礼拝宣教 エフェソの信徒への手紙 4章17~24節
本日はエフェソ4章より御言葉に聞いていきたいと思います。ちなみに、私共が現在使用している新共同訳聖書が出されてから31年後の2018年、4年前に新しい訳の聖書協会共同訳聖書が発刊されました。週報の表面にはその最新の共同訳聖書から本日の箇所をそのまま載せさせて頂きました。いくつかの翻訳がありますが、それぞれ一長一短ありますので、どれが良いとは言えませんが。特に今日の箇所はこちらの新しい訳の方が原語に沿い且つ、良い訳ではないかと私は思います。
さて、本日の箇所でありますが。ここでパウロがエフェソの教会の信徒たちに向けて強い勧めの言葉を書き記しています。 17節には「異邦人と同じように歩んではなりません」とありますが。真の生ける神を知らず、自分勝手に生きようとするいわゆる「異邦人」は、19節以降(共同訳)にあるように、「彼らは感覚が麻痺し、放縦に身を任せ、欲望のままにあらゆる汚れた行いにふけってとどまることを知りません」というような人生を送っています。そういった社会の中でキリストの救いに与り、感謝と喜びで満たされていたはずのクリスチャン。が、しかしいつの間にか救いの恵みも色あせ、もとの異邦人の生き方、神を知らず、神をも畏れない身勝手な生き方に逆戻りしていくという事も起こった。 このエフェソの教会には、そのように「罪を犯しては主イエスによってゆるされた」と、神の恵みに対して慣れっこなってしまって、主イエスが十字架で大きな代償を支払われていることを忘れ、以前のような罪に囚われた生き方に逆戻りしてしまった人たちがいたのです。
パウロはそのような人たちのことを、18節で「神の命から遠く離れています」と、厳しく忠告しています。
聖書教育にこのようなことが書かれていました。「自分の生きたいように生きる」というメッセージのほうが多くの人に受け入れられるのではないでしょうか。それほどに、私たちを取り囲む今の世界は窮屈で、私が私らしく生きることをゆるしてくれない状況があるのだと思います。ですが、私たちが互いに自分の好きな生き方だけを追い求め、正義や倫理をないがしろにされてしまうなら、その先にはきっと、立場の弱い人たちや声を挙げられない人たちに犠牲を強いてしまう世界が生み出されいくのではないでしょうか。」
実際そうだと思います。旧約聖書で神に愛されたダビデ王は、一国を統治し、もはや自分でいくさに出向くことなく神殿で昼寝をした後に町を眺めていましたが。人の妻を見そめ関係を持ち、それを隠すためにその夫が戦死するように仕向けました。神への礼拝は守っていてもその心は「神の命から遠く離れてしまっていた」のです。その後、ダビデ王は預言者を通して自分の犯した深い罪とその過ちを思い知り、神の御前に悔いて塵をかぶってひれ伏しましたが。
21-22節にあるように、「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」と教えさとします。 私たちが本質的に学ばなければならないのは、宗教的な教理や教義、又教会の規約ではありません。イエス・キリストを学ばなければならないのです。イエス・キリストがこの地上に人の子として生まれ、どのように生きられたか、何を大切になさったのか。なぜ十字架の苦難をお受けになったのか。そこから示される神の愛を知ろうと努め、日頃から聖書、そのイエス・キリストのお姿に触れ続けることから、私たちの日々の生活、生き方は形づくられていくのです。
パウロはここで「真理がイエスの内にある」と記していますね。ヨハネ福音書14章6節でイエスさまは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。さらにこの「真理」について、ヨハネ福音書8章32節でイエスさまは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当に弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。 真理はキリストにあり、信じ求める私たちを自由にします。しかしこの「自由」は、自由気まま、自由奔放の自由とは明らかに異なる自由です。それは差別や偏見に囚われない自由であり、自分を守ろうとすることからの自由であり、人を滅びに向かわせる罪からの解放という自由です。キリストは地上においてそのご生涯のすべてを、その自由によって差し出されたのです。それはまさに、罪に滅びるほかない私たちが生きるためです。そのキリストの深い憐み、神の愛こそ真理であり、その真理は私たちを自由にするのです。
本日は23節の「心の底から新たにされて」という言葉をそのまま宣教題としてつけましたが。原語では「心の底」の「底」という言葉はなく、「プニューマ」となっています。これは神の「霊」を表す言葉です。つまり「神さまの霊によって新たにされて」ということなのです。週報の表紙に載せました新しい共同訳でも「心の霊において新たにされて」とある通りです。
創世記で創造主である神さまが人間をお造りになったとき、神さまは人(アダム)の鼻に、ご自身のいのちの息を吹き入れられて人は生きるものとなります。その神の息もヘブライ語で「ルアッハ」、「神の息」、ギリシャ語では「プニューマ」、神の「霊」、「風」(ヨハネ3章)を表わします。この神の息であるプニューマが人のうちに働くことで、人は本来の人として新しく生まれて変って生きることができるのです。
パウロは週報の表面の下ですが、22-23節において、「ですから、以前のような生き方をしていた古い人、すなわち、情欲に惑わされ堕落している人を脱ぎ捨て、心の霊において新たにされ、真理に基づく義と清さの内に、神にかたどって造られた新しい人を着なさい」と勧めます。新共同訳では、「真理に基づいて正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とありますが。それは何か自分の力で、そうしなければならないという意味ではないのです。罪の力に惑わされ滅びに向かうような人生。気づいてもどう生きていいのかもわからず新たな人生が歩めるかどうかと戸惑う者に、「神の霊を受け、キリストを身につけて生きよ」と、強く呼びかけられているのです。
イエスさまはヨハネの福音書16章で、「聖霊、真理の霊が来れば、罪について、義について、また裁きについて、世の誤りを明らかにする」と言われました。神の霊、聖霊はまさに私たちをキリストに結ばせ、キリストの十字架において罪と義と裁き、世の誤りを審(つまび)らかにし、私たちをキリストに倣う新たな人へと造り変えるように導いてくださるのです。この真理の霊、神の霊が私たちの内に臨まれ、キリストの真理に生きる者としてくださいますように。新しい週が、今日のこの御言葉を基にして、キリストにあって歩んでまいりたいいと願います。