礼拝宣教 マタイ1章18節~25節 待降節Ⅲ
全世界に与えられた救いの主イエス・キリストの守りを戴き、アドヴェント第三週の礼拝に臨むことができました幸いを感謝します。
今年も早いもので残り半月となりました。世間では恒例の、今年を象徴する一文字が清水寺の御住職さんによって書かれましたが「災」という字でしたが。確かに今年は災害の多い年となりました。
大阪北部地震、西日本豪雨災害、台風21号、北海道地震などが起こり、未だに日常の生活ができないでいる方々がおられます。一日も早い回復がなされていきますようお祈りいたします。東日本はじめ各地に復興のままならない地域が未だにありますが、必要な助けが与えられ、いやしと回復がなされますよう、引き続き祈りつつ、細々とではあっても支援を続けていきたいと思います。
この師走と呼ばれる12月は一年で最も日照時間が短い月で、日が明け、何かバタバタしていてあっという間に日が暮れていくというような感じがいたします。年末の仕事のおいこみ、道路は車の渋滞、街はにぎわって何かとせわしないわけですが。そういう中でアドヴェント、そしてクリスマスが訪れるというのは、慌ただしさに我を失うことなく心静まり、耳を澄まして神さまと対話していくように、というメッセージであるでしょう。
アドヴェントは、「救い主を迎え入れる」という喜びに与っていく時であります。
それはマタイ福音書によれば、ヨセフがマリアと自分には身におぼえのないその子を迎え入れることによって実現しました。
ヨセフが主の御言葉を聞き、受け入れ難い現実を受け入れ、「変えられていった」ように、私たちも又、聖霊のお導きのもとで、神さまの御心に聞き従って、祝福の系図に接ぎ木された人生を送りたいと願います。
本日の聖書箇所は、「イエス・キリストの誕生」という小見出しがつけられております。
はじめにこのイエスとキリストという名前の意味に触れておきますが。
「イエス」という名前は、もともとは、たとえば日本では太郎、花子のように、イスラエル、ユダヤでは一般的によくつけられていたようです。
その名がポピュラーであった理由は、ヘブライ語の名前の「神は救われる」という意味があるからです。多くのユダヤの人々は様々な苦境の中で「神は私たちを救われる」ということを祈り願いつつその子にイエスと命名したようですね。
もうひとつの「キリスト」という名前は、これはイエスさまの任務の名であります。
もとは「油注がれた者」というヘブライ語「メシヤ」から来ており、それがギリシャ語に訳され一般的になってキリストといわれるわけです。「神が任命され油注がれた、私たちを救って下さる王なる方」というのが、その意味であります。
「イエス・キリスト」という名前には、イエスは神から任命された私たちを救う救い主であり、王である神はこのイエスを通して救いを成し遂げられる、という奥義がその名に示されているのですね。
さて、そのような救い主イエスさまの誕生となれば、華々しく美しいエピソードを期待する、というのが世の人の求めるところでありましょうが。しかしここには救い主の誕生というには何とも理解しがたいことが記されています。
18節「母マリアがヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」。
結婚を前に、自分の身におぼえのないマリアの妊娠を知ったヨセフ。
その思いや動揺は如何ともしがたいものであったことでしょう。
このつらい現実を前に、ヨセフは神を畏れ敬う正しい人であったので、思い悩んだ末に、「マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」いたします。
彼は律法の規定に従いマリアを訴えることがきました。
けれども、そうするとマリアは石打ちの刑で殺され、その胎の子のいのちまで奪うことになりかねません。彼はそれだけは避けたかった。とはいえ、ヨセフはその正しさのゆえに、神の掟に反するようなものとなったと思える身重のマリアを、妻に迎えることもできません。
この板挟みの中で彼は思い悩み、考えに考え、これが賢明だというその結論が、「マリアとひそかに縁を切る」ということでした。
そうすれば、とりあえずマリアと胎の子の生命が守られるし、律法に反しないことになるだろうと考えたのです。
非常に厳しい現実を前に誰にも相談できず、その苦悩を自ら抱え込むしかなかったヨセフ。ほんとうに彼は孤独だったことでしょう。
そうした中で、主の天使が夢に現れてこのように彼に言うのであります。
『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである』」。
この主の天使のお告げは、5つのことを伝えているのがわかります。
第一は、「ヨセフがまぎれもなくダビデの子孫である」ということです。それはヨセフがイスラエルにおけるダビデの王位を継承する者であり、彼がイエスの法的父親であるということであります。
第二は、「恐れずマリアを妻に迎えよ」という奨め以上の神さまからの申しつけであります。
第三は、「マリアから生まれる子は聖霊によって宿った」。これは、神のご計画のうちに聖霊のお働きによって事がなっているということです。
第四は、「その子にイエスと名付けよ」。先にお話ししたように、それはヘブライ語で「イェシュア」;「神は救われる」という意味です。「神が救われる」ということが実体をもって人となる。すなわち私たちが「イエスの御名」を呼ぶことは、救いの神を呼び求めることなのです。
第五は、「その子(イエス)こそは、自分の民を罪から救う」という約束であります。歴史的にはダビデの子であり、聖霊によって生まれる神の子、人間にして神聖なる主イエスこそ、人を罪の縄目から解放し、救うお方であられる、というそれは宣言であります。
そうしてこの宣言は、実際にイエスさまの「十字架の贖いの御業」をとおして、実現され、私たち異邦人もまた信仰によって、主イエスの救いの民とされている。そのことを私たちは知っています。
そのように主の天使はこれらのお告げによってヨセフに「新しい道」を指し示されます。
それは律法の教えを厳守してマリアを断罪するという道でもなく、又マリアとひそかに縁を切るという人間的な配慮の道でもありません。
それは、主の御心とそのご計画に聞き、それを受け入れ、主に従っていく道であります。
まあ現実に、ヨセフがマリアを妻として迎え入れ、その出来事もろとも引き受けて生きることになれば、マリアもヨセフにもいろいろなリスクや世間の強い風当たりをもろに受けることになるでしょう。
それでも24節「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」。彼は自分の道ではなく神に従う道を選び取りました。
どうしてヨセフはそのような決断ができたのでしょうか。
それは「主が彼と共に、そのどうしようもないような彼の現実と共に、おられることがわかった」からです。
23節「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」。
ヨセフは「主なる神さまが共におられ、導いてくださる。インマヌエル、神が共におられる」そのことに目が開かれることによって妻マリアとその子(イエス)を迎え入れることができたのです。
それは人の力でできるものではありません。聖霊の力、信仰によって、彼はその生きるべき道をあゆみ出したのです。
始めに「イエス・キリスト」の名前についてお話をいたしました。それは「神は救われる・救い主」であるということでしたが。その神の救いは「神が共におられる」というあり方で実現されていく!これが今日の聖書のメッセージの中心です。
一昨日からこの教会堂を用いて「パクさんのリアカー」という朗読演劇ミュージカルの公演がもたれていますが。その劇のフィナーレの場面で最後の曲「幼い頃からさげすまれた彼の何が悪いの?その悲しみをひとり背負って愛を与えた」という歌を聞いた時、
イエスさまのご生涯と十字架が重なってき、主が共におられるお方として私たちに共鳴していて下さる喜びと感動が押し寄せてまいりました。
主は私たちと共におられることを現すため、インマヌエルの主となられるために自ら貧しくなり、さげすまれ、見捨てられ、最後には裏切られて十字架にかかるのです。
神の救いは、相手の罪を数えて責め、裁く仕方ではなく、その苦しみを共になさることによって、成し遂げられる救いです。その究極のあらわれは「イエス・キリストの十字架」、神の義と愛とが刺し貫かれた救いにございます。
クリスマスはまさにこのイエス・キリストが私たちの救い主となって世に来てくださったことに他なりません。
私たちはみなそれぞれに人としての欠けている点や弱さ、悩みや葛藤がございますが。ひそかにマリアと縁を切ろうとした初めのヨセフと同様、私たちもいろんな困難な状況になった時、自分の思いや考え方でのみ解決の道を探ろうといたします。
物事を想定して推し量ったり、人の計算や思考によって計ったりと、それをよかれと思ってなすこともあります。
しかしそんな時には、えてして過ちを犯すことがあるものです。又、人間的な心遣いや配慮は大事ですが。それを優先するあまり、シンプルに主に従うことを難しくすることもあるかも知れません。
ローマ信徒への手紙12章2節以降で使徒パウロは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりまさい」と記しています。
まあ、主の御心を知ってそれに従っていくことがほんとうに大切なことはわかっているけれども、それがなかなか分からない。それが私たちではないでしょうか。ヨセフもはじめはそうでした。
けれどだからこそ、聖霊の力、御霊の導きが必要なのです。
主イエスは「それを求めなさい。願いなさい」と何度もお語りになりました。
私たちはどこまでも、神の国と神の義を、聖霊の導きによって求めていかなければなりません。とことん祈り求めて、聖霊のお働きの中でヨセフは神の御心を示され、そして従いゆく者に変えられました。そこから本物の、希望も、愛も、優しさも配慮も生まれてくるのであります。
私たちも日々の生活において、課題と思えることがほんとうにいろいろとおありかも知れません。が、主はそのことを通しても、私の、私たちの主への信仰、立ち位置を正され、ゆるぎない祝福を受け継ぐ者へと導いて下さいます。
共におられるインマヌエルの主にかたく信頼しつつ、今日の御言葉をもってそれぞれの場へと、ここから遣わされてまいりましょう。