「ほんとうのクリスマス」
メリークリスマス。救い主イエス・キリストのご降誕を心より讃美いたします。この時期は街並みがきらびやかなイルミネーションで彩られ、到るところでクリスマスキャロルやゴスペルが流れておりますが。
以前京都の教会のある牧師さんから伺って驚いたのですが。この方の町で一番きらびやかなクリスマスイルミネーションは、どこだと思われますか?
教会でも、又、百貨店でもなく、近くにある、何と神社だそうです。ここまできたのかと思わされましたが。
私たちの教会の2階のテラスからは派手ではない清楚なイルミネーションのライトが暗くなれば自然に点灯するようになっているのですが、この灯りは暗闇が深ければ深いだけ輝きを放っています。神さまの恵みの光もそのようであります。暗闇の中でこそ、深い愛とその救いの輝きを人はさやかに見出すことができるのではないでしょうか。
さて、先ほど、のキャンドルサービスの中で、救い主に関する旧約聖書からの預言が朗読され、又、その成就である救い主イエス・キリスト降誕の記事を、新約聖書のマタイとルカの福音書から聞きました。
この救いは、ユダヤから始まって全世界にもたらされるものであることが、神によってご計画されていたのです。そうして遂に、救い主イエスさまがお生まれになろうとしていた時の状況ついて、聖書は「宿屋には彼らの泊る場所がなかった」と記しています。
住民登録のため各地方からエルサレムに上って来る人たちで町はごったがえしていて、どこの宿屋も満室でいっぱいであったのでしょう。
ごったがえして満室といえば、ここ大阪でもホテルを取るのが近年大変難しいほど海外から来日される方が多くなっています。この天王寺の街も、大きなキャリーバックを引いて歩く方が多く見うけられ、様々な言語が飛び交って活気づいていますが。
聖書には、まあ、そのように人々のごったがえす中で「彼らの泊る場所はなかった」というのです。
しかし、これは単に宿泊所が不足しているという問題ではありません。
神の救い、主イエス・キリストが世に来てくださったというのに、世の人々に受け入れる余地がなかったということです。それは現代における経済や効率性を第一に優先させていくような社会の中で、大人からこどもまでもが能力主義や競争に追いたてられ、ともすれば我を失うほど忙殺されるほどになっている今の社会の状況と重なるように思えてなりません。
まあ、そのような世の人びとの慌ただしさ、生活のただ中に神の救いである主イエスさまがあえてお出でになったという事実は、まことに感慨深いものがあります。
クリスマスはまさにそのような私たちに向けて贈られた神からのプレゼントであるのです。
ですから、このクリスマスの時に、より多くの方が、慌ただしさの中にも立ち止まり、神の救いを見出すことこそ神さまの御心といえます。
さて、クリスマスの良き知らせが最初に届けられたのが、昨日の礼拝では東方の学者たち、いわば神から選ばれたユダヤの人々ではない異邦人であったということをマタイ福音書から聞きました。
又、ルカ福音書では当時のユダヤの社会から律法を守ることすらできない者、とさげすまされていた羊飼たちであったと伝えます。
定住の家はなく、羊を預り昼夜を問わず野宿生活であった彼らも又、泊るところ、宿るところを持つことのできない人たちでありました。
居場所があるというのは単に立派な建物や家があるということではありません。いくら立派な建物や家があっても居心地が悪く、居場所がないという人も大勢いらっしゃいます。
不思議な事に羊飼いも、異国の学者らも、神の救いが薄暗い家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされた赤ちゃんによって実現されることを信じることができました。それは彼らもまた真の居場所を求め、必要とする人であったからです。主イエスはおっしゃいました。「貧しい者は幸いである。神の国はあなたがたのものである」。
彼らはそれだからこそ、みすぼらしい家畜小屋で、世には小さなマリアとヨセフのもとに生まれた葉桶に寝る赤ん坊に、神の栄光を見出すことができたのです。
「救い主が私たちと共にいる」。ここに人に本物の平安をもたらす真の居場所がございます。
さて、私は小さい頃クリスマスの日って、サンタクロースからプレゼントがもらえる日だと思っていました。みなさんの小さい頃はどうでしたか。でも、なぜその日にプレゼントがもらえるのかと考えたことはありませんでした。
私は小学4年生の頃に、学校の友達に誘われて教会学校に通うようになりました。その時代、取り巻く社会や家庭環境から自分の心は結構荒れすさみ、自分の居場所がどこかを探し求めていました。そこで12月に行われたクリスマス聖誕劇(ページェント)で、クリスマスは救い主イエス・キリストがお生まれになられた事を記念する日であることを知ったのです。
しかしそれはまだ自分とは関係のないことのように思えました。それからも教会学校に毎週のように出席するようになり、中学生になると少年少女会に入り、同級の友だけでなく高校生のお兄さんやお姉さんたちとも交流する機会があり、教会のこと、信仰のこと、学校や友達のことなど語り合えたことが、徐々に私にとってほんとう有意義なものとなっていきました。
そうして、遂に私は高校1年のイースターの日にイエス・キリストを自分の救い主として信じる告白をし、バプテスマ(洗礼)を受けたのです。その時、私は神さまからのクリスマスプレゼントを受けとることができたんですね。
神さまは、暖かく自分を迎え受け入れてくださった教会の方々を通して、私にかけがえのない居場所を与えてくださいました。どんなに高価なプレゼントをもらっても、それはいつか朽ち廃れるものです。
けれども、神さまからのプレゼントは決して朽ち廃れるものではありません。それどころか、世の物では決して得ることのできない「永遠の命」につながる素晴しい喜びを与えて下さいます。
聖書が主のご降誕のクリスマスの年月日を正確に記していないのには訳があります。
それは確かに歴史上起こったことですけれども。しかし、わたしにとってそれが「ほんとうのクリスマス」となるのは?
それは、この「わたし」が、「あなた」が、あの名も無き羊飼いたちのように心から救い主イエス・キリストをお迎えする時、実現します。わたしのクリスマスとなるとき、それが「ほんとうのクリスマス」になるのであります。
今日という一生に一度しかないこの日に、心新たに、神さまの素晴しいクリスマスプレゼントを受け取りましょう。