鬼ヅモ同好会第3支部・改「竹に雀」

鬼ヅモ同好会会員「めい」が気ままに旅して気ままにボヤきます。

ハイソフト「日本の名城」12城目

2017-02-10 | 日記


2 0 1 7 年 2 月 8 日 ( 水 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



週の半ば、水曜日。
当然のごとく行きつけのコンビニで森永ハイソフトを購入します。


11枚目の出た日曜日からわずか3日で、12枚目を引くことに成功しました。



雲海に浮かぶ廃墟のような城址・・・No.13 竹田城!
兵庫県の山の中にあって、某CMで「日本のマチュピチュ」と紹介された城址です。
カードでは、本丸から望む南千畳と呼ばれる曲輪の画角が採用されています。



ハイソフトのパッケージにも採用されている3つの城のひとつでもあります。


竹田城の築城時期は15世紀半ば、1440年代ごろと考えられています。
室町幕府6代将軍。足利義教(よしのり)が播磨国(兵庫県南部地方)の守護・赤松満祐に暗殺される事件が起きました。
隣国・但馬(兵庫県北部)の守護・山名宗全は幕府の討伐令を受け播磨に出撃、赤松満祐を滅ぼしました。(嘉吉の乱
このときの播磨への出撃拠点として築城され、山名氏の重臣・太田垣氏が代々城主を務めました。

のち山名宗全は、戦国時代の幕開けとなった応仁の乱で西軍の総大将を務めています。
また東軍の総大将・細川勝元の支援を受け、赤松氏は播磨で再興を果たしました。
以後、播磨・但馬国境で山名・赤松両氏のにらみ合いが続いていきます。

時代は下り16世紀後半、織田信長が台頭し、天下布武(天下統一)が進んでいきます。
信長は、中国地方の総司令官として羽柴秀吉を播磨に派遣しました。
播磨の守護であった赤松氏は信長に降伏。
山名氏は毛利氏と組んで抵抗したため、竹田城は秀吉の弟・秀長の軍勢に攻められ、落城しました。
城主の太田垣氏はその座を追われ、降伏した赤松家の赤松広秀(のち斎村正広に改名)があらたに城主になりました。
正広のもとで竹田城が改修され、山頂に広がる総石垣の城に生まれ変わりました。

関ヶ原の戦いでは、斎村正広は西軍につきましたが、東軍に寝返ります。
そして西軍方の鳥取城を攻めましたが攻略に手こずり、城下を焼討ちにしてようやく落城させました。
この焼討ちが徳川家康の怒りに触れ、正広は寝返った武将で唯一切腹を命じられてしまいました。

主を失った竹田城は、のちの一国一城令にしたがい廃城になりました。



その後は歴史に取り残されるように、城址がそのまま遺されていったそうです。
そんなミステリアスなところもマチュピチュに似ているのでしょうね。



残るカードはいよいよあと4枚。
おやつはやっぱり森永ハイソフトです。





ハイソフト「日本の名城」11城目

2017-02-07 | 日記


2 0 1 7 年 2 月 5 日 ( 日 )

千 葉 県 某 所

拙 宅 に て



節分の日にわが御前の家で恵方巻きをごちそうになり、まるかぶりせずに切ってからいただいた私。
そんなことはともかく、おやつはやっぱり森永ハイソフトです。


先週の日曜日に引き続き、11枚目も日曜日に出てきました。



この天守閣は一目瞭然! 名古屋城ではなくて、No.11 大坂城!
戦国一の出世頭・豊臣秀吉の築いた居城が採用されたようです。
そういえばこの城も、某ドラマ「真田●」に関わりがある・・・というか真田丸があった城でしたね。


もとは、織田信長に頑強に抵抗した石山本願寺の跡地です。
天正11年(1583年)、豊臣秀吉の本拠地として築城されました。
しかし秀吉はあまり大坂城に滞在しなかったようで、その後築城した聚楽第(じゅらくだい)伏見城(京都)を居城としました。

秀吉の死後、子の秀頼は大坂を居城としました。

徳川家康関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開くと、豊臣家は一大名家に没落してしまいます。
それでも秀吉の築いた絢爛豪華な大坂城は健在でした。

そして慶長19年(1614年)11月、大坂冬の陣で家康・秀頼が衝突。
真田信繁(幸村)の勇躍もありましたが、この戦いは和議を結ぶことによって収束しました。
和議の条件のひとつに「外堀を埋める」というのがありましたが、徳川方はとぼけたフリして内堀まで埋めてしまったのです。

翌慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣
真田幸村は「日の本一の(つわもの)」と賞賛される活躍をし、家康を死の淵まで追い込むも、及ばずに戦死。
一方秀頼は一度も出陣することもなく、生母・淀(茶々)とともに城内で自害しました。
絢爛豪華な大阪城は炎に包まれました。

程なく大坂城は再建されます。
豊臣時代のそれとはまったく姿を変えての、いわば新築ともいえるものでした。
天守も新たに建てられたが、のちに落雷で再び焼失しました。

昭和5年(1930年)、徳川時代の天守台に豊臣時代の天守を復興。
これが現在の天守で、国の登録有形文化財に指定されています。



大坂城は平成22年(2011年)1月に登城しました。
このとき大阪に着いたのは午後3時を過ぎていて、大坂城の登城が日没のため中途半端に終わってしまったのでした。
ここもいつかはリベンジをしたいと考えています。



残るカードはあと5枚、怒涛のダブリにめげることなく、おやつは森永ハイソフトです。