2023年10月4日(水)、城下町「丹波篠山」を散策してきました。
今回はその第3回で曹洞宗の 普門山 観音寺をテーマに書いていきます。
丹波篠山へは2011年10月30日に「丹波の王墓、雲部車塚古墳の謎にせまる」という
シンポジウムがあり訪問しており、今回が2回目の訪問です。
城下町「丹波篠山」散策記のIndex
観音寺の基本情報
住所:丹波篠山市河原町165 TEL:079-552-0005
宗派:曹洞宗 山号:普門山 観音霊場:丹波西国観音巡拝第十六番札所
御本尊:釈迦牟尼仏 開山:永禄5年(1562)嶺久(れいきゅう)和尚
住職名: 紀本 亘隆
篠山市雲部の洞光寺の末寺
所在地のGoogleマップを添付しておきます。
境内の写真
上の写真は本堂と庫裡
上の写真は観音堂 十一面観音立像が安置 札所となっています。
上の写真は境内社 裏手に墓所があります。
上の写真は弁天社
入口の「曹洞宗 観音寺」と書かれた石碑は第19世、宏岳宣隆大和尚(昭和41年 2月寂) の時代に建立
現地説明板
上の写真は入口付近に掲示されていた現地説明板です。要旨を転記しておきます。
永禄5年(1562)八上城主波多野晴秀は、深く信仰していた知足村の観音堂を
城下に移築し、洞光寺要山玄的和尚の高弟嶺久(れいきゅう)和尚を開山と
したのが当寺のはじまりです。
本尊は仏師春日または定朝の作という釈迦牟尼仏です。
天正期の戦後は、曽地村に観音寺を造営していました。
篠山城築城後に際し、ここに移されましたが、度々火災にあい、その都度再建されました。平安期作の十一面観音立像(町・文)が安置され、篠山城大書院
篠山城築城後に際し、ここに移されましたが、度々火災にあい、その都度再建されました。平安期作の十一面観音立像(町・文)が安置され、篠山城大書院
の障壁画も残っています。
お寺の歴史
下記サイトに観音寺の歴史について引用紹介されていましたのでそのまま転記
江戸末期のたたずまいを残し、妻入り商家が建ち並ぶ河原町の通りを200メートルほど行くと、いかにも禅寺らしい「観音寺」がある。ご本尊は、仏師春日または定朝の作という釈迦牟尼如来坐像であり、丹波西国観音巡拝第十六番札所になっている。
永禄5年(1562)、波多野晴秀(晴通)公はかねて崇敬していた知足村西山麓(今の観音寺谷というところ)の「観音堂」を八上城下に移築のうえ、
母の秋臨院殿葉山妙紅大禅定尼を施主に、洞光寺の要山玄的大和尚の高弟嶺玖和尚を開山として観音寺を創建したのが、当寺のはじまりである(今も、八上に観音寺屋敷の地名がある)。
篠山に築城後、この地に移されたが、寛文10年(1670)、正徳4年(1714)、享保5年(1720)と焼失し、その都度再建された。
観音堂の木像十一面観音立像(町・文)は平安期の作で、もと東新町割場の
「宝寿院」の観音堂にあったのを奉安したものであり、古くは、三岳の寺院
にあったと言われている。また、篠山城大書院の障壁画や、南画の平地藍岳
の襖絵がある。最近山門と観音堂が立派に改修された。
永禄5年(1562)、波多野晴秀(晴通)公はかねて崇敬していた知足村西山麓(今の観音寺谷というところ)の「観音堂」を八上城下に移築のうえ、
母の秋臨院殿葉山妙紅大禅定尼を施主に、洞光寺の要山玄的大和尚の高弟嶺玖和尚を開山として観音寺を創建したのが、当寺のはじまりである(今も、八上に観音寺屋敷の地名がある)。
篠山に築城後、この地に移されたが、寛文10年(1670)、正徳4年(1714)、享保5年(1720)と焼失し、その都度再建された。
観音堂の木像十一面観音立像(町・文)は平安期の作で、もと東新町割場の
「宝寿院」の観音堂にあったのを奉安したものであり、古くは、三岳の寺院
にあったと言われている。また、篠山城大書院の障壁画や、南画の平地藍岳
の襖絵がある。最近山門と観音堂が立派に改修された。
「丹波篠山五十三次ガイド(改定版)」(平成7年8月発行)より
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