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渇くことのない命の水

2016-01-10 19:28:07 | メッセージ
主日礼拝宣教 ヨハネ4章1節-30節  

先週も「水がめに水をいっぱい入れなさい」という水のお話でしが、本日の箇所も水に関係するヨハネ4章の「イエスさまとサマリアの女」の物語から「渇くことのない命の水」と題し、御言葉を聞いていきたいと思います。

聖書はイエスさまがユダヤ(エルサレム)の地から北のガリラヤヘに行かれる折、4節にあるように「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と記しています。この「しかし」というのは、通常多くのユダヤ人はガリラヤへの最短コースはである今回のサマリアを避けて、わざわざヨルダン川を渡り、険しい遠回りのコースを選んでいました。それは、9節にあるように「ユダヤ人はサマリア人とは交際しなかった」からです。
しかし、イエスさまはその「サマリアを通らねばならない」と、つまり必然的にサマリアを通る道を選ばれた、ということです。元々はサマリア人もイスラエルの民であったわけですけれども、そのユダヤ人とサマリア人との対立の由来は古く紀元前722年、北王国イスラエルとその首都サマリアが滅亡した時に遡ります。北王国を滅ぼしたアッシリア帝国は、占領政策として北イスラエルに5つの異民族を移植し、異教の神々が持ち込まれることになったのです。そのため、血統性を重んじる(血統的に純粋な)ユダヤ人はサマリア人をイスラエル人としての血と真の神への純粋性が失われ、汚れた者として蔑視し、エルサレムの神殿に受け入れなかったのです。サマリア人はその地に自分たちの神殿を独自に建て、ユダヤ人はこれを認めない、という対立が延々と続いていたのです。ユダヤ人がサマリア人と交際しなかったというのはそういう背景があったのです。

さて、イエスさまがユダヤを去り、サマリアのシカルの井戸に着いたのは一日で一番暑い正午頃でありました。その時ひとりのサマリアの女が水をくみに来ました。水汲みは通常涼しくなる夕暮れに行われていたようですが。この人は真昼に、しかもひとりで水を汲みに来たのです。それは実に奇妙なことでした。そんな真昼の焼き尽くような暑い正午頃に彼女がわざわざ井戸に水を汲みに来た理由。それは他の女性たちがやってくる時間帯を避けるためであったようです。
イエスさまはこの人に「水を飲ませてください」とお頼みになります。井戸はあっても汲む物を持っておられなかったのです。
すると彼女はとても驚きました。まあ当時は男の人が見知らぬ女性に声をかけるなど普通なかったことでしたし、ましてや自分の前にいるのは、その服装や様相からユダヤ人であります。何で汚れた者とみなしているであろうサマリア人の自分にそのように頼むのか。彼女は理解できなかったのです。
そうしてイエスさまとサマリアの女の「喉の渇きをいやす水」と「決して渇くことのない命の水」の問答が始まります。
10節「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるのか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
「神の賜物」とか「自分を誰手あるのか知っていたのなら」などと言う言葉を聞いたサマリアの女は、「いったいこの人はどういう人なのだろうか」と考えたことでしょう。
そこで、彼女はこのシカルの井戸を与えてくれたイスラエルの父祖ヤコブよりもあなたは偉いのですか、とイエスさまに尋ねます。
するとイエスさまこう答えられます。13節「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
この井戸の水は一時的に渇きをいやすかもしれないけれどもまた渇く。けれどもイエスさまが与える水を飲む人は決して渇かない。それどころかその人の内で泉となって、永遠の命に至るまで湧き出る、と言われるのですね。
 けれども、彼女は「生きた水」と言われたイエスさまの言葉を誤解します。普通の湧水を思ったのです。そこで「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」とイエスさまに願うのですね
井戸の水汲みは重労働です。もう水を汲みに来なくてもよいならどれだけ助かることでしょう。けれどもその言葉の裏には彼女の魂を真に満たしてくれる「何か」に対する渇きがにじんでいるように思えます。イエスさまはそのことをご存じだったのですね。
井戸に水を汲みに来ていたこのサマリアの女が一番欲していたのは、まさにこの「渇くことのない命の水」であったのですね。
それがこの後の、イエスさまとこの女とのさらなる対話によって明らかになります。
彼女が5度の結婚と離婚を繰り返してきたこと。現在も夫でない人と同棲していること。彼女は自分が寄りかかれる相手をずっと求め続けてきたのですが、その心の渇きは満たされることなく、ことごとく失敗して同じことが繰り返されていったようです。ほんとうに心の渇きを満たしてくれるものを彼女は切実に求めて来たけれど、それを得る事はなかったのです。欲しいという思いを持っていたのであります。
すべてを言い当てられたこのサマリアの女は、自分の過去も今も見通すことのできたイエスさまに驚き、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。
その時、彼女は自分が如何に神から遠く離れたところにさまよっている者であるか。
そして自分の魂が本当に必要としているのは何かを見出しかけていました。
20節「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにある」と言っています。
彼女がイエスさまにこう問いかけたのは、自分自身が神に立ち返るべき者であることを意識したからでしょう。だからこそ彼女はほんとうに礼拝すべき場所を尋ねたのでしょう。けれどもこれは彼女の個人的問題のみにとどまるものではありません。先程ユダヤ人とサマリア人の歴史について触れましたが、民族的な純粋性を損ない、独自な礼拝の場を作った、とユダヤ人から蔑視されてきたサマリア人の積年に及ぶ神の民としてのアイデンティテ―に関わるそれは問いかけだったのです。この女性にかつて5人の夫がいて今も本来の夫でないというのは、かつての入植政策により異教の神々が入り混じるサマリアそのものであり、今連れ添っているのも本当の夫とは言えないというのも、彼らが独自に建てた神殿がユダヤから認められないそのことを表していたのです。つまり、彼女の渇きは、サマリア人の神の民としての「真の礼拝」への切望に外ならなかたのです。そのことに対して目の前の預言者は何がしかの回答を与えてくださるに違いない、という期待を彼女はもったのです。

そんな彼女にイエスさまは、「わたしを信じなさい」と言われます。
その上で、礼拝の場所はサマリア人の主張するこの山やユダヤ人の主張するエルサレム、これらの特定の場所に限定されないところで「父(神)を礼拝する時が来る」とおっしゃるのです。それは画期的なことでした。ユダヤ人もサマリア人も神の神殿にこそ神は臨在されると信じていたからです。神殿こそが礼拝の場でありました。それが、神の御子イエス・キリストが救い主としてこの世界に来られた。今や、一切の場所的な制限が取り除かれ、あらゆる場所、至るところにおいて人種や立場を越え、あらゆる人たちが神を礼拝することができるようになったということです。救い主イエス・キリストの到来によって真の礼拝が捧げられる時が訪れたその恵みの中に私たちも又、この地にあって礼拝を捧げる恵みに与かっています。

もう一つ大事なことは、イエスさまは、真の礼拝をする者たちが、「霊と真理をもって礼拝する時が来る」とおっしゃっていることです。これまでサマリアの山でもエルサレムの神殿においても不正や偶像礼拝が行われ、エルサレムの神殿の境内は商売の家となり、人々の心は神から遠く離れていました。それに対してイエスさまは、霊ご自身であられる神さまに見いだされ、救われた一人ひとりとの生きたつながりをもった霊的な礼拝がささげられることこそが「真の礼拝だ」、と言われるんですね。

彼女はイエスさまにこう言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
ここで確かにキリストと呼ばれるメシアが来られ、一切のことを知らせてくださる、と彼女は知ってはいるのですが、それはまだ、先のこと、自分自身のことになっていませんでした。つまり、今、目の前におられるイエスさまがそのお方であるということに気づいていなかったのです。
そこでイエスさまは彼女にこう言われます。
「それは、あなたと話しているこのわたしである。」

彼女はそのイエスさまの言葉を聞くや、水を汲む当初の用事も忘れ、水がめをそこに置いたまま一目散に町に行き、人々に「わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。この方がメシアかも知れません。さあ、見に来てください」と伝えます。人々はそれを伝えたのが日頃人目をはばかり関わりをもとうとしなかった女性であることに多分驚き、怪しみつつ町を出て、イエスさまのもとへやって来た、というんですね。
イエスさまの言葉がいかに彼女のうちに変化をもたらしたかということを読み取ることができます。身の上の事で人目を避けてきた女がイエスさまとの出会いを通して、その心が開かれ、期待に胸躍らせてそのことを人々に伝えていく人とされるのです。
39節以降には、このサマリアの女の証言が、人々をイエスさまのもとに導いたことが記されています。それは異教の民と蔑まされてきた彼らの上に神の時、救いがもたらされた瞬間でした。

最後に、今日のこの箇所から何よりも教えられますことは、イエスさまとの一対一の関係が築かれていくことの大事さです。
イエスさまは一人の魂が見いだされ、救われるために、出会われるお方なのです。私と出会い、私と対話し、私の求めと本当の必要を知っていて下さるお方だということです。このサマリアの女を大きく変えたのは、イエスさまの「それが、あなたと話をしているこのわたしである」との決定的なお言葉でした。それはイエスさま自身が渇きを覚えられ、渇きを持つ人の痛みや傷を感受されるお方であり、最後はゴルゴダの十字架の上で「渇く」と叫ばれて、罪の贖いを果たされた「救い主」であられたということです。

その救い主、主イエスのお言葉を聞いたとき、彼女のうちに決して渇くことのない命の水が注がれた、とそう思えるのであります。このイエスさまとの出会いとお言葉によって彼女の心は神の救いを見、世では得る事のできないほんとうの喜びと平安が満ち溢れていくのです。まさにイエスさまが、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃったことが、サマリアの女のうちに起こっていったのです。彼女は「真の礼拝」を心から願っていた一人でした。主はそれをご存じでした。こうして彼女は神の霊によって新しく生まれた者とされ、真の礼拝を捧げる恵みと喜びに与っていくのです。同時にそれは、主イエスの御救いを証しする存在、伝えるために世に遣わされる者、救いの喜びを分かち合う者とされていくのです。
今日は読みませんでしたが42節に、イエスさまの言葉を聞いて信じた人々がサマリアの女に次のように言っています。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であることが分かったからです。」
 彼らも又、メシア、救い主イエス・キリストとの出会いを個人的に、一対一の関係できっと与えられたのですね。今、イエスさまの存在は私たちの目には見えませんけれども、確かに神の霊であるイエスさまの聖霊が一人ひとりの魂に語りかけ、御心を示し、それに従って生きるようにと促しておられるのですね。真の礼拝を捧げていく者であるように、今日も主イエスがお与えてくださる決して渇くことのない命の水を新鮮な思いで戴き、その喜びと恵みを証し、分かち合う者とされたいと願います。

最後にイエスさまのお言葉をお読みして本日の宣教を閉じます。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(ヨハネ7章37‐38節)
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