日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

救い主イエスの系図

2018-12-09 17:34:41 | メッセージ

礼拝宣教 マタイ1章1-17節 アドヴェントⅡ                            

今年はマタイ福音書からクリスマスの御言葉をともに聞いていきます。今日はその1章の前半に記されています「キリストの系図」の箇所であります。キリストは救い主の意味ですから、救い主イエスの系図という題にいたしました。

この系図は17節にありますように、アブラハムからダビデまでの14代、ダビデからバビロンへの移住までの14代、バビロン移住からキリストまでの14代と、3つの時代に区分されています。

最初の区分は、イスラエルの民族の起こりから、ダビデ王による王国の確立までの時代です。

さらに2つめの区分は、イスラエル王国の絶頂期を形作ったソロモンの時代から、ユダヤの国がバビロニア帝国に滅ぼされ、バビロニアの捕囚とされた苦難の時代です。そして3つめの区分に至ると、「ゼルバベル」以外は、旧約聖書に登場しない名前ばかりです。バビロン捕囚以後、幾多の試練の中で第二神殿再建を果しはしますが、その後も周辺諸国の支配と脅威にさらされ続けユダヤの人々は翻弄され続ける時代に呑み込まれていく暗い時代を示しています。

このように、イスラエルが生まれ、発展し、絶頂期を迎え、そして転落し、一時の平穏と暗い時代に至るそれらの歴史を貫くようにしてキリスト(救い主:メシアの意味)がいましたもうと、この系図は語りかけています。

又、「系図」と訳された原語は、ギリシャ語でビブロス ゲネセオースという言葉で「創造の経緯」と直訳できます。私どもキリスト者にありましては、先週お話しましたイエス・キリストにある「新しい創造の御業」を彷彿とさせます。

 

当時ユダヤの祭司たちは自分の誕生から250年前までの父系の系図を完璧に憶えていたそうです。その系図への強い思い入れというものは、イスラエル、ユダヤ人たちが長い間、祖国を失った状況の中で、系図というものが自分たちのアイデンティティーを維持する手段の一つになったからです。

今日のキリストの系図も、アブラハムの子であり、ダビデの子であるイエス・キリスト」とはじめられていますが。その系図はイスラエルの「信仰の父祖アブラハム」から始まり、さらにイスラエル建国の王、ダビデにつながっています。そこにユダヤの人々は自分が神から選ばれた「神の民」であるという存在意義を見いだすことができるからです。
しかし、今日の主イエスの系図はそんな彼らの誇り高き系図とは異なる一面が露わにされています。

先に言いましたようにユダヤでは父系の系図のみ覚えられるのですが、この主イエスの系図にはタマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻、マリア、と何と5人の女性が登場します。

その記載の特徴は、男性の方は「誰は誰を」もうけと記されていますが、女性の方は「その女性は誰によってだれをもうけた」というふうに記されています。
夫を亡くして寡婦となったタマルは、義父ユダの冷淡な態度に苦しみ、自分の存在意義をかけて遊女を装いユダの子孫を宿した女性です。彼女をそういった行動に向かわせたのは男性中心の社会構造にありました。

又、ラハブは、エリコの町の娼婦として生きざるを得ない女性でしたが、エリコの城壁を偵察に来たヨシュアの遣いの者たちが守られるように、ヤコブ書によるなら「その信仰によって彼らを助け」、後にサルモンとの間にボアズが生まれたということです。

そしてそのボアズがルツを迎え入れることとなるのですが。この女性ルツはユダの家系でない異邦人で、寡婦となってユダの地に住んでいましたが、異邦人で寡婦のルツには大変厳しいものでした。先のボアズが彼女を引き受け、二人の間にオベドが生まれたということです。次のウリヤの妻はバテシュバのことですが。ダビデ王の横恋慕うによって、夫ウリヤは殺され、バテシュバは召しかかえられます。その心痛は如何に大きかったことでしょうか。ダビデは偉大な王であり、多くの詩編の詩を残した信仰者であります。だからこそ系図の節目として記されているのですが、その失態が隠されないまま赤裸々に記されているのです。
4人の女性たちはそれぞれに悲しみや重荷を背負って生きていました。時に力をもつ男性たちの罪をも背負わせられながら、彼女たちは必死で生き、子どもを産み育てたのです。

人の世の間では、恥となるようなことは隠したい。立派な父方の系図の方がはくがつくということで、仮にそのような女性たちが自分の先祖にいたとしても、極力それを秘めたまま公表しないようにするでしょう。

ところがこの系図では、いわば人間のドロドロとした部分や問題が露わになるようなことが、これはもう敢えて記したとしか思えないような書き方がされているのです。

 

この当時のユダヤの宗教家や律法主義者はじめ、多くのユダヤ人たちは、この系図を見たらどう思ったでしょう。自分たちは「選ばれた民族の血筋」からお生まれになられるメシア「救いの王」なるお方ということでありますから、この系図を見た途端、きっと度肝を抜かれるくらい驚き、忌み嫌ったのではなかろうかと想像します。

救い主、メシヤの生まれるその家系に泥を塗るようなことをしたということで、もうこの時点で石が飛んできそうですが・・・。

しかし、マタイ福音書は、これを意図的に記した。そういった人々にこそ、この「系図」を示す必要があることを聖霊に導かれたからです。

 

彼らは自分たちは神から選ばれた者、律法に忠実で戒めを守り行い教え諭す優れたものであることを自負していたのではないでしょうか。問題は、その自分たちの内にある凝り固まったプライドや優越性が神の救いを受けることの妨げとなったことです。

彼らは、この系図に出て来るような罪深い人たちとは関係がないと思いたかったし、尊敬してやまない自分たちの父祖を辱めることは冒涜である、と思ったのではないでしょうか。けれども事実女性たちを追い込み、重荷を負わせたのは誰でしょうか?

 

立派な父、栄えある先祖と自慢したくなるような力と知識、地位や富をもつ男たちであるのです。それは先祖から自分たちのうちにも働いている力であり社会構造にあります。そして、そういった力や構造は今も私たちのうちにも働いているのでありますから、私たちも又、彼らと同様、神の前にあってその罪性をもった存在であるといえるでしょう。

キリストはそのどうしようない罪の、究極の救いとしてお生まれになったのです。又、この系図が示す希望は、そういった辛酸をなめなければならなかった弱い立場におかれた一人ひとり。又、バビロニア捕囚後の暗黒の時代をどう生きたか定かでないこの人たちもそうです。彼らが忘れ去られることなく覚えられ、しかもキリストとの系図に連なっていることにあります。

それはキリストが、こうした世にあって弱い立場におかれ心痛んでいる人びと、忘れ去られたような人々と連帯されるお方であるということです。

「連帯」というのは、同じ立場になることとは違います。

たとえば、借金をする際の連帯保証人は借金する人と文字どおり連帯化して責任を負いますが。その場合、連帯保証人は債務者と同じ立場であるなら、連帯保証人にはなれないのです。たとえば、夫が借金をするとき、妻は連帯保証人にはなれません。連帯保証人となれるのは債務者とは別の信頼できる立場の人です。

イエス・キリストが人の罪を返済しようにも返済しようのないどうしようもない私の罪を連帯保証人が身代わりになって返済するように、罪の贖いとして御自分を差し出された。そうして今の私たちはこのキリストによって新しく生かされているのです。もし、イエス・キリストが人間と同じように罪深いのならそれは不可能でした。

この系図の16節をもう一度よく見て下さい。

「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシヤと呼ばれるイエスがお生まれになった」。キリストは18節以降にある、ヨセフが迎え入れる前に神のご計画によって主イエスを身ごもったマリアから生まれたということであります。この聖霊の力により生まれたお方、神によって来られたお方であるからこそ、主イエスは罪と咎を抱える私ども人間と連帯され、その十字架を通して私たちの罪の贖いを成し遂げることがおできになったのです。

このキリスト・救い主の系図が示すように、苦しみや痛みを抱える人々、世の力によっておとしめられ、見捨てられ、忘れ去られている人びとに、神さまは連帯してくださる救い主をお与えくださったのです。

来週以降またお読みしますが、マタイはその救い主の名を、「インマヌエル」と呼びます。それは「神は我々と共におられる」という意味です。

私たちはこのアブラハムからなる神の民の実質的血筋とはいえません。しかし聖書は、そのアブラハムの祝福によって地上のすべての民族が祝福に入ること、さらにローマ書13章は「共におられる主、イエス・キリストによって、私たち異邦人も主イエスへの信仰によって、神の民としての祝福に接ぎ木された」といいます。私たちがどんなに小さくても、到底神の前に立ち得ない罪人であったとしても、救い主イエスによって神に立ち返る信仰に立つ時、この神の民の系図に接ぎ木され、アブラハムに約束された神の祝福を受け継ぐ者とされているのです。

ローマ4章13節以降にこう記されています。「神はアブラハムやその子孫に世界を受け継がせることを約束されたが、その約束は、律法に基づいてではなく、信仰による義に基づいてなされたのです。律法に頼る者が世界を受け継ぐのであれば、信仰はもはや無意味であり、約束は廃止されたことになります・・・信仰によってこそ世界を受け継ぐ者となるのです。恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼る者だけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。彼はわたしたちすべての父です。」

 

最後に、先々週、大阪キリスト教連合会主催の講演会が聖公会大阪聖パウロ教会で「カトリック教会の諸宗教対話」と題し、講師のロッコ・ヴィヴィアーノ神父からお話を伺いました。その中で興味深かったのは、第二バチカン公会議よりカトリック教会の諸宗教との対話思想が発展していったということ。もちろんそこには自らの信仰の立ちどころと証しをもって臨むことが前提であるということすが、その他宗教を信仰する人を尊重することが大事だと教えられました。天地万物の創造主は、世界の人類の創造主であられるということをキリスト者は知っているからです

私たちがそこで他宗教の方のうちにもキリストがおられ、神が光を放っておられるのを見出していくこと、それこそが大事なことではないでしょうか、とおっしゃっていた言葉がとっても心に響きました。

ヨハネ福音書1章9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのです」との御言葉を想起するご講演でした。

今日は「救い主イエスの系図」から、その奥義といいますか。主なる神さまの深い救いのご計画について御言葉から聞いてきました。

 

今日のメッセージを閉じるにあたり、ローマ10章12-13節の御言葉をお読みしたいと思います。

「すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです。」

 

救い主イエスさまの御降誕を待ち望むアドヴェントにおいて、まずこの驚くべき神の新しい救い、新しい創造の業が全世界にもたらされた、その福音の意義を覚えたいと思います。

又、私たちも主の祝福に接ぎ木された者として、神の救いのご計画のために用いていただけますよう、祈りつつ務めてまいりましょう。

今週も、今日の御言葉をもって、ここからそれぞれの持ち場へと遣わされてまいりましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする