日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

救いの神をほめたたえる生

2022-07-03 14:45:27 | メッセージ
礼拝宣教(神学校週間終日)  エフェソ1章3-14節 

今年も半分が過ぎましたが。戦争、物価高、コロナ不安はじめ、様々な問題が社会全体に渦巻いています。私たちの生活も変化が伴い身近な問題も絶えることがありませんが。
そういう中で私たちはすべての創造主であり、いのちであられる主なる神の御前に集い静まります。すべてを司っておられ、いつくしみ深い救いの神をほめたたえる礼拝をささげることは、私たちの生きる力の源です。

本日の箇所の3節で、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」と記されています。
この世界では富や金銭、名誉、権力、成功、欲求が満たされる事などが祝福された人生のように映りますが。しかし、そういったものを得ることが必ずしも幸福度の値になるわけではあいません。
神に背を向ける人生は不安、恐れ、妬みや不満は尽きず、一体この虚しさはどこから来るのかと、得体の知れない思いに取りつかれる人もいるでしょう。本来人間は、神が与えられる「霊的な祝福」によってのみ満たされる存在なのです。

では、その「霊的な祝福」とは何でしょうか。
第1にそれは4節を読みますと、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになられました」とあります。
主イエスご自身もおっしゃったように、私たちが神を知る前から、神が私たちを愛し、神が私たちをお選びになられた、という驚くばかりの「祝福」であります。
水曜日の聖書の学び会の折に、ある方が「天地創造の前からと、私はこのような聖書の言葉があることを初めて知り、ほんとうに感激しました」と、おっしゃいましたが。まさにそうですね。
ここでいう「選び」とは、私たちが認識している人間的な選びとは全く異なるものです。
人間の選びは、その時その時によって変わります。1度選んだのを別の都合が生じるとそれを捨てたり手放したりして、また違うものを選び直したりする。そういった変わりゆくものです。
しかし、神さまの選びは、一度選んだものを何があっても決して捨てたり、手放したりはなさいません。人が離れるとするなら、人の側が離れるのであって、神さまはその選びを最後まで引き受けてくださる。それが神さまの愛とゆるしによる選びなのです。
「天地創造の前に」、神さまのご計画によって私たちは神さまに愛されて、この世に生を受けるものとされたのです。
私たちのいのちの源、そのルーツが、この「神さまの選び」にあるということを思う時、世では得られない平安、拠り所となる「霊的な祝福」によって確かに私たちは満たされます。

「霊的な祝福」の第2は、7節にありますように、神が「御子イエス・キリストの血によって罪人を贖われ、罪を赦された」ということであります。罪には死という代価が伴います。しかし、神は深く憐れんで御子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとされました。神はたとえ選ばれた者であっても、罪にからめとられて生きるなら、もう関係ないと捨て去られてもおかしくないのです。しかし神はゆるしの道を開いてくださり、選びを全うされます。その神の愛とゆるしを知って、立ち帰って生きる者を「霊的な祝福」が満たすのです。

先日ある「宣教のニュース」の記事に目が留まりました。
ドイツ国際ギデオン協会では、ウクライナ避難民のために70万冊のウクライナ語聖書が発注印刷されたそうです。「戦争勃発以来、ウクライナ語の聖書を求める声が教会や聖徒たちから非常に高まっている。それはウクライナ避難民に届けたいからである」ということであります。
以下そのままお読みしますが。「南東欧宣教会の所長は、次のように語っています。「このような聖書需要の高まりは、ウクライナ戦争によって始った。しかしそれは、現代のクリスチャンへの呼びかけでもある。ウクライナの戦争は現代のクリスチャンが霊的に目覚めるよう、神からの呼びかけでもある。誰も苦難や痛みを望む者はいないが、神は痛みや苦難を通して開眼するよう願っておられる。なぜなら最近のキリスト教会は、豊かさと繁栄ばかりを求める傾向にあるからだ。」
この記事は今日の教会、私たちに向けられたメッセージです。
戦争、貧困、飢餓などが人間を悲惨な状況に追い込んでいくことは確かですが、しかしそのように人間を惨めにさせる抜本的な原因は、創造主、いのちの源であられる神さま抜きに、世の富、繁栄を追求し、真理といのちの尊厳を蔑ろにする的外れな人間の生き方にあります。それが結果として人間を闇の支配下のもとにおき、滅びに至らせるのです。

しかしパウロは、福音のために自らそのような世の力の囚われの身とされながらも、「御子イエス・キリストの血による贖いのゆたかな恵みと希望を次のように説き明かします。
10節「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」
ここにはキリストにおいて、全被造物が神の和解へと招かれ、遂に救いの完成に至るという驚くべき神さまのご計画の奥義が語られているのです。それは私たちの想像を超えるような事柄ですが。全被造物がキリストにあって、創造主なる神との関係性の全き回復に与り、一つとされるまさに全宇宙規模の和解、福音であります。

「霊的な祝福」の第3は、11節「キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。」
この「約束されたものの相続者」とは、神の御救いを信じて生きる者が、神の御国を受け継ぐ者とされているということです。肝心なのはそのことが神さまの御心として、「前もって定められている」という点です。
それは先にも申しましたように、主イエスが「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)とおっしゃったその選びであり、さらに「それはあなたがたが出かけて行って豊かな実を結ぶようになるためである」という、そのような恵みの相続人であるようにということです。
13節には「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして、信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」とあります。
この「聖霊」は、神の御国を受け継ぐための証印、神さまからの太鼓判であるということであります。その聖霊の証印を受けている者の証しは、日々キリストが共におられる生きた信仰の確信のもと祈りと御言葉に生かされ、この地上にあって神の御国に与っていく人生を歩んでいく者とされているということです。

最後に、本日の箇所には4度も繰り返し強調されている言葉があります。
それは、3節「神は、ほめたたえられますように」、6節「神の恵みを、わたしたちがたたえるためです」、12節と14節「神の栄光をたたえるためです」と、ありますように、「救いの神をほめたたえる」ということであります。
そこに、私たち人間が、神によって造られ、生かされている目的とその証しがあります。
その根底には、4節の「天地創造の前に、神が私たちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」という御言葉がございます。

先の、ウクライナからの避難民の方がたに、聖書を印刷してお配りする働きが盛んになり、聖書需要が高まっているという報告は、まさに、人として極限とも言える状況下で身も心も傷つき、痛み、多くのものを失なうという実に厳しく、辛いその時に、いやそのような時だからこそ、聖書は必要とされ、まさにそこに救いを見出そうとなさる方が多くおられることを知らされます。
それは、すべてのいのちの源なる神に揺るぎない和解と平安を求め、立ち帰っていこうとする人間の根源的な欲求を表わしているように思えます。

大阪教会の玄関先には教会案内やトラクト等を入れるボックスがありまして、そこに最近小型の新約聖書を数冊ずつ入れおきしているのですが。それが毎日減っていきます。手渡しするよりも今必要を覚える方が御自分で取っていかれるので、いいです。
長いコロナ危機、戦争、さらに物価高による生活苦、孤独の問題など様々なことが起こっていますが。そこで本当に人間とは何者か。人間はどこへ向っているのだろうかと、その問いの中で真摯に救いの神と出会われ、この地上のものでは決して埋めることのできない神の祝福で満たされてく方がおこされていくようにと、願うものです。
今日は神学校週間の最終日の礼拝として、「救いの神をほめたたえる生」と題し、御言葉から聞いてきました。いのちの御言葉が与えられていることは何よりも、大きな力、支え手であります。
今週も主イエス・キリストにおいて満ち溢れる救いの神をほめ讃えつつ、歩んでまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする