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希望の約束

2022-04-17 14:15:07 | メッセージ

イースター礼拝宣教 マルコ16章1~8節 

                                       

救いの主、イエス・キリストのご復活を記念するイースターおめでとうございます。

教会歴ではクリスマス、聖霊降臨のペンテコステとともにイースターは大きな祝祭の一つです。
そのような祝祭にあって、ロシア政府と軍によるウクライナへの侵攻から2ヵ月が経とうとしておりますが、未だ停戦の目途も立たず、その影響が世界にも及んでいます。ウクライナでは無残にも亡くなられた多くの市民の遺体が放置され、いたたまれない思いです。

人類の罪をその身に負って十字架におかかりになられた神の子イエス・キリスト。救い主、イエス・キリストは今日もすべての人間が創造主、命の源であられる神に立ち帰り、神との和解に与って生きるようにと、とりなし続けておられます。

 

本日は、先週の受難週の「主イエスの十字架の受難と死」の記事に続き、「主イエスのご復活」についての記事から、「希望の約束」のメッセージを聞いていきたいと思います。

 

イエスさまが埋葬されて3日後、主イエスの復活の知らせを最初に聞いたのは先週の箇所にも登場した女性たちでした。最後までイエスさまに仕え、イエスさまが十字架にかけられて苦難の末に息を引き取られていくのを遠くから見守り続けた正にその女性たちでした。

一方、主イエスのペトロはじめ弟子たちは皆、「何が起ころうと、あなたにどこまでも従います」と豪語していましたが、イエスさまが捕えられると、逃げ去り身を隠していました。


さて、「週の始めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐに、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメの3人の女性たちは、イエスさまに油を塗るために香料を買って墓に行った」と記されています。パレスチナ地方では人が死ぬと目を閉じてから、身体をきれいな水で洗った後、香料を塗って葬るという慣習がありました。
イエスさまが息を引き取られたのは、金曜日の安息日が始まる日没前の午後でありましたので、安息日の間の金曜日没から土曜日没までは規定により出歩くことができなかったのです。そのため日曜日の明け方になったわけです。
金曜日の主イエスが十字架から降ろされた後、アリマタヤのヨセフという身分のある議員が自ら申し出て、その遺体を亜麻布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納めた、とあります。ユダヤの議員の中にもイエスさまを敬愛していた人がいたのですが。安息日が間近に迫っていたので彼も遺体を埋葬するのに手いっぱいで、香料まで塗るいとまがなかったのでしょう。この間女性たちは事のなりゆきを見守るほかありませんでした。この女性たちはせめてイエスさまに香油を塗って葬りの備えができないものかと切に願い、安息日明けの日曜日の朝早くからイエスさまのご遺体の納められている墓にいそいそと向かうのであります。イエスさまの死からまだ3日。彼女らは心神喪失ともいえるほどの状態であったに違いありません。

重い心で墓に向かう彼女らには1つの心配事がありました。それは、「だれが墓の入り口をふさいでいる大きな石を転がしてくれるでしょうか」ということでした。

墓の入り口は女性たちの力では到底動かせない大きな石で塞がれていたからです。それでも何とかイエスさまのご遺体に香油を塗ってさしあげたいという一心で彼女らは墓に向かったのです。

ところが、いざ女性たちが墓の入り口に着いて目を上げて見ると、石は既にわきへ転がされてあったのです。マルコの福音書には、「転がされてあったその石は、非常に大きかったのである」とあるように、当時のお墓は岩を掘った横穴に大きな円盤状の石を立て掛けるようにして蓋がされていたのです。マタイの福音書には、「イエスさまが埋葬された墓の石の上にさらに封印がされ、番兵がおかれていた」とあります。

まあ、そのように厳重な警備と封印のされた墓がどういうわけかすでに開かれ、番兵の姿はどこにも見当たりません。


女性たちが一体何が起こったのかと墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っていました。彼女らはそれを「見て、ひどく驚いた」とあります。無理もありません。

すると、その若者は女性たちにこう言います。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。」
「驚くことはない」と言われても、そりゃあ動転するでしょう。墓は開いており、番兵の姿も無く、墓の中に入ると、そこに埋葬されているはずのイエスさまは見当たらない。代わりに見たことのない若者が座っていて、神の使いのような白い衣を着ていて語りかけてくるのです。

女性たちにとってショックだったのは、何と言っても「イエスさまがいない」という事実を目の当たりにしたことです。

たとえその青年が天使であって、「イエスさまは復活された」と聞かされても、「わぁ、そうですか、うれしい」とはいきません。あまりに無残なイエスさまの死にゆくお姿を目の当たりにし、心引き裂かれるような思いをした。そこに、イエスさまがいない、というありえない事が起こったのです。自分ではどう気持ちを整理してよいのかもわからない状態。たとえ天使にそう言われても、返事もできない。いわばパニック状態に彼女たちは陥っていたのではないかと、想像することができます。

女性たちはさらにこの若者から、「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」と」、そのように伝言を受けるのでありますが。

なにしろ心身喪失の状態である彼女たちは、「墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」と、ありのままに聖書は伝えます。

「イエスさまが復活された」という素晴らしい喜びの知らせも、そのような心の状態であった女性たちには届きません。それはリアルな彼女たちの実際の状態でありました。

しかし、実に、この出来事から復活のキリスト、神の福音の御業が始まっていくのです!

先週は主イエスの十字架の箇所からお話しました。
イエスさまが十字架上において、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言われて、最期は絶叫されて息を引き取られた。そのお姿は無残な死そのものでありました。しかし、それはすべての人間の苦悩と叫びに、「神我らと共に居ます」お姿なのです。ほかでもない神のひとり子が生身の人間となって、私たち人間の闇の深淵にまで下り、その最も深い所からの叫びを共にしてくださっている。その神の慈しみ、愛のお姿であられるのです。

イエスさまの十字架刑の指揮をとるため、そばにいたローマの百人隊長はそのイエスの最期を見て、「本当に、この人は神の子であった」と言いました。彼もまた、何か鮮やかな奇跡の中にではなく、暗闇の只中で神に絶叫するイエスの姿に、人の苦しみ、死の悲しみに共鳴する神を見たのです。

 

この女性たちのように、私たちにも、もう何がなんだか分からないようなひどい驚きと恐れに震撼するようなことがいつ起こるかも知れません。私たちが生身の人間であるからです。

しかし、その嵐のような日々が通り過ぎた後で、「あの時、あの聖書の言葉に支えられていたんだなぁ」「祈られ、守られて、導かれてきたんだなぁ」と知らされます。これこそ、主が共におられる生きた体験のあかしです。私たちはそういった歩みを通して、実に神が共におられる。神は愛であられるという経験を日々させて頂いているのです。主イエスは正にそういうお方として、私たちと共にいてくださるのです。

その白い衣を着た若者は確かに伝えました。

『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』。これこそ、復活の主イエスとお会いできるという「希望の約束」です。

「ガリラヤ」。そこはかつて弟子たちが主イエスと出会われた場所。悲喜こもごもの日常が交差する生活の場であります。「ガリラヤ」は、エルサレムの都から辺境の地、「何の良いものが出ようか」と人々から見下されていた地。差別や偏見を受け、貧しく小さくされた人たちと主イエスが共に喜び、共に泣いて、神の国の訪れを分かち合われた場です。


白い衣を着た若者は女性たちをとおして、「弟子たちとペトロに、そのガリラヤで復活のイエスさまにお目にかかれる」と告げています。
弟子たちはイエスさまが捕えられると散り散りに逃げてしまいました。しかし、主はそのような弟子たちを決して見捨てられることなく、「ガリラヤで再び会おう」とおっしゃるのです。何という幸いでしょう。

又、ここでペトロを名指しなさいます。それにはわけがありました。

この時、ペトロは深い自責の念に駆られ、絶望の淵に陥っていました。あれほどどこまでもイエスさまに「従います」と言っておきながら、イエスさまを3度も知らないと言い放って否定した自分のふがいなさ、その罪深さに自分を責め続けていたペトロ。

しかし復活の主イエスは、そのペトロに、「はじめにあなたと出会った場所、出発の地『ガリラヤで待っている』」と伝言なさるのです。ガリラヤはペトロや弟子たちが最初に主イエスから召命を受けた地です。そこに主イエスが先立ってくださり、そこで再会できるというのです。ペトロはじめ弟子たちが主に立ち帰って新たに生きる場所、そこがガリラヤなのです。そこから彼らの確かな神のご計画、主の証し人として生きる人生が始まっていくのです。

復活の主は私たちのガリラヤ、悲喜こもごもの日常のいとなみの中に先立ち、そこで待っておられます。「かねて、言われたとおり、そこでお目にかかれる」。

私たちも又、この希望の約束に生かされて、今週も救いの主の証し人として、それぞれのガリラヤへ遣わされてまいりましょう。イースターおめでとうございます。

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