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み言葉を信じて生きる

2016-01-17 16:09:12 | メッセージ
主日礼拝宣教 ヨハネ4章46節-54節 

本日阪神淡路大震災から21年目を迎えました。先程はそのことを覚える「1・17の祈り」を共にささげました。震災の恐ろしさと同時に、私たちは多くの教訓を学びました。それを今後どのように活かしていくかが問われ続けています。又、その年は日本のボランティア元年だと言われています。私たち関西地方教会連合、又、日本バプテスト連盟でも主イエスのみ言葉に押し出され、夜回りや越冬支援活動が拡がってきました。そうして気づかされていったのは、それが単に被災地だけではく私の住んでいる身近な地域の問題でもあるということです。そういう気づきと支援とは後の東日本大震災の対応や働きにつながりました。主イエスの招きに応え被災地を覚えて祈り続け、地道な支援や働きによってつながっていくことを改めて今日のこの日、確認したいと願います。
先週は又、関西地方教会連合の牧師研修会が大阪教会で開かれ、「牧師のための認知症入門」というテーマのもと、神経内科医でクリスチャンの中島健二先生の貴重なお話を聞く機会があたえられました。ご講演の中で一番印象に残ったのは、「高齢化が進む中で認知症は増加しているけれども、そういう現実の中で教会には希望がある。認知症を受容しながらいやす最先端の場ではないか。その果たす役割は本当に大きいのではないか」というような問いかけ、チャレンジを牧師たちに投げかけてくださったことでした。教会の礼拝や祈祷会や諸集会の場、様々な人との出会いや交流によって元気づけられ、活き活きとされるという経験を私たちはしていると思うのです。又、教会に初めて来られた方などから、その時折に、何で教会に来られている方って若々しく、活き活きしているんでしょう、と聞かれたこともございます。主イエスの教会を介する場に、人を活き活きとさせていく力がほんとうにあるのではないでしょうか。

本日は先程読んで頂いたヨハネ4章46‐54節より「み言葉を信じて生きる」と題し、聖書から聴いていきたいと思います。
この箇所は最後のところにも記されていますように、イエスさまがガリラヤのカナでなされた「2回目のしるし」をあらわにされた記事です。1度目は招待された婚礼の席で水をぶどう酒に変えられるというものでしたが。今日の箇所では、その同じカナで瀕死の状態であった役人の息子をいやされたというしるしであります。

今回、奇跡としるしとはどう違うのですか?と質問を受けました。奇跡というのはいわゆるミラクルですね。常識では考えにくいような現象をさします。KJV欽定訳(キングジェームスバージョン)は今日の第2の「しるし」をミラクルと訳していますけれども、原文ギリシャ語はセメイオン:「しるし」又は「前兆」とも訳されます。いわゆるミラクル:奇跡に対して「しるし」とはあるサイン、証明のようなものですね。何かの目的のための「印」、又は何かが成されるための「証明」という意味が一番適切であります。今日のところはその違いを踏まえて読みますとさらに深いメッセージになると思います。

では、今日の箇所をもう少し丁寧に読んでいくことにいたします。
ここに登場するカファルナウムの役人は、ヘロデ・アンティパス王の役人でかなり地位のある高官で、彼は又、異邦人であったようです。地位も権力もあったこの人の息子が大病を患い瀕死の状態となりました。彼はイエスさまが顕わされた、婚礼での最初の「しるしや不思議な業」についての噂を伝え聞いていたのでしょう。そのイエスさまがユダヤからガリラヤのカナに再びお出でになっていることを知ったこの人は、我が子を救って頂きたいという一心で、なりふり構わずカファリナウムからイエスさまのおられたガリラヤのカナにまで訪ね、イエスさまに「息子をいやしてくださるように頼んだ」というのです。

しかし、彼に対するイエスさまのお言葉は、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と、ある意味予想に反するものでした。ただし、このイエスさまの言葉は、「あなたがた」という複数形になっていますので、単にこの役人だけを対象としているのではなく、ガリラヤ、広くはユダヤの人たち全体にいえることとしてそうおっしゃった事が分かります。
本日の箇所の前の44節に、「イエスさまは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある。イエスさまがガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」と記されています。
ガリラヤの人たちはイエスさまのしるしや不思議な業を見てイエスさまを歓迎したのですが、それはイエスさまご自身を信じるという次元とは別ものであったことを、イエスさまは見抜き、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃったのですね。

まあイエスさまは彼らの不信に対してこのように言われたのですが、この役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」とイエスさまになおも訴えます。
この役人は親としてまさに藁をもつかむ心境であったのでしょう。噂に聞いた不思議な業が自分の息子に万が一でも起こりはしないか。「ああ、何とかして子供を救って頂きたい」「もうイエスさまにただすがるほかない」「ほかにはもう望むところがない」。それはまさに崖っぷちの信仰です。

この人にイエスさまの言葉が臨みます。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」
イエスさまはただその一言を発せられます。
「息子が死なないうちに、カファルナウムに来て下さい」と役人は言うのですが、イエスさまは直接足をお運びにならないんですね。彼はイエスさまに直接お出で頂いて直に息子に手をおいて御業を顕わして欲しい、とそう期待していました。けれども与えられたのはただこの一言だったのです。
ところがどうでしょうか。ここにあるとおり彼は「イエスさまのお言葉を信じて帰っていった」というのです。彼は「あなたの息子は生きる」とのイエスさまのお言葉を握にぎりしめて帰って行くのですね。彼はその「息子は生きる」とのみ言葉の事実をまだ目にしていませんでしたが、ただイエスさまのお言葉をにぎりしめるようにして帰って行くのです。そしてこの人がイエスさまの言葉通りに家に帰っていく途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた、と聖書は伝えるのです。ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と記されています。彼はまさにそのようにイエスさまのお言葉を聞き行動したのですね。

イエスさまがここで何よりもお示しになられたことは、しるしや不思議な業によらず、「み言葉を信じて生きる」者の幸いについてであります。人がしるしや不思議な業に魅せられて一時的に信じたとしても、何か自分の思い通りにならなければもう信じないという自分本位の考えしかできなければ、それは信仰ではありません。それでは業は信じても主に信頼することにはなりませんね。人はみな目に見えるところを確かなものとして生活しています。確かに私たちの生活は目に見えるもので成り立っているでしょう。けれども、それらは本質的なものではありません。よくよく考えてみますと私たちの目に見える世界の根底には信頼や愛情という見えないものが生き、働いているからこそ、人が人として生き、生かされる世界が成り立っているのですね。いくら物に満たされ、ゆたかに暮らすことが出来たとしても、根底のところで人を生かし支えているもの、生きた神さまご自身の存在とその愛のお働きに目を向けることがないとしたなら、それはほんとうに虚しいことです。人の存在はその人の命を生じさせる方、造り主なる神さまによって確かなものとされるからです。

さて、この役人は、イエスさまが「あなたの息子は生きる」とおっしゃった時刻と自分の僕たちから息子の熱が下ったという時刻とが同じであったことを知ったのです。彼がこの驚くべき恵みの出来事を知ったのは、まさに彼がイエスさまのお言葉を聞き、そのお言葉を信じて受け取ったその時でした。この役人はしるしや不思議な業によってではなく、イエスさまとそのお言葉に信頼することによって、具体的にはみ言葉に自分の存在をかけて一歩を踏み出して行くことによって、神さまが生きてお働きになられる大いなる経験をすることになったんですね。そうして彼はより深い信仰へ導かれていくのです。それは結果として証しとなり、聖書は彼もその家族もこぞって信じたというさらにゆたかな救いの出来事が起こされていくのであります。

最後になりますが、先々週の2章のガリラヤのカナの婚礼でイエスさまが「水をよいぶどう酒に変えられた」という最初のしるしから始まり、先週の渇くことのない命の水についてのサマリアの女との問答、そして今日の、何とか息子を救いたい異邦人の父親のエピソードと続きましたが、これらのことを通して示されますのは、「救い主イエス・キリストは、私たちの日常生活における問題や悩み、必要をご存じであられる」ということです。私たちはみなそれぞれ異なります。起こってくる問題も様々です。主はそのような私たち一人ひとりにふさわしいあり方ご自身と、その救いのしるしを顕わしてくださるのです。今日も主はお一人おひとりに必要な命の言を与えておられます。ゆたかな信仰の恵みは、そのように主イエスのお言葉を信じて生きるときに体験することができるのです。

私たちは今イエス・キリストご自身の姿を目で見る事はできませんが、み言葉を信じて生きることを通して、イエスさまの御心を知り、その御業を知ることができます。又、私たちが幸いなのは、この役人のように主に直接訴えることができる、祈ることができる、ということです。私たちの神は石や木で刻まれた像ではなく、生きておられます。主はみ言葉は生きて働き、私たちに命を与えます。聖霊の助けとお導きによって主の臨在を我が身に感じ、この地上においても主イエスが共にいてくださり、共にお働きくださることを、体験できるのであります。

今日の箇所は、世のしるしや不思議な業に信じる基盤を置くのではなく、主イエスのみ言葉を信じ、信仰に立って生きるように、と私たちを招いています。それはヨハネ20章末尾に、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスが神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」とおりです。先に奇跡としるしについて申しあげましたが、まさに主イエスの十字架の苦難と死による罪の贖いこそが、神の救いの最大のしるし、証明なのであります。この大いなる恵みを喜び感謝しつつ、み言葉を信じて生きる私たちとされてまいりましょう。
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