過越の祭の週の木曜日でした。エルサレム郊外のこと大工の仕事場に、ローマ総督ピラトのもとから遣わされた使者が、大至急と言って三本の十字架を注文してゆきました。不吉な、人の嫌がる、それだけに金の儲かるこの仕事を喜んで、彼は沢山の十字架を作ってきたが、今までになかったことです。他人の刑罰と苦しみ、そして最後に死をもたらすこの十字架作りの仕事が、きょうばかりはひどくいまわしいことに思えて仕方がなかったのです。それに同じ大工仲間の親しい友人、今はなんでもラビになったとかいうイエスが前に語った言葉まで思い出されました。「自分の物指しで人をはかれば、同じようにはかりかえされるものだ」「だから人にして貰いたいように、人にもするべきだよ」(マタイ7:2,12)
まさか自分が十字架につけられはすまい、がもし自分の親戚や親しい友人が自分の作った十字架で殺されたら― 遅くなりすぎないうちに止めなくてはと彼はつぶやいていました。
そして翌日、なにか心にひっかかるような思いで彼はゴルゴタの丘に出かけました。ひとつには自分の作った最後の十字架に、だれがかけられるのかにも興味があったのです。しかし、何ということでしょう。まぎれもなく自分の作った十字架に、あの大工仲間の友、昨日も彼の言葉を思い出していたあのイエスがかけられているではありませんか。彼は余りの衝撃に放心したようになり、ダビデ王がその子の死を聞いて言った有名な嘆きの言葉をつぶやくだけでした、「ああ、わたしが代わって死ねばよかったのに」と。
十字架の上に、友イエスが祈るように語っている『父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか、分からずにいるのです』との言葉を背後に聞きながら、うつろな心で彼は丘をおりて行きました。その後、この十字架作りの大工の消息をだれも知らぬということです。
しかしほんとうの悲劇は、キリストをつけた十字架を作ったのは彼ひとりではなかったということです。文字どおり無数の人が、今もなお、キリストをつける十字架をつくりつづけているのです。その罪のゆえに――――。
(飯 清著「飼葉おけと十字架」・日本基督教団出版部・1967より)受難週にて。
まさか自分が十字架につけられはすまい、がもし自分の親戚や親しい友人が自分の作った十字架で殺されたら― 遅くなりすぎないうちに止めなくてはと彼はつぶやいていました。
そして翌日、なにか心にひっかかるような思いで彼はゴルゴタの丘に出かけました。ひとつには自分の作った最後の十字架に、だれがかけられるのかにも興味があったのです。しかし、何ということでしょう。まぎれもなく自分の作った十字架に、あの大工仲間の友、昨日も彼の言葉を思い出していたあのイエスがかけられているではありませんか。彼は余りの衝撃に放心したようになり、ダビデ王がその子の死を聞いて言った有名な嘆きの言葉をつぶやくだけでした、「ああ、わたしが代わって死ねばよかったのに」と。
十字架の上に、友イエスが祈るように語っている『父よ、彼らをお赦しください。何をしているのか、分からずにいるのです』との言葉を背後に聞きながら、うつろな心で彼は丘をおりて行きました。その後、この十字架作りの大工の消息をだれも知らぬということです。
しかしほんとうの悲劇は、キリストをつけた十字架を作ったのは彼ひとりではなかったということです。文字どおり無数の人が、今もなお、キリストをつける十字架をつくりつづけているのです。その罪のゆえに――――。
(飯 清著「飼葉おけと十字架」・日本基督教団出版部・1967より)受難週にて。