礼拝宣教 イザヤ書61章1-11節 アドヴェント
今年は12月23日がクリスマス主日礼拝となりますが、主イエスのご降誕を待ち望むアドヴェント(待降節)最初の主日礼拝をこうして迎え、1本目のクリスマスキャンドルに灯がともされました。
先週の火曜日ここで台湾から福音歌手、又牧師としてお働きをなさっておられる祝先生をゲストに、そのワーシップチームによる特別集会が、台湾中華教会関西福音連合主催、大阪教会協力というかたちで開かれました。会堂には日本在住の台湾・中国、韓国の方々、又大阪教会の方々、新来者求道者と、1階ロビーも収まり切れず、2階まで人があふれんばかりでした。集会ではワーシップチームの導きのもと、共々に世界の主を賛美し、祝先生のメッセージ、祈りの時がもたれましたが。聖霊に満ちた主の恵みを覚える時となりました。
2013年に新会堂が建ったばかりの頃から、近隣にお住いの大阪中華長老教会のメンバーである姉妹が水曜祈祷会に来られるようになり、昨年には、台湾の歴史に関する演劇が当教会で行われたことから、この姉妹を通して台北を訪問することとなりました。そこでは台北の主にある方々との新たな出会いが与えられました。そのようないわば華僑の方々とのつながりと並行して、韓国はじめ様々な国々の方々や宣教師との礼拝や祈りの場がこの教会で起こされ続けています。それは私たちの側からではなく、主がご計画くださり、目的をもってお導きになっていることだと信じるものです。使徒言行録に記載されるアンティオケアの教会のように、国籍や立場を超えた主の御業をこれからも賛美し、拝していきたいと願うものです。
さて、今日はイザヤ書61章より「主の恵みの約束」と題し、御言葉に聞いていきます。
先週はイザヤ書65章を読みましたが。バビロニアの捕囚から解放されたユダの人々はまあ半世紀以上の時を経て、ようやくエルサレムに帰還します。しかし現実は彼らの期待とは裏腹に大変厳しいものでした。
彼らは神殿の再建という喜ぶべき事業を希望をもって始めますが、生活は苦しかったのです。バビロンに連れていかれずに残っていたエルサレムの住民とはうまくゆかず、又当時エルサレムを支配していたサマリア人たちの妨害にもあいます。そのような夢破れて、失望の中にあった人々に、この第三イザヤは、神の恵みと希望の言葉を語り続けるのでありますが、、、。
しかし、そういう生活していくのに手いっぱいの日々の中で心がなえて、預言者の声も彼らにはなかなか響きません。当初の目的であった神殿再建はとうとうストップして頓挫しそうになり
ます。
その時この第三イザヤと同時代に生きた預言者の一人ハガイは、ハガイ書1章でそのユダの人々に対してこう告げています。「今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでよいのか」「お前たちは多くの収穫を期待したが/それはわずかであった。しかも、お前たちが家へ帰るとき/わたしはそれを吹き飛ばした。それはなぜか。と万軍の主は言われる。それは、わたしの神殿が廃墟のままであるのに/お前たちが、それぞれ自分の家のために走り回っているからだ。」
彼らは捕囚からの解放の喜びとともに、主に思いを向け、神殿の再建をなんとか主にお献げしたい。それこそ私たち主の民としての望みと。又、神の民としての復興は。まず主の宮の再建によって成し遂げられていくに違いないとの、信仰によって神殿の再建にとりかかったのですが。その心の思いが自分の生活のことばかりに向くようになっていったのですね。
まあ、私たちだって日々の生活や仕事のことがなかなか大変でしんどかったり、又体調が悪かったり、歳を重ね、そこにまたトラブルや家族の問題など加わって来るのなら、それはやかり生身の人間でありますから、心身ともに疲弊したり、思いもなにもいっぱいになるということがあるのではないでしょうか。
そういう状況の中で「私は何を生きる力の源としていくか」と、時に立ち止まって自問自答することは大切です。そうでなければただ労苦と悩み、日々の欲求の虚しい人生にもなりかねません。
イザヤ書55章にはこのような預言の言葉があります。
「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い/飢えを満たさぬもののために労するのか。わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って魂に命を得よ」。
主の御言葉は、まず聞いて、次に信仰を持って実践する中に、実体験として与えられていく生ける言葉です。
主は、ユダの人々にそのような「恵みと祝福の約束」を語り続けておられるように、私たちにも同様に「恵みと祝福の約束」を語りかけておられます。
主イエスは「まず、神の国と神の義を求めよ。そうすればすべて添えて与えられる」とおっしゃっています。
忙しい毎日、悩み多き日々、弱さをおぼえる時、どのような中にありましても、救いの神、生ける主を愛し、主の言葉に従って生きる者に、主は必要を満たし、魂に命を得させて下さると、約束しておられます。
今日の61章は、第三イザヤと言われる預言者が「神の恵みの約束」について語ったメッセージであります。
最初におさえておきたいのは、この預言者の言葉が神を信じる者たちに向けて語られているということです。
1節の「貧しい人に良い知らせを」というのは、単に経済的に貧しさというより、むしろ信仰者の霊的飢え乾き、そういう「貧しさ」を指しています。神の愛を忘れ背き、自ら滅びを招いてバビロンの捕囚となったユダの人々。そういう「打ち砕かれた心」「捕らわれた人」「つながれている人」と。
先ほど、捕囚からエルサレムに帰還したユダの人々の厳しい生活の現状について見ましたが。帰還をはたしてもなお、エルサレムの、神殿の復興がままならず意気消沈している人たちの、それは魂の霊的に貧しい状態。その霊的貧しい彼らに対して、主は「良い知らせ」、口語訳では「福音」を語るため預言者をお遣わしになるのです。
預言者は、2節で「嘆いている人々を慰め/シオンのゆえに嘆いている人々に/灰に代えて冠をかぶらせ/嘆きに代えて喜びの香油を/暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」と主の希望の言葉を取り次ぎます。
ユダの人々は嘆きをもって神の前にへりくだる象徴的行為として灰をかぶったのですが、その灰に代えて、栄光を象徴する冠を主はかぶらせて下さる。又、香油は聖霊の油注ぎを連想します。又、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせて下さると。これは先にも申しましたが、私たちは信仰をもっていても生身の人間であります。あまりに生活に追われる中で、又、あまりに厳しい状況の中で、表情までも重く暗くなる時もあるかも知れません。けれども主は、そういう状況にある私たちに「賛美の衣をまとわせ」てくださる。主が与えて下さる「良い知らせ」、福音が臨むとき、信仰の復興、まさにリバイブされる出来事が起こされていくのです。
みなさんの中にもそういった体験、日々の生活の暗い心が、賛美によって慰めと喜びの力にかえられたり、礼拝で共に主を賛美しているときに不思議と魂のうちから熱くなり、感動と喜びが湧き出る何だかわからないけれど涙がとめどなく流れるというようなご経験があるのではないでしょうか。それは聖霊の神の満たしによるもの、お働きによるものです。
固く、冷たくなった心を開き、霊的に飢え乾いた自分のありのままを主に明け渡すとき、主はその人の魂の奥底にまでお入りになり、霊的枯渇、その魂の飢え乾きを霊的充満に満たしてくださるのです。
それは主の教会、エクレシア・主に呼び集められた者のともなる祈り、賛美、礼拝の中に、ゆたかにお働きくださるのです。
主なる神さまは、私たちが霊的枯渇の滅びから救われ、霊的充満となって、あらゆる面でゆたかになるために、何度も繰り返し、希望の言葉を語り続け、招いておられます。私たちは、まずそのような神さまの愛と恵みを魂いっぱいにいただくことが他の何よりも勝って大切なのです。奉仕にしましても霊性がまず満たされるのでなければ、単なる義務感からの喜びのない虚しいものになってしまうでしょう。主の招きに心開き、霊的飢え乾きを満たして頂きましょう。
本日のところで、もう一つ心に留まりますのは、6節以降の御言葉、主の恵みの約束です。
そこを読みますと、「あなたたちは主の祭司と呼ばれ/わたしたちの神に仕える者とされ云々」とございます。
ここで注目すべきは、主が「あなたたち」つまりは「主の共同体」が、「祭司」と呼ばれる、と語りかけられておられることであります。それは個人レベルではありません。
主の共同体、これを私たちのことに引きつけて読むならば、教会:エクレシア「主に呼び集められた共同体」、キリストの教会を指しているといえます。
その「わたしたちが主の祭司」であるということ。まあ旧約で祭司といえば、神と民との間を取り持ち、祭儀を取り仕切り、司る特別な働きを託された者をいいますが。ここではそういう特別な人や個人ではなく、「主の共同体であるあなたがたが祭司だ」というのですね。まあバプテストでは「万民(全信徒)祭司」ということを言うわけですが。
大切なのは、祭司の働きがこのように主の共同体としてつながっている一人ひとりによって共に担われていくことを、主は願っておられるのですね。それは具体的には、礼拝を共に与り、互いに祈り、とりなし支え合い、主の御心を実現していくということでしょう。
私たちの教会では「語り祈り合う会」が9月16日に行われました。ここで私たちの抱えている課題について共に語り祈り合うときをもちました。そこには私たちの思いや願いということをまず自由に出し合うということをいたしました。そこから出された課題について、まず主の御心がどこにあり、何であるのかを共に祈り求めていくことが大切であることを私は再認識させられています。またその課題は個人レベルでなく、主にあって共に分かち合われていくことによって、その主の御体である教会もゆたかにされていくのです。そのためには私たちは互いを覚え、主に心を合わせて共に祈っていくことがもっともっと必要ではないでしょうか。
そのようにして、主が恵みと喜びの業として私たちの群れを導き祝して下さることになると信じております。これからも主に呼び集められた「あなたがたは祭司」という御言葉にあって、共に歩んでいきたいと願います。
最後に、9節をお読みしたいと思います。
「彼らの一族は国々に知られ/子孫は諸国の民に知られるようになる。彼らを見る人はすべて認めるであろう/これこそ、主の祝福を受けた一族」。
ここには、神さまの救いのお働きが、全世界に広がっていくことが示されます。
7節にあるように、ユダの人々を嘲り、恥ずかしめていた異教の国民が、ユダとイスラエルの復興、リバイブされることを通して、又その子孫によって「救いの神」を、認める時が訪れるというのです。
それは新約の時代に生きる私たちは言うまでもなく、その民の末にお生まれになった神の御子イエス・キリストによって、まさにクリスマスにより始められたのであります。
この主イエスの十字架と復活を通して、「良い知らせ」、神の救いの働きが、ユダヤ人だけでなく、全世界の人々に知られ、主を認める人々が起こされてきました。この第三イザヤの預言は確かに実現していくことになるのです。
今日は、「神の恵みの約束」と題し、御言葉を聞いていきました。
人の思いや考えというものは、たとえ信仰者であっても状況によって弱ってしまったり、萎えたりするものであることを知らされます。捕囚からエルサレムに帰還した民は、神の都エルサレム再建を願いながらも、荒廃した都と生活の苦しい現実の日々に、魂までも暗く沈みこんでいました。「霊的に貧しくなっていた人々の魂」。それは神の愛と恵みによる以外何をもってしても満たし得ないものでした。彼らの魂を本当に満たし、生かし得る力は、主ご自身から来るのであり、それに先立つ預言の言葉であります。
主が、御救いの良き知らせを忍耐強く預言者を通して語り続けられた。そのことは今も変わることがありません。
人は多くの財産や力、地位や権力といったものを土台とし、人生を築こうといたしますが。しかしそれらは移り変わりゆくもの、やがては衰え朽ち果てるものです。それらを得るために労苦するだけの人生は何と虚しいことでしょう。私たちが真の幸いと希望のある人生を築いていくためには、どんな土台を据えればよいのでしょう。それは「神の恵みの約束」、すでに主イエス・キリストによってもたらされ、今も完成の日に向かって成し遂げられ続けているその約束であります。
10節にこう記されています。「わたしは主によって喜び楽しみ/わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ/恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ/花嫁のように宝石で飾ってくださる」。
真の幸いと希望は主にあり、主から来ることに信頼し、主のみ体なる教会、エクレシアのつながりのうちに、私たちも又祭司とされて、主に仕えてまいりましょう。
「賛美の衣」「救いの衣」を主からまとわせていただいて、今週もここから遣わされてまいりましょう。