「復活の主を信じて生きる」 ヨハネ20・24~29
イースターおめでとうございます。主イエスの受難と死を心に刻む受難節、受難週を経て、今日は主イエスが死から復活され、死に打ち勝たれた喜びと希望の日、イースターを記念する礼拝を共にささげています。主の御名を心から賛美いたします。
本日の聖書の箇所が読まれました。
すべての人に救いの道が開かれるために、十字架につけられ墓に葬られたイエス・キリスト。しかし、父なる神は3日の後、主のご復活をもってその栄光を顕されました。
その復活の主は、失望と恐れのうちに家に閉じこもる弟子たちにご自分の姿を顕されます。
ところが11弟子の中のトマスだけは、彼らと一緒にそこにいなかったために、よみがえられたイエスさまと出会うことができませんでした。たまたま何かの用事があったのか、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた弟子たちとは別行動をとっていたのか、それは分かりませんが他の弟子たちの興奮さめやらぬ中、トマスはどのような思いでその報告を聞いたことでしょう。
彼は答えます。25節「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
トマスはかつて、イエスと一緒に死ぬ覚悟だと勇ましい発言をした人物でした。(11:16)
けれども、実際事が起こると恐れに逃げ出した自分に打ちひしがれていたことでしょう。
このトマスについてよく彼は疑い深い者、懐疑主義者とのレッテルが貼られますが、しかしトマスだけがそうだったのではなく、他の弟子たちもトマスと同様でありました。
他の福音書で、女性たちがイエスの復活の知らせを伝えた時、彼らも疑って取り合わなかったとあるとおりです。
トマスは疑い深いという一方で、正直な人間であったということもできるでしょう。
彼は自分を偽ることができなかったのです。他の者が「主にお会いした」という証言に納得できないものを引きずって皆に調子を合わせることは、トマスにはできませんでした。トマスは「信じたくても信じられない」。そういうところに立っていたのです。彼はイエスに従ってきた仲間の証言が信じられませんでした。たとえそれが1人とか2人とかでない、10人全員の証言であったとしても同じでした。
彼にとって、すでに復活の主と出会った他の仲間たちと一緒に過ごすのは、どんな気持ちであったことでしょう。
けれども、トマスは仲間の弟子たちを避けて出てゆくのではなく、彼らの中に踏みとどまったのです。
さて、それから8日後、イエスは再び御自分を弟子たちに顕されました。今度はトマスも一緒でした。姿を顕したイエスは、「平安があなたがたにあるように」と声をかけ、トマスに向かっていつくしむように言われます。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(20:27)
イエスと3年間を共にして教えを聞き、不思議な業を見てきたにも拘わらず、イエスの復活が信じられないトマス。「そのトマスのためにイエスは来られました」。主イエスはトマスの不信仰や愚かさを叱責したりなさいません。トマスは復活の出来事を信じたくなかったのではなく、信じられなかった。信じたいが自分の目で見て、自分の手で触れるまでは信じられなかったのであります。主イエスはその彼の苦悩をご存じであり、汲み取っておられたのです。
復活の主と出会い、「信じる者になりなさい」という言葉を聞いたトマスは、「私の主。私の神」と驚きと喜びのうちに告白しました。彼はイエスが復活されたということが分かっただけでなく、もっと深いところで「復活されたイエスはわたしの主です、あなたはわたしの神です」と、自分の救いを見出したのです。ここに復活の主を信じて生きる者の希望があります。
主イエスは言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いです。」(20:29)
聖書はトマスを通して、信仰に対して与えられる神さまの祝福を語るのです。
これは肉眼で見える姿のイエスさまに会うことがない者たちへの励ましであり、十字架のことばを聞いてイエスを信じる信仰へ導かれるように、との招きでもあるのです。
主はきのうも今日も生きておられます。そして今、ここにもご聖霊の働きのもと、ともにいてくださるのです。
トマスのように霊の目が開かれ、復活の主を見上げてまいりましょう。
イースターおめでとうございます。主イエスの受難と死を心に刻む受難節、受難週を経て、今日は主イエスが死から復活され、死に打ち勝たれた喜びと希望の日、イースターを記念する礼拝を共にささげています。主の御名を心から賛美いたします。
本日の聖書の箇所が読まれました。
すべての人に救いの道が開かれるために、十字架につけられ墓に葬られたイエス・キリスト。しかし、父なる神は3日の後、主のご復活をもってその栄光を顕されました。
その復活の主は、失望と恐れのうちに家に閉じこもる弟子たちにご自分の姿を顕されます。
ところが11弟子の中のトマスだけは、彼らと一緒にそこにいなかったために、よみがえられたイエスさまと出会うことができませんでした。たまたま何かの用事があったのか、ユダヤ人を恐れて戸を閉めていた弟子たちとは別行動をとっていたのか、それは分かりませんが他の弟子たちの興奮さめやらぬ中、トマスはどのような思いでその報告を聞いたことでしょう。
彼は答えます。25節「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」
トマスはかつて、イエスと一緒に死ぬ覚悟だと勇ましい発言をした人物でした。(11:16)
けれども、実際事が起こると恐れに逃げ出した自分に打ちひしがれていたことでしょう。
このトマスについてよく彼は疑い深い者、懐疑主義者とのレッテルが貼られますが、しかしトマスだけがそうだったのではなく、他の弟子たちもトマスと同様でありました。
他の福音書で、女性たちがイエスの復活の知らせを伝えた時、彼らも疑って取り合わなかったとあるとおりです。
トマスは疑い深いという一方で、正直な人間であったということもできるでしょう。
彼は自分を偽ることができなかったのです。他の者が「主にお会いした」という証言に納得できないものを引きずって皆に調子を合わせることは、トマスにはできませんでした。トマスは「信じたくても信じられない」。そういうところに立っていたのです。彼はイエスに従ってきた仲間の証言が信じられませんでした。たとえそれが1人とか2人とかでない、10人全員の証言であったとしても同じでした。
彼にとって、すでに復活の主と出会った他の仲間たちと一緒に過ごすのは、どんな気持ちであったことでしょう。
けれども、トマスは仲間の弟子たちを避けて出てゆくのではなく、彼らの中に踏みとどまったのです。
さて、それから8日後、イエスは再び御自分を弟子たちに顕されました。今度はトマスも一緒でした。姿を顕したイエスは、「平安があなたがたにあるように」と声をかけ、トマスに向かっていつくしむように言われます。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(20:27)
イエスと3年間を共にして教えを聞き、不思議な業を見てきたにも拘わらず、イエスの復活が信じられないトマス。「そのトマスのためにイエスは来られました」。主イエスはトマスの不信仰や愚かさを叱責したりなさいません。トマスは復活の出来事を信じたくなかったのではなく、信じられなかった。信じたいが自分の目で見て、自分の手で触れるまでは信じられなかったのであります。主イエスはその彼の苦悩をご存じであり、汲み取っておられたのです。
復活の主と出会い、「信じる者になりなさい」という言葉を聞いたトマスは、「私の主。私の神」と驚きと喜びのうちに告白しました。彼はイエスが復活されたということが分かっただけでなく、もっと深いところで「復活されたイエスはわたしの主です、あなたはわたしの神です」と、自分の救いを見出したのです。ここに復活の主を信じて生きる者の希望があります。
主イエスは言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる者は幸いです。」(20:29)
聖書はトマスを通して、信仰に対して与えられる神さまの祝福を語るのです。
これは肉眼で見える姿のイエスさまに会うことがない者たちへの励ましであり、十字架のことばを聞いてイエスを信じる信仰へ導かれるように、との招きでもあるのです。
主はきのうも今日も生きておられます。そして今、ここにもご聖霊の働きのもと、ともにいてくださるのです。
トマスのように霊の目が開かれ、復活の主を見上げてまいりましょう。