日本バプテスト大阪教会へようこそ!

教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

敵意という隔ての壁を壊して

2022-07-10 12:34:25 | メッセージ
礼拝宣教 エフェソ2章14~22節

先週の金曜日は元首相の安倍氏が選挙演説中に銃撃されて亡くなるという衝撃的な事件が起こりました。銃規制のあるこの日本でまさかそれも公衆の面前で起ころうとはと、この国の平和と民主主義が脅かされたいたたまれない思いになられた方も多くおられたのではないかと思います。社会の中に不満や不平があるといっても、こうした非道な行為は許されるものではありませんし、断じてあってはならいことです。                                本日は参議院議員選挙の投票日です。すでに期日前投票をされた方もいらっしゃるかもしれませんけれども。一方で、日本を生活の場として住まわれ、税金を納めていながらも参政権が与えられていない海外からの移住者の方がたがおられます。参政権があればきっと切なる思いをもって一票を投じられるのではないでしょうか。この国で平和に暮らしたいという願いはだれも同じです。
一昨日の新聞の「記者の目」というコラムに、専門編集委員が「ゼレンスキー氏は英雄か」というタイトルのもと、「政治指導者の責任と国民の態度」について書かれた記事に目が留まりました。「ゼレンスキー氏は高校教師が突然大統領になるテレビドラマ「人民のしもべ」で人気を博し、番組と同名の政党を作って一気に大統領選を制した。内戦が続き、反露と親露の両極端に揺れる現実政治に疲れた有権者は、ドラマの続きを見る気分で沸いた。ポプュリズムの典型である。「和平・中立」の選挙公約は大統領就任後、無責任といい、すぐに反露に変った。ロシアの非道に憤るウクライナ人の心情が大統領支持に集まるのは無理もない。米国は戦争を終らせるより、法外な資金と武器を投入して長引かせることに利益があるという冷徹な疑いが根強くある。」まだまだ記事は続きますが、以降は割愛いたします。その続きは掲示版で御覧下さい。              非道で不誠実がなぜ生じていくのでしょうか。大きな戦争の火種が実は人間の心の中に潜んでいるのかも知れません。尊いいのちがこれ以上暴力によって失われることがないように。又、憎しみと敵意の連鎖が一刻も早く絶たれるようにと、切に祈るばかりです。

先ほど本日の聖書の箇所が読まれました。ここから「隔ての壁を取り壊して」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。
14―16節をもう一度お読みします。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」
ここに平和ということが語られていますが。この平和は、「キリストの平和」によりうち立てられたのであります。                                    人の思いは「目には目を、歯には歯を」、敵意には敵意を、暴力には暴力を、となるのかも知れません。しかしそれでは延々とその連鎖が絶たれることはなく、恐れと不安、萎縮が人間を覆うことになっていくでしょう。
聖書が指し示す平和は、キリストが十字架において敵意という隔ての壁を取り壊して、対立するものを一つとしていく和解であります。                           ここにある二つのものを一つにの「二つのもの」とは、前の11-13節を見ますと具体的には、自分たちこそ選ばれた神の民だと自任するユダヤ人と、キリストに出会うまで神を知らなかった異邦人(小アジアに住んでいたエフェソの人)を指しております。
ユダヤ人は神から選ばれた民というプライドがあり、異邦人を律法の掟を知らず守れないものとして排除し、見下していました。そこに敵意という隔ての壁が生じていったのです。        
「律法」そのものは旧約聖書の時代から神と人、人と人の関係性が大切にされ、民が祝福を受け継いでいくための神の掟、戒めでありました。それ自体は民を生かすもの、良いものなのです。しかしユダヤの主にファリサイ派の律法学者たちは、その律法を自分たちの所有物のように扱い、自ら誇り高ぶっていたのです。彼らは律法を占有し、自分たちの優越性を確証する手段としていたのです。「律法」を身勝手に捉え、それが守りづらい立場にある人々を見下し、敵意という隔ての壁を作っていたのです。
ここに、キリストは「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊された」とあります。    
福音書の中には、主イエスが異邦人、又律法を守ることができない罪人とみなされていた人と一緒に食事や交流を持たれたことが記されています。一方、律法に厳格なファリサイ派の人とも食事を共にされました。彼らは主イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をし、交流されることがどうしても許せず、「どうして、彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(マルコ2:16)と問い質すような場面も記されています。                                主イエスはそういったファリサイ派の律法学者の批判をよそに、徴税人や罪人と食卓を共にされます。さらに異邦人との交流も持たれます。それが、イエス・キリストが体現なさった平和でした。
そのイエス・キリストの平和は文字通り、すべての人を罪の滅びから贖い解放された、その神の救いによって打ち立てられたのです。キリストによってもはや男も女もなく、奴隷も主人もなく、異邦人とは呼ばれない。神は分け隔てなさらない。このキリストの平和が訪れたのです。しかし、それは未だ完成されてはいません。
ここを読む時、ユダヤのファリサイ派の律法学者が持っていた「敵意という隔ての壁」は、彼らだけではなく、私たちの中にもそうした壁を作ってしまうものではないでしょうか。だれが「敵意という隔て」など1つもないといえるでしょうか。ファリサイ派の律法学者が徴税人や罪人、異邦人を拒絶し、排除しようとしたように、私の思いや態度が壁を作るようなことをしていないだろうか。そういうことを今日の聖書の言葉はわたしたちに向けて問いかけているようにも思います。   
パウロはこう言います。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」「実に、キリストがわたしたちの平和である」のです。                 
「平和」とはギリシャ語ではエイレネー、ヘブライ語ではシャロームです。どちらも戦争のない状態だけを意味するのではありません。シャロームはユダヤでは日常の挨拶として交されている言葉ですが、それは「あなたに平安がありますように」という神との関係性における平和を覚えることなのであります。又、このシャロームには、単に波風を立っていないということを意味していません。以前、中高校生たちのスマホのSNSが同調圧力となっていじめや仲間はずれの要因になっているというお話を精神科医の専門家の先生から伺いました。そういった同調圧力に沈黙し、口を閉ざすことがさらにいじめを助長し増殖させてしまうことになっていきます。そういったことは小さなグループだけでなく、あらゆる組織や団体、国においても言えることでしょう。周りの風潮に流されず、間違っていることには「間違っている」と言うことが出来る社会、違いを尊重しつつ対話できる関係性が築かれていくことが、平和を築いていくことにつながっていくのです。
平和を表わすヘブライ語のシャロームには、「元の完全な姿への回復、帰還」という意味があるそうですが。それは、創世記の1章の「神がよし」と言われた、まさに祝福された世界が取り戻され回復されていくこと。又人も又、御自分の似姿として造られたその姿に回復されていくことを意味します。慈愛の神のもとに立ち帰っていくところに、真の平和、シャロームが表れてくるのです。
さて、そういった真の平和、シャロームの雛型となって然るべきキリストの共同体ですが。古い習慣や敵意という隔ての壁がシャロームの表われを妨げます。                 
パウロは18節で、「そこで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に結ばれることができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」と和解を求めます。                   
世には様々な人種や民族、立場などの区別がありますが、主なる神と出会い、神の愛に生かされていることを知り、主に繋がっている者は、聖なる民に属する者であり、神の家族なのであります。
この地上において家族といえば肉親や血縁からなる関係といえましょう。しかし主イエスは「わたしの父の御心を行う者こそ、わたしの兄弟、又姉妹なのだ」と言われました。聖書が告げる神の家族とは、属性や血縁によらず、神の救いと愛に生かされている者の共同体なのです。       
主イエスはこの地上で素晴らしい関係性のお手本を示されました。すべての源である主なる神との関係性はもとより、国や民族の違い、性差、社会的地位や物質的貧富で偏り見ることなく、分け隔てなさいませんでした。                                 とはいえ私ども信仰者といえども、隔ての壁を取り除くことは容易ではないでしょう。そこに十字架の和解の福音から目を離すことなく、御言葉を聞き続ける必要があります。          
これからの時代の先行きについては見通しがつきにくく、混迷を深めていくかも知れません。しかしキリストの教会には終わりの時まで決して変わらないもの、動かないものがあります。     
主イエスは「天地は滅びても、わたしの言葉は決して滅びることはない」と仰せになりました。その御言葉とは、神と人、人と人の和解のため十字架にあげられた主イエス・キリストです。
12節に「そのかなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります」とあります。              
「要」というのは、扇子の骨の根もとを貫いて束ねる金具の部分のことを指します。それが物事を束ねるのに欠かすことができないものということを言い表すようになったわけですが。ここでは、「かなめ石」ということですけど。それは当時の世界の建物の土台が石を組み合わせて作ってあったように、そのかなめ石をまず置くことによって、そのかなめ石に様々な形の石が組み合わせていったのです。するとかなめ石によって倒れにくい建物が出来ることになったのです。                             
確かに見た目というもの建物の大切な要素でありましょう。けれどもさらに大切なことがあります。それは、目に見えていない基礎の部分にあります。なぜならこの基礎の土台がいい加減で脆弱なら、いくら立派で高級なものに見えても、災害など何か起きれば、もろくも崩れ去ってしまうからです。
教会の土台のかなめ石はイエス・キリスト。「かなめ石、イエス・キリストにおいて、建物全体はしっかりと組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住いとなるのです」とあります。           
平和と和解の主であるキリストをわたしたちの生きる土台として、共に建て上げられ、ゆたかな聖霊のお働きとお導きを戴いて、神の住まいとされることを志してまいりましょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする