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クリスマス メッセージ

2018-12-24 20:36:22 | メッセージ

「救い主の誕生」マタイ2・1-12 

メリ―クリスマス、クリスマスおめでとうございます。アドヴェントの第一週から2週、3週、主イエス・キリストのご降誕を待ち望むキャンドルに灯がともされ、今日4本目の灯がともされました。そして全世界に与えられた希望の光、救い主イエス・キリストのご降誕を、こうして皆さまと迎えることができましたことを、心より感謝いたします。

マタイ福音書の救い主誕生の記事が読まれましたが。救い主の誕生は意外な人たちに知られ、祝われることになります。それはユダヤから遠い東方の、異国の学者たちでありました。

マタイ福音書は冒頭1,2節で「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』」と記します。

この新共同訳聖書でなく口語訳聖書の方では、ここのところをより原典に忠実に「イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った。・・・云々」と原語の「見よ」という言葉が記されています。

これは感嘆・驚きを表す言葉ですが、その「見よ」という驚きを表す言葉があることによって、聖書は「救い主がお生まれになったよき知らせを、最初に知り、拝むために捜しているのが、ユダヤの人びとではなく、外国の人びと、異邦人であった、そのことに対する驚きを物語っているのです。

なぜならユダヤの人々は選びの民、神の民です。祈り待ち望んだ民を救う王となる方が生まれたのなら、訪ねて礼拝すべきはユダヤの人々であるはずです。「しかし、『見よ』それは異邦人であった」ということであります。

 

その異邦人である占星術の学者たちは、口語訳聖書では「博士たち」と訳されておりますが。彼らは広く知られた天文研究者であり、この世界のすべての事象は天体の星など動きと深く係わっていると考え、研究していたようです。彼らの住んでいた東方には、バビロンやペルシャという国がございました。

その地は、ユダヤの人々がかつて長い間捕囚の民として暮らした地域でありました。

想像を膨らしますと、ペルシャの国の人々がそこに移住していたユダヤの人々を通して、メシアの預言を知るようになったのかも知れませんね。

いずれにしても、救い主の誕生を知り、拝むために捜していたのは、ユダヤの人々ではなく、意外にも異邦の人々であったというのが、この聖書の示すところであります。

日本人、まあ東南アジアに住むおおよその人たちは、キリスト教が外国、欧米の宗教だというのでありますが。聖書はそうはいっていないんですね。

イエスさまはユダヤ人の王であるだけでなく、異邦人の、世界の救い主、メシア、キリストとしてお生まれになられた」ということであります。

それは聖書の初めから預言者を通して語られ続けてきました。

このマタイによる福音書4章15節には、預言者イザヤを通して「ゼブルンの地とナフタリの地、湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」と言われたこの預言が、まさにイエスさまを通して実現されたとあるとおりです。神さまは、人類すべてが神ご自身に立ち返って生きる祝福に招かれるためにメシア、救いの主・イエス・キリストをお与えになられたのです。

天地万物を創造された神は、人類の最初の「人アダムを土の塵アダマから形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた人はこうして生きる者となった」と創世記2章7節に記されています。

アダムとは人類すべての総称です。人類はすべて「神の命の息」を吹き入れられて生きる霊的存在なのです。

伝道の書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に」とございます。

私は、もし私とこの世界とを創造されたこのお方を知らなかったら、どう生きていただろう。もし救い主イエスさまに出会わなかったなら、どんなに虚しくうつろな人生であったか。そして罪と死の絶望におびえ滅びる最後しかなかったのだろうと思います。

人間はすべて、神の命の息を吹き込まれた霊的存在であるということを、本当に知って生きることができるのならば幸いです。

たとえ「悪しき日が来たり、年が寄っても」、その魂、霊が神さまと共にある確信は、世にはない喜びと平安をもたらします。

東方の学者たちの大きな目的は救い主・メシアとしてお生まれになったイエスさまを拝むことにありました。それは単なる表敬訪問といったものではなく、「神の救いの顕れであるこの特別な王に是非とも会って礼拝したい」という期待でした。彼らが抱いていた「主なるお方を礼拝したい」という強い願いは、本来神さまによって造られた全世界の人たちに与えられているものであります。

先ほど申しましたように、それは私たちが神の命の息を吹き入れられた霊的存在だからであります。

人は様々なものを礼拝しようとします。金や銀、才能や知識、地位や名声。けれどもそういうものを神のように拝み、頼みとしても魂は決して満たされません。

いつもどんな時も、すべてのものを生み出し、導かれ、治めておられる創造主である生ける神さまを礼拝して、本ものの平安と喜びにあずかってまいりましょう。

さて、東方の学者たちはそのようにその子が神さまの特別なご計画のもとに生まれたことを知って、礼拝するためにやってきます。

彼らは世界を代表する、良き知らせ、福音の最初の使節団となりました。

 

一方聖書は、救い主、ユダヤの王がお生まれになったとの知らせを聞いた「ヘロデ王はじめ、エルサレムの人々も皆、不安を抱いた」と伝えます。

ヘロデは猜疑心の強い人だったようです。自分の王座を取って代られるかもしれない、と不安になったのでしょう。また、ユダヤの人々はメシヤ、油注がれた王の誕生を待ち望んでいたはずなのに、その知らせを実際に耳にしますと、それを受け入れようとしません。都、エルサレムの人々はローマの統治下にありましたが、比較的自由で特段困ることもなく生活できていたようです。「新しい王としてお生まれになった」との知らせに「この安定した生活が無事に過ごせたらよい。波風経つようなことは怒らないでほしい」と不安を抱いたのではないでしょうか。

 

ヘロデ王は東方の学者たちに「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも拝もう」と言います。しかしそれは、イエスさまを拝むためではなく、殺害するためでした。高慢というのはおそろしいものです。神さまの御心を拒み、なきものにしようとするのです。

エルサレムの住人の多くも、保身のため、自分を守ろうとするためにかえって本当に命を与えて下さる救い主を受け入れようとしないんですね。神の救いと栄光を拝することのできる信仰の柔らかな感性を培われる者となりたいと願います。

 

東方の学者たちに話を戻しますが。

そうして「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」と記されています。

東方の学者たちに与えられたこの喜びは、ギリシャ語で「メガス・カラ」それは英語で「グレート・ジョイ」:驚異の喜び、偉大な喜びを表すものとでも訳せるでしょうか。これと同様の喜びがマタイ28章8節のところにも記されております。それは主イエスが復活された、と天使によって知らされた女性たちが「恐れながらも大いに喜び」のその「喜び」が、この「メガス・カラ:グレート・ジョイ」なのですね。

救い主の誕生と復活。それはどちらも「主が共におられる」ということの顕われです。インマヌエル;神さまが私たちと共にいて下さる。ここに救い主を信じ待ち望む者のこの上ない喜びが満ち溢れるのですね。

 

さて、彼らがその「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」と記されています。
東方の学者たちが何とかお会いして拝みたいと願っていた救い主メシヤなる王と、彼らは遂に対面することになるのです。

そこは立派な建物ではなく、粗末な家畜小屋でした。そこには王座も王冠もなく、幼子には世に言う権力をもつ王としての風貌は何もありません。にも拘らず異邦人の学者たちは主を信じて礼拝するのです。
まあ、ロバや羊や山羊などのいる家畜小屋に、身分も立場も、国も肌の色も違う者同士が輪になってこの幼子イエスさまを囲んでいるという、何とも平和な風景、何とも暖かい光景であったように想像いたします。

イエスさまは、福音書の中で「だれでも幼子のようにならなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃっていますが。

この東方の学者たちはペルシャの国においてはまあ地位もあり、賢者でもあったわけですけれども、彼らは、まさに幼子のように、神とその救いを信じ受け入れ、喜び、拝するのですね。「真理」を探し求めていた学者たちは、学識や能力によってではなく、家畜小屋の中におられる幼子イエスの中に、神の救いを見るのです。
私共もそのような神への渇望と謙遜をもって神の栄光を喜び、拝したいものであります。


この東方の学者たちはこうしてそれぞれに最も高価な宝を主イエスに献げました。

黄金は、今でも変わらない高価な宝ですね。主イエスが世界の王の中の王であることを示しています。

乳香は、アラビア産の芳香のある貴重な樹脂です。礼拝を捧げる折その薫りがたかれます。そこに主イエスこそ真に礼拝すべきお方であるという事が示されています。

没薬は、最高の香料の一種であり薬でもありました。これは人の苦痛と死に際して用いられることから、主イエスの十字架の苦難と死が暗示されている、と解することもできましょう。

彼らがそれほどの貴い高価な宝をささげることができたのは、神の救いの恵みに対して、どんな宝にも代え難い価値を主イエスに見出し、喜びに満ちあふれたからであります。

彼らがそうすることができたのは、まさに最高のプレゼントをほかならぬ神さまご自身が先に差し出されたからです。

礼拝の招詞で読まれたヨハネ手紙一章4章9節。

「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

私たちを救うために、私たちが新しくされて生きるようになるために、神がその愛をお与え下さった救い主イエス・キリスト。それも神さまは「わたしたちの罪を償ういけにえとして独り子なる主イエスをお遣わしになったのです。こんな偉大な愛のプレゼントが他にあるでしょうか。これこそがクリスマスのこの上ない喜び、恵みなのです。

 

さて、そうして幼子のイエスさまを拝した「彼らはヘロデの王宮には戻らず、別の道を通って自分たちの国へ帰っていった」とあります。

 

彼らの前には2つの道がありました。世の力に戻る道と、神に従っていく道です。

そのどちらを選ぶかを神さまは私たち自身に委ねられています。

最後に、これまで何度もクリスマスの折にお話ししていますように、「クリスマス」はキリストのミサ。「キリストの祝祭」という意味です。救い主であるキリストがわたしたちのために人間の姿となっておいでくださった。この神さまのすばらしい愛の贈り物主イエス・キリストを喜び祝う。これがクリスマスの原点であります。
さらに、「ミサ」は「礼拝」と「派遣」という意味を持っています。キリストは世界のあらゆる国、民族を越えた救い主としておいでくださった。この喜びの知らせ、福音を聞いて受け取った者は、「キリストを礼拝し、主の福音の使者と派遣されていく」ということですね。東方の学者たちは、そこで観た神の救いとその栄光をかの地で証しし続けたことでしょう。

その東方の学者たちのように、今日救い主を礼拝した私たちも又、神に従っていく道を通って、生ける主の証し人とされていきたいですね。
この聖書が告げる全世界の「救い主の誕生」の知らせに、私たちも喜びあふれる思いをもって、それぞれの場所へと遣わされてまいりましょう。祈ります。

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