「水がめに水をいっぱい入れなさい」ヨハネ2章1節-12節
「主は招きたもう」
新年最初の主日礼拝をともに捧げることができます恵みを感謝します。
大阪教会ではクリスマスから始まって30日の歳晩祈祷会、その2日後には元旦礼拝、さらにその2日後の新年主日礼拝と集会が続き、あっという間の年末年始であったいうのが実感でありますけれども、その時ごとに与えられる大きな恵みがあり、喜びと元気をほんとうに戴いていることに心から感謝しています。
元旦礼拝でも申しましたが、今年も益々主の栄光が証しされ、御救いが起こされていく1年となりますよう、願うものです。2016年の皆さまお一人おひとりの歩み、ご健康とお働きが主に守られ祝され、すべての必要が満たされていきますように、お祈りいたします。
2016年が始まってまだ3日目ですので、お正月のただ中でありますが。私たちは期待をもってこの場に集まっているわけですけれども。それは又、私たちそれぞれが主からの「招きを受けて」ここに集められているということでもございます。
先程今日の聖書の箇所が読まれました。それは、ガリラヤのカナの町で婚礼があって、そこにイエスさまをはじめ、その弟子たちも招かれたということからこのエピソードが始まっていきます。この「招き」は、原語のギリシャ語でエックレーセー;「呼ばれた」、神から召しを受けた、という意味があり、それはまさにキリストの教会に招かれた人たちを指す、エクレシアを表しています。2016年の新年最初の主日礼拝に私たち一人一人も、主から招待されてここに集っている、という喜びと祝福をまず共々にかみしめ、その恵みを心に留めたいと思います。
「カナの婚礼」
さて、本日の新年礼拝に与えられた箇所は、イエスさまの仕事初めともいえる「カナの婚礼においてイエスさまが水を良いぶどう酒に変えられた」お話です。そのあらすじは読んでお分かりのとおりだと思いますが、もう一度簡単に整理してみますと。
イエスとその弟子たちが招かれた婚礼という祝いの席でぶどう酒がなくなります。晴れやかな婚礼の祝いの席でお酒が足りなくなってしまえば客人はがっかりして、それは新郎新婦の資質が問われるような事になりかねなかったのです。
イエスより先に婚礼の場にいて、何らかの準備に関わっていたであろうイエスの母は、新郎新婦の面目がまるつぶれになるのを心配したのでしょう。息子であるイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言うのです。イエスの母がどのような考えをもってイエスにそう言ったのかはここに書かれていませんが、何とか調達してくれるのではないかという期待の思いがそこにあったようです。しかしそんな期待とは裏腹に、イエスさまは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」とそうお答えになるのです。それでも彼女は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とことづけます。そうした後、イエスさまが召使いたちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使たちはイエスの母から言われたことを思い出して、その言われたとおりに「6つのかめの縁まで水を満たした」のです。そして召使たちがイエスの「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」とのお言葉通りにすると、かめの水が大変質の良いぶどう酒に変っていた、というのですね。そのことで婚礼は祝福され、世話役から花婿は誉められる、というお話です。
今回このエピソード読んでまず気づかされたのは、イエスの母の存在です。もちろん水を良いぶどう酒に変えられたイエスさまにその話の中心があるのですが。その母がイエスさまに何らかの期待を持たなかったなら、この水がぶどう酒に変る祝福は起こらなかったのですね。仮にイエスの母が、ぶどう酒が無くなっても所詮人ごとだと何ら働きかけなかったなら、又、執り成さなかったなら、それは起こりませんでした。あるいはイエスのそっけないように思える返事に失望し、「もうあんたには頼まん」と投げ出していたらどうなっていたでしょう。
けれども、彼女は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と伝えました。とても即答を得たようには思えませんでしたが、なおイエスさまに信頼してその意志に聞いていこうとする母の姿がそこにあったのです。
執り成し、主に信頼し、決して失望せず、なおも主に期待していく人を通して主はその栄光を現わされたのですね。
さらに、婚礼の準備をしていた召使いたちがいなければ、やはりこの水が大変質の良いぶどう酒に変るイエスさまの祝福の業は起こらなかったということです。イエスの母のいうとおりに、イエスの指示に従った彼らの存在は欠かせません。
このエピソードのようにイエスさまが「水を良いぶどう酒」に変えられるそんな祝福が備えられるためには、イエスの母のように、主に信頼をおいて、決して失望せずなおも期待していく人、又、召使たちのように、力を合わせて主のお言葉どおりに行動を起こしていく人が、不可欠である、ということであります。力を合わせてと申しましたのは、1つの水がめに水を満たすには80リットルから120リットルもの水を入れなければならなかったわけで、それが6つもあったのですからこれは水を入れるにしても、さらに6つの水がめを運ぶにしても大変な労力がいったということですね。いずれにしましても、そのような人たちを通して、主の教会も、一人ひとりの信仰生活も祝され、なおかつイエスの母や召使たちが体験したように、主なるイエスさまの御業を拝する光栄にあずかることができるのですね。
さて、ヨハネの福音書は、この「カナの婚礼」での出来事を「イエスさまの最初のしるしとして、その栄光を現わされた」と伝えます。
このカナでの奇跡はイエスさまの福音の一部分なのですね。その主の御救い、福音が完全に実現されるのは、イエスさまが世の罪を贖うために十字架につけられる、その苦難と死によって全人類に神の救いがもたらされるという大いなる御業を成し遂げられたその時であります。ヨハネ福音書1章に、バプテスマのヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったと記されているとおりです。
そういう事を思いますと、イエスさまはどのようなお気持ちで「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃったのでしょう。イエスさまは十字架の受難と死による贖いという使命を負うという「御自分の時」を前途に控えておられていたにも拘わらず、人々の喜びや悲しみ、心配や必要といった日常のいわば悲喜こもごもにさえ、心を配り、関わりをもってくださるということを、このカナの婚礼のしるしを通して、新鮮な気持ちで想う事ができます。そのことが何ともうれしく、新年早々から励まされるわけであります。
私は2016年の教会の年間標語と聖書をこの箇所から頂こうと考え、年間標語案を「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたイエスさまのお言葉から聞いていきたいとそう導かれました。
その水がめとは、私たち自身のことを指しています。それは、私の水がめの中に主の尽きぬ命の水である御言葉をいっぱい汲み入れる、というメッセージです。そこでもし私という水がめが、自分の願望や不平不満、世の様々のことどもでいっぱいになっていたのなら、主の御言葉がそこに入る余地はありません。まずは生活や生き方そのものをシンプルにして、救い主であるイエスさまの御前に出で、御言葉に聞いたり、祈りの対話をもつことが大事です。そうしていく時に、主は私に必要な生きた御言葉を与えてくださいます。そのことによって、私たちのうちにイエスさまの愛と恵みが満ち溢れ、隣人とそれを分ち合う喜びと楽しみが与えられてまいります。その喜びとは、良いぶどう酒である主の救いの杯を様々な人たちと酌み交す喜びであり、イエスの母や召使たちが体験したように、主の栄光を目の当たりする喜びであります。
最後になりますが、この水がめは本来清めのために用いる石の水がめで、先程も申しましたように水がめ一つに80リットルから120リットルの水がはいるくらい大変大きなもので、それが6つもあったのです。それを舌のこえた世話役も驚くほど最上のぶどう酒に変えられたのです。ほんとうにイエスさまのなさることはスケールが違います。まさに福音の大盤振る舞いですね。
今年の私たちそれぞれのあゆみが始まりました。
「水がめに水をいっぱい入れなさい」との御声に従って、主の生ける水、命の言葉に満たされ、この一年用意されている様々な出会い、又気づきや発見すべてが、味わい深い体験に変えられていきますように。主の福音が、この最上のぶどう酒がふるまわれたカナの婚礼のように、尽きることなく、主イエスの御言葉のダイナミックな力によって分かち合われることを、期待していきましょう。
年初のお祈りをいたします。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。」
天の神さま、こうして新しい年2016年を喜びをもって迎え、まずあなたを礼拝することできますことを感謝いたします。
神さま、今年も福音を伝え、証しする私たちを病魔や災いから守り、身も心も魂もすこやかであらせてください。
どうか、今年も私たち一人ひとりのすべての必要を満たしてください。私たちの家族や家庭のうえに、又、仕事や生活の上に平安と祝福をお与えください。
また、私たちが生きる世界や社会のいたるところにおいて、いまだいのちと平和を脅かすような紛争や収奪が繰り返されています。そしてさらに軍事力や武力よって安全が築かれるという事で戦争を犯したかつての過った道に逆戻りしている状況に歯止めがかかりますように祈ります。世界には貧困や経済や政治的な事情で住み場を失い、難民生活を余儀なくされている人たちがあふれております。又、厳寒のもと身近なところにも野宿生活を余儀なくされている孤独な人たちがおります。神さま、その一人ひとりの命をお守りください。私たちの平和の福音を告げ、証する者としてどうかお用い下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
「主は招きたもう」
新年最初の主日礼拝をともに捧げることができます恵みを感謝します。
大阪教会ではクリスマスから始まって30日の歳晩祈祷会、その2日後には元旦礼拝、さらにその2日後の新年主日礼拝と集会が続き、あっという間の年末年始であったいうのが実感でありますけれども、その時ごとに与えられる大きな恵みがあり、喜びと元気をほんとうに戴いていることに心から感謝しています。
元旦礼拝でも申しましたが、今年も益々主の栄光が証しされ、御救いが起こされていく1年となりますよう、願うものです。2016年の皆さまお一人おひとりの歩み、ご健康とお働きが主に守られ祝され、すべての必要が満たされていきますように、お祈りいたします。
2016年が始まってまだ3日目ですので、お正月のただ中でありますが。私たちは期待をもってこの場に集まっているわけですけれども。それは又、私たちそれぞれが主からの「招きを受けて」ここに集められているということでもございます。
先程今日の聖書の箇所が読まれました。それは、ガリラヤのカナの町で婚礼があって、そこにイエスさまをはじめ、その弟子たちも招かれたということからこのエピソードが始まっていきます。この「招き」は、原語のギリシャ語でエックレーセー;「呼ばれた」、神から召しを受けた、という意味があり、それはまさにキリストの教会に招かれた人たちを指す、エクレシアを表しています。2016年の新年最初の主日礼拝に私たち一人一人も、主から招待されてここに集っている、という喜びと祝福をまず共々にかみしめ、その恵みを心に留めたいと思います。
「カナの婚礼」
さて、本日の新年礼拝に与えられた箇所は、イエスさまの仕事初めともいえる「カナの婚礼においてイエスさまが水を良いぶどう酒に変えられた」お話です。そのあらすじは読んでお分かりのとおりだと思いますが、もう一度簡単に整理してみますと。
イエスとその弟子たちが招かれた婚礼という祝いの席でぶどう酒がなくなります。晴れやかな婚礼の祝いの席でお酒が足りなくなってしまえば客人はがっかりして、それは新郎新婦の資質が問われるような事になりかねなかったのです。
イエスより先に婚礼の場にいて、何らかの準備に関わっていたであろうイエスの母は、新郎新婦の面目がまるつぶれになるのを心配したのでしょう。息子であるイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言うのです。イエスの母がどのような考えをもってイエスにそう言ったのかはここに書かれていませんが、何とか調達してくれるのではないかという期待の思いがそこにあったようです。しかしそんな期待とは裏腹に、イエスさまは「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」とそうお答えになるのです。それでも彼女は召使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」とことづけます。そうした後、イエスさまが召使いたちに、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召使たちはイエスの母から言われたことを思い出して、その言われたとおりに「6つのかめの縁まで水を満たした」のです。そして召使たちがイエスの「さあ、それをくんで宴会の世話役のところに持って行きなさい」とのお言葉通りにすると、かめの水が大変質の良いぶどう酒に変っていた、というのですね。そのことで婚礼は祝福され、世話役から花婿は誉められる、というお話です。
今回このエピソード読んでまず気づかされたのは、イエスの母の存在です。もちろん水を良いぶどう酒に変えられたイエスさまにその話の中心があるのですが。その母がイエスさまに何らかの期待を持たなかったなら、この水がぶどう酒に変る祝福は起こらなかったのですね。仮にイエスの母が、ぶどう酒が無くなっても所詮人ごとだと何ら働きかけなかったなら、又、執り成さなかったなら、それは起こりませんでした。あるいはイエスのそっけないように思える返事に失望し、「もうあんたには頼まん」と投げ出していたらどうなっていたでしょう。
けれども、彼女は召使たちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と伝えました。とても即答を得たようには思えませんでしたが、なおイエスさまに信頼してその意志に聞いていこうとする母の姿がそこにあったのです。
執り成し、主に信頼し、決して失望せず、なおも主に期待していく人を通して主はその栄光を現わされたのですね。
さらに、婚礼の準備をしていた召使いたちがいなければ、やはりこの水が大変質の良いぶどう酒に変るイエスさまの祝福の業は起こらなかったということです。イエスの母のいうとおりに、イエスの指示に従った彼らの存在は欠かせません。
このエピソードのようにイエスさまが「水を良いぶどう酒」に変えられるそんな祝福が備えられるためには、イエスの母のように、主に信頼をおいて、決して失望せずなおも期待していく人、又、召使たちのように、力を合わせて主のお言葉どおりに行動を起こしていく人が、不可欠である、ということであります。力を合わせてと申しましたのは、1つの水がめに水を満たすには80リットルから120リットルもの水を入れなければならなかったわけで、それが6つもあったのですからこれは水を入れるにしても、さらに6つの水がめを運ぶにしても大変な労力がいったということですね。いずれにしましても、そのような人たちを通して、主の教会も、一人ひとりの信仰生活も祝され、なおかつイエスの母や召使たちが体験したように、主なるイエスさまの御業を拝する光栄にあずかることができるのですね。
さて、ヨハネの福音書は、この「カナの婚礼」での出来事を「イエスさまの最初のしるしとして、その栄光を現わされた」と伝えます。
このカナでの奇跡はイエスさまの福音の一部分なのですね。その主の御救い、福音が完全に実現されるのは、イエスさまが世の罪を贖うために十字架につけられる、その苦難と死によって全人類に神の救いがもたらされるという大いなる御業を成し遂げられたその時であります。ヨハネ福音書1章に、バプテスマのヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったと記されているとおりです。
そういう事を思いますと、イエスさまはどのようなお気持ちで「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃったのでしょう。イエスさまは十字架の受難と死による贖いという使命を負うという「御自分の時」を前途に控えておられていたにも拘わらず、人々の喜びや悲しみ、心配や必要といった日常のいわば悲喜こもごもにさえ、心を配り、関わりをもってくださるということを、このカナの婚礼のしるしを通して、新鮮な気持ちで想う事ができます。そのことが何ともうれしく、新年早々から励まされるわけであります。
私は2016年の教会の年間標語と聖書をこの箇所から頂こうと考え、年間標語案を「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われたイエスさまのお言葉から聞いていきたいとそう導かれました。
その水がめとは、私たち自身のことを指しています。それは、私の水がめの中に主の尽きぬ命の水である御言葉をいっぱい汲み入れる、というメッセージです。そこでもし私という水がめが、自分の願望や不平不満、世の様々のことどもでいっぱいになっていたのなら、主の御言葉がそこに入る余地はありません。まずは生活や生き方そのものをシンプルにして、救い主であるイエスさまの御前に出で、御言葉に聞いたり、祈りの対話をもつことが大事です。そうしていく時に、主は私に必要な生きた御言葉を与えてくださいます。そのことによって、私たちのうちにイエスさまの愛と恵みが満ち溢れ、隣人とそれを分ち合う喜びと楽しみが与えられてまいります。その喜びとは、良いぶどう酒である主の救いの杯を様々な人たちと酌み交す喜びであり、イエスの母や召使たちが体験したように、主の栄光を目の当たりする喜びであります。
最後になりますが、この水がめは本来清めのために用いる石の水がめで、先程も申しましたように水がめ一つに80リットルから120リットルの水がはいるくらい大変大きなもので、それが6つもあったのです。それを舌のこえた世話役も驚くほど最上のぶどう酒に変えられたのです。ほんとうにイエスさまのなさることはスケールが違います。まさに福音の大盤振る舞いですね。
今年の私たちそれぞれのあゆみが始まりました。
「水がめに水をいっぱい入れなさい」との御声に従って、主の生ける水、命の言葉に満たされ、この一年用意されている様々な出会い、又気づきや発見すべてが、味わい深い体験に変えられていきますように。主の福音が、この最上のぶどう酒がふるまわれたカナの婚礼のように、尽きることなく、主イエスの御言葉のダイナミックな力によって分かち合われることを、期待していきましょう。
年初のお祈りをいたします。
「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。」
天の神さま、こうして新しい年2016年を喜びをもって迎え、まずあなたを礼拝することできますことを感謝いたします。
神さま、今年も福音を伝え、証しする私たちを病魔や災いから守り、身も心も魂もすこやかであらせてください。
どうか、今年も私たち一人ひとりのすべての必要を満たしてください。私たちの家族や家庭のうえに、又、仕事や生活の上に平安と祝福をお与えください。
また、私たちが生きる世界や社会のいたるところにおいて、いまだいのちと平和を脅かすような紛争や収奪が繰り返されています。そしてさらに軍事力や武力よって安全が築かれるという事で戦争を犯したかつての過った道に逆戻りしている状況に歯止めがかかりますように祈ります。世界には貧困や経済や政治的な事情で住み場を失い、難民生活を余儀なくされている人たちがあふれております。又、厳寒のもと身近なところにも野宿生活を余儀なくされている孤独な人たちがおります。神さま、その一人ひとりの命をお守りください。私たちの平和の福音を告げ、証する者としてどうかお用い下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。