典籍の中で読めない字と遭遇すると、紙に書き記して松の枝にくくりつけていたそうです。
それを講師である和尚が見つけると、ふり仮名や注釈を書き加えていたといいます。
字降松の正面には・・・
儒学の祖・孔子をお祀りする孔子廟が建っています。
しかしこの日は、改修工事のために入れず。
孔子廟は、このようなお姿をしているのだそうです。
いよいよ学校の校舎へ。
後者の南側に広がる南庭園。
発掘調査と当時の絵図面を参考に、江戸時代中期の姿に復元されたそうです。
この日は、学問を象徴する梅の花が美しく咲き誇っていました。
正面玄関・・・ですが、ここからは校舎に入れないようです。
もう少し外をぶらりとしましょう。
空は青く晴れ渡り、梅の花が咲き誇っています。
学校で勉学に励むのはもったいないような、すばらしい天気です・・・これはとんだ失言でしたかな。
学生が勉学に励んでいた校舎は方丈【再建】といいますが、現代でも机を前に学徒が物書きをしているようですね???
南庭園から外に通じる裏門【再建】です。
「裏門」とはいいますが、実際は学生が日常的に利用していた出入口だったそうです。
裏門付近にあった
江戸時代の絵図面にはカタカナで「サエンバ」と表記されているようですが、「茶園場」という字が充てられていたと推測されています。
そしてここでは茶、薬草から大根などの食料、そして観賞用の花なども栽培されていたそうです。
茶園場の傍らに建っているのは、衆寮【再建】。
一言でいえば学生寮です。
校舎のほうに戻ります。
勉学の場である方丈に連なる大きな建物は、
こちらはかまどのある土間や台所が備わっており、日常生活の場でした。
ここから中に入れるようです。
入口に据えてある珍妙な器械、その名は宥座之器。
斜めに傾いている器に水を注ぐと、傾いていた器は直立して水をたたえるが、水が多すぎると器がひっくり返ってしまう。
このことをもって、孔子は中庸の大切さを説いたといいます。
私も試しに水を注いでみましたが・・・私はまだまだ中庸の何たるかがわかっていなかったようです。
校舎に入ります。
校舎の中は、足利学校が所蔵する蔵書や彫像が展示されています。
こちらは木造 小野篁坐像【足利市指定文化財】です。
学校の伝説上の創始者である小野篁の彫像で、江戸時代の延喜3年(1746年)のものだそうです。
たぶん本物・・・レプリカではないはずです。
こちらは木造 孔子坐像【栃木県指定文化財】。
普段孔子像は孔子廟で祀られていますが、廟は工事中のため、校舎に移されて安置されているようです。
こちらもたぶん本物・・・レプリカではないはず。
そしてこちらは宋刊本「文選」【国宝】!!・・・のレプリカですよね、たぶん。
押印されている印影は、関東の戦国大名・北条氏政の「虎の朱印」とされています。
文選(もんぜん)は、中国の南北朝時代に梁王朝の昭明太子によってまとめられた詩文集で、中国古典文学の集大成といっていい詩集です。
諸葛亮の「出師表」、曹操の「短歌行」、曹丕の「典論」論文、曹植の「洛神賦」。
官渡の戦い前に、曹操を罵倒しまくったあまりに曹操自身の頭痛を治してしまったという陳琳の檄文。
・・・私の三国志熱が上がる前に、終了~。
校舎の北側にある書院。
つまりは校長室なのですが、それらしく落ち着いた造りになっています。
校舎の北側に築庭されている北庭園。
陽光の陰になっているからか、落ち着いた雰囲気があります。
泉水の中島には、弁天様をお祀りする石祠が築かれています。
こうして校舎をめぐったところで、学生が勉学に励んだという方丈へ。
旅人であるはずの私も、ここで試験を受けることになってしまいます。
果たして私は、無事に学校を卒業できるのでしょうか?!
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